第3話 白百合の裁き
ニーナにできたのは、それを侍女長へ報告することだけだった。
「気のせいかもしれません。でも、王宮の包み紙ではないと思うんです」
侍女長は、最初は顔をしかめた。
だが、その侍女長もまた、以前セレスティアから声をかけられたことがあった。
王妃の衣装部屋で、白い手袋を整えていた時のことだ。
「王妃陛下のお側に、あなたのような誠実な方がいらっしゃることが、この国の幸いです」
そう言われた時、侍女長はただ恐縮した。
公爵令嬢の何気ない礼儀だと思った。
けれど今、その言葉が胸の奥で灯った。
誠実な者であるなら、小さな報告を握りつぶしてはならない。
侍女長は、王妃付きの女官へ報告した。
女官は、王妃へ伝えた。
そして王妃は、近衛に命じて静かに調査を始めさせた。
そこから、次々と不審な点が見つかった。
リリアの靴に針を入れたのは、セレスティアではなかった。
リリア付きの若い侍女である。
その侍女は、数日前にグレン子爵令息の従者と会っていた。
階段でリリアを転ばせたのも、セレスティアではなかった。
群衆に紛れたグレンの従兄弟が、リリアのドレスの裾を踏んでいた。
茶会でリリアを倒れさせた毒は、セレスティアが用意したものではなかった。
菓子は王宮厨房のものに見せかけられていたが、一度、南区の菓子工房で包み直されていた。
そこに、少量の毒が仕込まれていたのである。
すぐに命を奪うほどではない。
だが、聖女候補が茶会で倒れれば、王宮は大騒ぎになる。
その席にセレスティアがいれば、疑いは彼女へ向かう。
アーヴィン王太子は、報告書を読みながら蒼白になった。
「どういうことだ」
誰も答えなかった。
リリアは震えていた。
「私……セレスティア様を、ずっと疑って……」
王太子は拳を握りしめた。
「グレンを呼べ」
だが、グレンはすでに王都から姿を消していた。
残された屋敷からは、隣国との書簡が見つかった。
グレン子爵家は、隣国と通じていたのである。
目的は、王家とアルヴェール公爵家の分断。
王太子の失脚。
聖女候補リリアの利用。
そして、必要がなくなれば、リリアの命も危うかった。
リリアが傷つけば、セレスティアの罪にできる。
セレスティアが裁かれれば、公爵家は王家に反発する。
公爵家が反発すれば、国は割れる。
隣国は、その混乱に乗じて国境を越えるつもりだった。
グレンは、セレスティアを悪役にすることで、国を壊そうとしていた。
だが、計画は途中で露見した。
きっかけは、菓子包みに残った蜜蝋の匂いだった。
王宮の者なら見過ごしたかもしれない。
近衛でも、ただの包み紙として捨てたかもしれない。
けれど、南区と王宮の台所をどちらも知るニーナだけは、その匂いに気づいた。
侍女長は報告を握りつぶさず、王妃は近衛を動かした。
リリアは、自分の涙に疑問を持ち始めた。
小さな違和感は、やがて王宮の奥へ届いた。
◇
王宮からの使者が孤児院に到着したのは、雨の日だった。
セレスティアは、礼拝堂で子どもたちと祈っていた。
古びた木の長椅子。
雨音の響く窓。
白百合の花が飾られた小さな祭壇。
そこへ、王太子アーヴィンと聖女候補リリアが入ってきた。
孤児たちは驚き、身を寄せ合った。
ミーナはセレスティアの前に立とうとした。
だが、セレスティアはそれを制した。
「殿下、リリア様」
彼女は静かに立ち上がり、深く礼をした。
「このような場所へ、ようこそお越しくださいました」
アーヴィンは、その姿を見て胸が詰まった。
王宮を追われても、彼女は美しかった。
むしろ、白い礼拝堂の中に立つ姿は、王宮にいた頃よりもずっと近寄りがたかった。
「セレスティア」
王太子は、掠れた声で言った。
「私は、君に謝らなければならない」
リリアも膝をついた。
「セレスティア様、申し訳ありませんでした。私、怖かったのです。何を信じればよいのか分からなくて、殿下や皆様の言葉にすがってしまいました」
「リリア様」
セレスティアは、リリアの前に膝をついた。
そして、その手を取った。
「もう、泣かないでくださいませ」
リリアの涙が、セレスティアの白い手袋に落ちた。
「私、あなたを疑いました。あなたが本当に私を傷つけたのだと、思おうとしていました。そう思えば、怖さの理由が分かる気がしたのです」
セレスティアは、静かにリリアを見つめた。
「怖かったのでしょう」
リリアの涙が、もう一粒落ちた。
「はい……」
「それなら、今は休んでください。傷ついた心で、すべてを正しく見ることは難しいものです」
「セレスティア様……」
「あなたが来てくださっただけで、十分です」
その場にいた者たちは、皆、胸を打たれた。
この人は、なんと清いのだろう。
自分を疑い、遠ざけた相手を、なお受け入れるのか。
王太子は膝をついた。
「セレスティア、婚約破棄を撤回したい」
礼拝堂がざわめいた。
セレスティアは、静かに王太子を見つめた。
「それはできません、殿下」
「なぜだ」
「一度こぼれた水は、同じ杯には戻りません」
その声は優しかった。
だからこそ、残酷だった。
「私は殿下を恨んでおりません。けれど、もう以前のようにお側に立つことはできません」
「セレスティア……」
「どうか、ご自分のなさったことを、お忘れにならないでくださいませ」
その一言に、アーヴィンは顔を歪めた。
園遊会の日、彼女は言った。
どうか、リリア様をお守りくださいませ。
彼は守れなかった。
リリアも、セレスティアも、自分の国も。
その事実が、彼を深く打った。
「償わせてほしい」
アーヴィンは言った。
「私にできることなら、何でもする」
セレスティアは、困ったように微笑んだ。
「私のためではなく、子どもたちのために」
その声は、あまりにも清らかだった。
王太子は、深く頭を下げた。
◇
グレン子爵令息は、国境付近で捕らえられた。
その取り調べにより、隣国と通じていた貴族たちの名が次々と明らかになった。
彼らの多くは、王太子の側近を名乗り、リリアを支援し、セレスティアを中傷していた者たちだった。
王宮は大きく揺れた。
王太子アーヴィンは、継承権を失い、王籍から外されることになった。
王妃は公の場でセレスティアに謝罪し、王家はアルヴェール公爵家へ多額の慰謝料を支払うことになった。
リリアは、教会から切り離され、アルヴェール公爵家の保護下に入った。
彼女は自ら望んで、孤児院で働くようになった。
そしてセレスティアは、民衆からますます支持されるようになった。
王都の南区には、新しい救護院が建てられることになった。
名前は、白百合救護院。
設立資金は、王家からの慰謝料と、民衆からの寄付である。
古い孤児院は取り壊され、子どもたちの寝室には暖炉が置かれることになった。
雨漏りのする屋根はふさがれる。
空だった薬棚には、冬を越すための薬が並ぶ。
セレスティアが願い続けてきたことだった。
人々は言った。
「セレスティア様こそ、この国の良心だ」
「白百合の令嬢を、王家は二度と傷つけてはならない」
「彼女の祈りが、国を救った」
王都には、白百合の花があふれた。
◇
すべてが終わった夜、宰相は一人で書類を読み返していた。
グレン子爵令息の供述書。
王妃付き女官の報告書。
王都に広がった白百合の噂。
半年前に却下された孤児院改修の嘆願書。
菓子包みに残っていた蜜蝋の調査記録。
そして、グレンの屋敷から見つかった一通の手紙。
差出人の名はない。
宛名もない。
筆跡も、誰のものか分からなかった。
封には、安い蜜蝋が使われていた。
王宮で使われる香料入りの封蝋ではない。南区の商家や工房でよく使われる、甘く重い匂いのする蜜蝋である。
リリアが倒れた茶会の菓子包みにも、同じ匂いが残っていた。
そこには、短くこう書かれていた。
『王太子は涙に弱い。聖女候補を使えば、必ず動く。
あの男は、遠くの寒さより、目の前の涙を選ぶ。
アルヴェール公爵家との婚約を壊せ。王宮の均衡は崩れる。
公爵令嬢は悪女に仕立てよ。人の多い場で断罪すれば、噂は育つ。
王太子が公爵家を切れば、王家は内側から割れる。その後、国境を動かす』
宰相は、手紙を机に置いた。
国内に潜む隣国の間者が、グレンに渡した密書。
そう見れば、筋は通っていた。
実際、グレンはその通りに動いた。
王太子は聖女候補リリアに傾いた。
園遊会で婚約破棄が宣言され、王都には噂が広がった。
王家とアルヴェール公爵家は、一度は決裂しかけた。
だが、結果は違った。
グレンは捕らえられた。
隣国と通じていた貴族たちは一掃された。
王太子は王籍から外されることになった。
リリアは教会から切り離され、アルヴェール公爵家の保護下に入った。
王家は慰謝料を支払い、南区の孤児院は白百合救護院へ変わる。
王太子は王籍から外されることになった。
第二王子ユリウスが、次の継承者として名を挙げられた。
そして、その婚約者候補に最もふさわしい令嬢の名を、誰もが思い浮かべていた。
宰相は、ふと指を止めた。
この流れで、最も得をしたのは誰だ。
この手紙の、本当の送り主は誰だ。
宰相はゆっくりと顔を上げた。
執務室の花瓶には、昼の式典で民から贈られた白百合が活けられていた。
白く、清らかで、少しも汚れを知らぬような花だった。
宰相は、その花を見つめたまま、しばらく息をすることも忘れていた。
◇
翌朝、白百合救護院の建設予定地には、多くの民が集まっていた。
古い孤児院は、もう取り壊しが始まっている。
雨漏りのする屋根はなくなる。
隙間風の入る寝室もなくなる。
空だった薬棚には、冬を越すだけの薬が並ぶ。
ミーナは、隣に立つ主の横顔を見つめていた。
「お嬢様。今回は、本当に大変でしたね」
セレスティアは、建設予定地の向こうに広がる王都を見た。
細い路地。
煤けた屋根。
冬の寒さに震える子どもたち。
そして、その向こうにそびえる王城。
「ええ」
セレスティアは、穏やかに微笑んだ。
「民の寒さに気づかない方が、玉座に座るべきではないと思うの」
「え……?」
ミーナは思わず、主の横顔を見た。
けれどセレスティアは、いつもの柔らかな表情で微笑んでいた。
「民の皆が、暖かく過ごせることが嬉しいわ」
その声は、どこまでも優しくて、ミーナはほっとした。
そうだ。
お嬢様は、いつも誰かの寒さを案じている。
誰よりも優しく、誰よりも清らかな方なのだ。
セレスティアは、祈るように目を伏せた。
「私の国民が、暖かい家で眠れますように」
一切の汚れを知らない、純白の令嬢。
白百合の花言葉は、純潔。
そして、威厳。
ミーナには、ただ美しい花に見えた。
けれど、穢れのない白など、本当にこの世に咲くのだろうか。
民衆が掲げる白百合が、風に揺れる。
その花弁は、あまりにも白かった。
祈りにも、裁きにも見えるほどに。




