第1話 白百合の断罪
セレスティア・アルヴェール公爵令嬢は、白百合のようだ。
そう言ったのは、王都の南区にある孤児院の子どもたちである。
南区の孤児院は古かった。
雨の日には天井から水が落ち、冬には隙間風が子どもたちの寝台を冷やした。薬棚はいつも空に近く、熱を出した幼子には、祈りと濡れ布くらいしか与えられない日もあった。
セレスティアは、その孤児院を改修したいと、何度も王宮へ願い出ていた。
けれど、返事はいつも同じだった。
予算が足りない。
時期が悪い。
ほかに優先すべき事業がある。
それでも彼女は、毎週、質素な白いドレスで孤児院を訪れた。
膝をついて子どもたちの手を取り、熱を出した幼子の額に、自ら濡れ布を当てた。
高位貴族の令嬢がすることではない、と眉をひそめる者もいた。
けれどセレスティアは、いつも穏やかに微笑むだけだった。
「誰かが苦しんでいるのを見るのは、苦手なのです」
その声は、冬の朝の鐘のように澄んでいた。
だから誰も、本気で信じてはいなかった。
彼女が聖女候補リリアを妬み、靴に針を入れたなどという噂を。
彼女が王太子殿下の寵愛を失った腹いせに、リリアを階段から突き落とそうとしたなどという話を。
彼女が婚約者の座にしがみつくため、王宮の侍女を脅したなどという証言を。
けれど、噂は消えなかった。
悪意は、真実よりも早く広がる。
そして善意は、時に遅すぎる。
王太子アーヴィン殿下が、セレスティアとの婚約破棄を宣言したのは、春の園遊会の日だった。
王宮の薔薇が、いっせいに咲き誇る季節である。
「セレスティア・アルヴェール」
王太子の声が、庭園に響いた。
楽師の奏でる曲が止まり、貴族たちの談笑が途切れた。誰もが息をひそめ、王太子と、その前に立つ公爵令嬢を見つめていた。
セレスティアは、白いドレスを着ていた。
飾り気のない絹のドレスである。首元には真珠が一粒だけ。手袋も、靴も、髪に挿した花も、すべて白かった。
まるで、これから断罪される者ではなく、聖堂で祈りを捧げる者のようだった。
王太子アーヴィンは、そんな彼女を見て、一瞬だけ言葉を失った。
だが、すぐに隣の少女の手を握り直した。
聖女候補リリア。
淡い金髪に、空色の瞳。平民出身でありながら癒やしの力を授かった、可憐な少女だった。
リリアは王太子の陰に隠れるようにして、震えていた。
「私は、君との婚約を破棄する」
王太子は言った。
「君はリリアを傷つけた。彼女の靴に針を入れ、階段で突き飛ばし、茶会では毒を盛ろうとした。これ以上、君を王太子妃に迎えることはできない」
庭園がざわめいた。
誰かが小さく、「やはり」と呟いた。
誰かが、「でも、セレスティア様がそんなことを」と首を振った。
セレスティアは、少しも取り乱さなかった。
ただ静かに、王太子を見つめていた。
「殿下。リリア様を、どうかこれ以上お泣かせにならないでくださいませ」
アーヴィンは、はっとしたように顔を上げた。
次の瞬間、その表情に怒りが戻る。
「泣かせたのは君だろう、セレスティア」
庭園の空気が、ぴんと張りつめた。
リリアが、小さく息を呑む。
セレスティアは、何も言い返さなかった。
ただ、王太子の背に隠れる少女を見た。
リリアは顔を青ざめさせ、両手で胸元を握りしめていた。今にも倒れてしまいそうなほど、細い肩が震えている。
セレスティアは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「はい。そう見えてしまったのなら、私にも至らぬところがあったのでしょう」
「認めるのか」
「いいえ」
セレスティアは静かに首を振った。
「ですが、リリア様が怖い思いをされたことまで、なかったことにはできません」
リリアの瞳が揺れた。
「リリア様」
セレスティアは、そっと彼女の名を呼んだ。
「どうか、ご自分をお責めにならないでください」
「セレスティア様……」
「怖かったのでしょう。おつらかったのでしょう。ならば今は、殿下のお側でお休みになってください」
庭園に、かすかなざわめきが広がった。
その場にいた貴族たちは、互いに顔を見合わせた。
婚約を破棄されようとしている令嬢が、泣いている相手を気遣っている。
罪を否定しながらも、相手の恐怖までは否定しない。
それはあまりに静かで、あまりに清らかだった。
アーヴィンは言葉に詰まった。
彼はセレスティアを疑っていた。
疑っているはずだった。
それなのに、目の前の彼女は、悪意からもっとも遠い場所に立っているように見えた。
「セレスティア」
アーヴィンの声が、わずかに揺れた。
セレスティアは、いつものように穏やかに微笑んだ。
「殿下。どうか、リリア様をお守りくださいませ」
その日、セレスティアは婚約者の座を失った。
だが同時に、別のものを手に入れた。
民衆の同情である。
◇
王都には、三つの噂が流れた。
一つ目は、王太子が聖女候補に心を奪われ、婚約者を捨てたという噂。
二つ目は、セレスティアが嫉妬に狂い、聖女候補を害そうとしたという噂。
三つ目は、セレスティアが最後までリリアを案じ、涙一つ見せずに婚約破棄を受け入れたという噂だった。
人々は、三つ目の噂を最も好んだ。
清廉な者が虐げられる物語は、人の心を掴む。
まして、その清廉な者が美しく、優しく、決して恨み言を口にしないなら、なおさらである。
孤児院の子どもたちは、泣きながらセレスティアの帰りを待った。
「セレスティア様は悪くない」
「リリア様をいじめたりしない」
「だって、セレスティア様はいつも祈ってくださるもの」
王都の女たちは、白百合の花を買った。
若い令嬢たちは、白いリボンを髪に結んだ。
詩人たちは、彼女を讃える詩を書いた。
白百合の令嬢。
いつしか、セレスティアはそう呼ばれるようになった。




