第7話 書類なしで
数週間後、父の書斎で、一通りの報告を聞いた。
両家が払った修繕費は、アドリアン様の私的な借金の穴埋めと遊興に使われていた。彼のお父上が全額を立て替えて両家へ返し、彼は別邸の管理から外された。私有の馬車や宝飾品は、家への返済のために手放したという。夜会で募っていた出資の話も、一つ残らず立ち消えになった。首飾りなど婚約に関わる品は、すでに代理人へ預けてある。
お父上のご体調は、もとから少し風邪を召した程度だったそうだ。
父はそこまで話すと、机の引き出しを開けて、一枚の紙を出した。いつか私が数字を書き並べた覚え書きだった。
「返された額と、照らし合わせておきなさい」
私は覚え書きと、代理人の報告書を並べた。返還された六百枚は、二つの送金控えの日付ごとに分けて記されていて、どこにも合わないところはなかった。
報告書の後ろには、アドリアン様の借金の相手が並んでいた。その中にはベルナーという名もあり、その欄の利息だけが高かった。
「合っています」
「そうか」
父はそれだけ言って、覚え書きを引き出しに戻した。
*
その翌週、リディア嬢からお茶への招待状が届いた。
「一緒にお茶をしませんか。今度は、婚約破棄の相談ではなく」
私は一番評判のいい店で、糖衣のたっぷりかかった焼き菓子を一箱買って出かけた。
店先には、糖衣の色だけで五種類も並んでいた。白、薄紅、檸檬の黄色。彼女ならどれを喜ぶだろうと考えて、結局、一番糖衣の厚いものを選んだ。迷う時間は、思っていたよりずっと楽しかった。
包んでもらうのを待っているあいだに、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのはアドリアン様だった。外套の裾に泥がはねていた。店の前に、馬車は停まっていなかった。
彼は私に気づかずに帳場の前に立った。
「いつものを一箱。家の付けで」
店主は帳面を開かなかった。
「申し訳ございません。お家のお付けは、先月、お父上のお使いの方が閉じていかれました」
棚の前で菓子を選んでいた婦人が、手を止めて顔を上げた。
アドリアン様は外套の内側を探って、硬貨を何枚か帳場に並べた。一箱には足りなかったらしく、店主は黙って小さな箱を出してきた。
振り返ったところで、彼は私に気づいた。目が私の手元の箱に落ちた。蓋の小窓から、糖衣の白が見えていた。
「……やっぱり、君は糖衣が好きなんじゃないか」
夜会の広間で聞いたのと同じ、柔らかい声だった。
「リディア様の分です。これから、お茶に伺うので」
私は店主から箱を受け取り、会釈をして、彼の横を通って店を出た。うしろで、扉の鈴がもう一度鳴った。
通りを歩きながら、蓋の小窓から焼き菓子を数えた。十二個あった。リディア嬢なら、三つ目あたりで紅茶のお代わりを頼むだろうと思った。
*
リディア嬢は玄関まで迎えに出てきてくれた。
「見て。今日は書類を一枚も出していないのよ」
日当たりのいい居間へ案内しながら、彼女はそう言って胸を張った。後ろについてきたハンナが、扉を開けながら何も言わずに前を向いていた。
通された部屋の卓には、すでに皿が並んでいた。胡桃の焼き菓子、乾酪を練り込んだ塩気のあるもの、砂糖を控えた果実の焼き菓子。どれも甘さ控えめで、どれもたっぷりあった。
「あなたの好み、覚えていたのよ。二つ目も三つ目も食べられるように」
得意げなリディア嬢の前で、私は箱の蓋を開けた。糖衣が、窓の光を受けてつやつやと光っていた。
「……私も、覚えていました」
リディア嬢は箱の中を覗き込んで、それから卓の皿を見て、もう一度箱を見た。
二人分にはどう考えても多すぎる菓子が、卓の端まで埋まった。
「夕食までいらっしゃるおつもり?」
「リディア様こそ、何人お招きになるつもりだったんですか」
ひとしきり笑ったところで、ハンナが新しいお茶を運んできた。卓を見渡し、ポットを置く場所を探して、しばらく手を止めた。私たちは慌てて皿を寄せ、ポットの分の隙間を作った。
ハンナは何も言わずにポットを置き、下がっていった。扉が閉まってから、リディア嬢が小さく言った。
「あとで、ハンナにも持っていってもらいましょう」
「糖衣のほうを、ですか」
「ハンナは塩気のあるほうが好きなの」
知らなかった、と言うと、リディア嬢は「三年かかって覚えたのよ」と笑った。
持ち帰る分は、二人で決めた。胡桃の焼き菓子は私が持ち帰り、糖衣のものはこちらに残し、乾酪のものはハンナに。残りを皿に取り分けたところで、リディア嬢が思い出したように身を乗り出した。
「そういえば、領地の水車。修繕費はどうなったの?」
私は焼き菓子を一つ取り、見積もりが去年より安く済んだ話から始めた。
リディア嬢は糖衣の菓子をかじりながら、途中で何度も質問を挟んだ。どこの職人に頼んだのか。どうして去年より安いのか。羽根板を替えたのは何枚か。
私は一つずつ答えた。答えながら、二つ目の焼き菓子に手を伸ばしていた。
*
数日後、今度はリディア嬢が私の家に来た。
居間に通すなり、彼女は手提げから封筒を一通出した。
「ねえ、これ。あなたのところにも来ていない?」
私は自分の部屋から、今朝届いたばかりの封筒を取ってきた。卓の上に、二通を並べる。
同じ封筒、同じ筆跡。差出人は、男爵家のクララという令嬢だった。二人とも、その名に覚えがなかった。
リディア嬢の手紙を広げると、私が今朝読んだのと同じ文面だった。
「突然のお手紙をお許しください。お二人に、私の婚約のことで相談したいのです」
私たちは、顔を見合わせた。
お読みいただきありがとうございます!
「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。
Xでも更新情報などを発信しています。
よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!
https://x.com/st_shosetsu




