第2話 白百合の祈り
噂が王都に行き渡った頃、セレスティアはいつものように孤児院を訪れた。
侍女のミーナは、馬車の中で何度も言った。
「お嬢様、まだお休みになったほうがよろしいのではありませんか」
「どうして?」
「どうして、ではございません。王都中が、お嬢様のことを噂しております」
セレスティアは窓の外を見ていた。
南区へ近づくほど、石畳は荒れ、家々の屋根は低くなった。路地の奥では、薄い外套をまとった子どもが、かじかんだ手を息で温めている。
「だからこそ、行かないと」
「お嬢様」
「子どもたちは、私が来ないと心配するわ」
孤児院に着くと、子どもたちはいっせいに彼女へ駆け寄った。
「セレスティア様!」
「大丈夫?」
「王子様は、セレスティア様をいじめたの?」
ミーナが慌てて止めようとした。
けれどセレスティアは、子どもたちの前に膝をつき、いつものように微笑んだ。
「私は大丈夫よ」
「本当?」
「本当です」
彼女は、一人の幼い少女の冷えた手を両手で包んだ。
「今日は皆で祈りましょう。この家の屋根が、次の冬には雨を通さなくなりますように。皆が、暖かい毛布で眠れますように」
子どもたちは素直に目を閉じた。
ミーナは、その光景を見つめて唇を噛んだ。
この方は、自分が傷つけられたことよりも、子どもたちの冬を案じている。
そう思うと、胸の奥が熱くなった。
帰り際、セレスティアは孤児院の台所を手伝っていた若い娘に声をかけた。
ミーナの妹、ニーナである。
ニーナは王宮の厨房にも出入りしており、時々、王宮から余った茶葉や菓子を孤児院へ分けてもらう手伝いをしていた。
「ニーナ」
「はい、セレスティア様」
「いつも清潔なお茶や菓子を用意してくださってありがとう。あなたのように細やかな方がいてくださると、子どもたちも安心して口にできます」
ニーナは頬を赤らめた。
「私なんて、ただの下働きです」
「いいえ」
セレスティアは首を振った。
「小さな違いに気づける方は、誰かを守れる方です」
それは、ただの感謝の言葉に聞こえた。
ニーナは深く頭を下げた。
その日の帰り、馬車が南区の通りを抜ける頃、セレスティアはふと窓の外を見たまま呟いた。
「そういえば、毒が盛られた茶会の日の菓子包み」
ミーナは顔を上げた。
「菓子包み、でございますか」
「ええ。南区の蜜蝋の匂いがしたわ」
「南区の……?」
「孤児院で使っている蝋と、よく似ていたの。王宮の茶会では、少し珍しいと思っただけ」
セレスティアは、それだけ言って目を伏せた。
「私が言えば、言い逃れに聞こえるでしょうけれど」
「お嬢様……」
「ただ、リリア様がまた同じものを口にされないとよいのだけれど」
ミーナは息を呑んだ。
毒を盛ったと疑われているのに、なおリリアの身を案じている。
その優しさに胸を打たれながらも、ミーナは同時に、妹の顔を思い浮かべていた。
王宮と南区の台所を知っているニーナなら、その匂いが分かるかもしれない。
その日のうちに、ミーナは妹へ手紙を書いた。
茶会で使われた菓子包みに、南区の蜜蝋の匂いがしたらしい。
もし包み紙が残っているなら、念のため確かめてほしい。
何か気づいたことがあれば、侍女長に伝えてほしい。
そう書きながら、ミーナは思った。
お嬢様は、やはりお優しい。
ご自分が毒を盛ったと疑われているのに、まだリリア様のことを案じていらっしゃるのだ。
◇
王宮では、アーヴィンが焦りを募らせていた。
婚約破棄は正しい判断だったはずだ。
彼はリリアを守った。悪しき公爵令嬢から、か弱い聖女候補を救った。
そのはずなのに、民の目は冷たかった。
王太子が視察に出れば、街角に白百合が置かれている。
王宮の侍女たちは、彼を見ると口をつぐむ。
貴族令嬢たちは、リリアに丁寧に礼をしながらも、決して親しげには話しかけない。
「なぜだ」
アーヴィンは苛立っていた。
「私は正しいことをしたのに」
そのそばには、グレン子爵令息がいた。
グレンは王太子の側近で、リリアの支援者として、王宮内で静かに人を動かしていた。
リリア付きの侍女。
菓子を運ぶ下働き。
王太子の噂を好む若い令息たち。
彼らは少しずつ、同じ方向を向き始めた。
セレスティアは嫉妬している。
聖女候補は怯えている。
王太子は彼女を守らなければならない。
そんな筋書きが、王宮の廊下を静かに流れていった。
リリアは、少しずつ自分が分からなくなっていた。
自分は本当に、セレスティアに傷つけられたのだろうか。
それとも、傷ついたように振る舞うことを望まれていただけなのだろうか。
その日の午後、リリアは王宮の小礼拝堂でセレスティアとすれ違った。
セレスティアは祈りを終えたところだった。
リリアは、思わず足を止めた。
「セレスティア様」
セレスティアも足を止める。
「リリア様。お体はもうよろしいのですか」
リリアは答えられなかった。
その声が、あまりにも穏やかだったからだ。
自分を傷つけた相手なら、どうしてこんなふうに案じるのだろう。
けれど、自分を傷つけていない相手なら、どうして自分はこんなに怯えているのだろう。
リリアは、胸元を握りしめた。
「私……分からないのです」
セレスティアは、静かに彼女を見つめた。
「何が、でしょう」
「何を信じればよいのか。誰の言葉を信じればよいのか。殿下はあなたが悪いとおっしゃいます。グレン様たちも、皆、そうだと……でも」
リリアの声が震えた。
「でも、あなたはいつも、私を責めません」
セレスティアは、少しだけ目を伏せた。
「責めれば、あなたは楽になりますか」
リリアは息を呑んだ。
「私は……」
「リリア様」
セレスティアは、そっと彼女の名を呼んだ。
「あなたの涙は、誰かの言葉を証明するためのものではありませんわ」
リリアは顔を上げた。
「涙は、あなた自身のものです。誰かを罪人にするために、使われてよいものではありません」
リリアは、何も言えなかった。
セレスティアはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、祈るように微笑んで、その場を去った。
その言葉は、リリアの胸に残り続けた。
誰かの言葉を証明するためのものではない。
誰かを罪人にするために、使われてよいものではない。
では、自分の涙を使っているのは誰なのか。
誰が、自分に泣くことを望んでいるのか。
リリアは初めて、王太子の側近たちを見る目を変えた。
◇
小さな違和感を最初に確かめたのは、ニーナだった。
彼女は姉からの手紙を読んで、王宮の菓子庫へ向かった。
リリアが倒れた茶会の後片づけは、もうほとんど終わっている。
毒の有無は近衛が調べた。
茶器も、茶葉も、菓子皿も確認された。
だが、包み紙は違った。
下働きがまとめて処分するだけのものだったからである。
ニーナは、焼却前の紙束の中から、茶会で使われた菓子包みを探した。
指先に、かすかな甘い匂いが移る。
王宮で使う香料入りの封蝋ではない。
南区の安い蜜蝋だ。
孤児院の台所で、何度も嗅いだ匂いだった。
「どうして、王宮の菓子に南区の蝋が……?」
ニーナは青ざめた。
その包み紙の端には、王宮厨房の印ではなく、南区の小さな菓子工房の焼き印がかすかに残っていた。
そこは、数日前にグレン子爵家の従者が出入りしていた店だった。




