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婚約者のもう一人の婚約者から、「一緒に婚約破棄しませんか」と手紙が届きました  作者: 白川 透


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第6話 どちらとも

 壁際から代理人が進み出て、書類の束を私に手渡した。


「同じ別邸の、同じ工事の見積書です。私の家から三百枚、リディア様のお家から三百枚。どちらの送金にも、あなたの受領書があります。それから、工事業者の回答です。別邸の工事は、どこからも発注されていないそうです」


 アドリアン様は書類に目を落とさなかった。代わりに、困った子供を見るような顔で私を見た。


「こんな場で帳簿の話かい。君は本当に細かいね、セシリア」


 その言葉を、前に聞いたときのことを覚えていた。あのときは、次に尋ねるはずだった言葉を飲み込んだ。


「細かい話ではありません。三百枚の工事に、六百枚をお受け取りになっています」


 今度のざわめきは、さっきより低かった。最初に彼の紹介を受けた年配の紳士が、連れの方に「今夜の話は、改めて」とだけ言って、手にしていた杯を給仕の盆へ戻した。その隣で話を聞いていた商人風の客も、目を合わせないまま輪を離れていった。


 アドリアン様の声が、初めて大きくなった。


「リディアとは、とうに断ったつもりだったんだ。それを彼女が納得しないで、押しかけてきただけで――」


 彼は私の方へ向き直り、声を和らげた。


「結婚するのは前から君だ、セシリア。予定は何も変わらない。君まで彼女の話に振り回されることはないんだ」


 以前、私の仕事の話を聞いてくれたときと同じ、穏やかな声だった。それが今は、少しも嬉しくなかった。


 隣で、リディア嬢が息を吸う音がした。


「押しかけた、とおっしゃるの。あなたが、私のそういうところが好ましいと……」


 その先が続かなかった。


 リディア嬢は笑顔のままだった。顎も上げたままだった。ただ、次の言葉だけが出てこなかった。あの日、私の家の居間でカップの縁を見ていたときと、同じ途切れ方だった。


 今度は、皿を寄せるだけでは足りない。


「断ったとおっしゃるなら、リディア様のお家の修繕費は、なぜ返されていないのですか」


 アドリアン様が口を開きかけたが、私は待たなかった。


「リディア様は、私を振り回してなどいません。事実を知らせてくださった方です。それに、私はあなたに結婚相手として選んでいただくために、ここへ来たのではありません。自分の婚約を終わらせるために来ました」


 彼の顔から、笑顔がようやく落ちた。


 私は一度だけ、手の中の書類を持ち直した。


「アドリアン様。本日をもって、私はあなたとの婚約を破棄いたします」

「私も、自分の意思で、あなたとの婚約を破棄します」


 リディア嬢は一呼吸もおかずに続けた。さっき途切れた声とは思えないほど、まっすぐな声だった。それから顎をもう少し上げて、付け加えた。


「押しかけてきた女の、最後のお願いだと思って聞いてくださいな」

「待ってくれ、どちらかとは――」

「どちらとも、です」


 私が答えると、彼はしばらく何も言わなかった。どちらか一人は残るものだと、本気で思っていたのだろう。やがて、絞り出すように言った。


「セシリア、君はこんなことをする人じゃなかっただろう」

「ええ。細かいものですから、数字が合わないのを見過ごせなくなりました」


 私は書類を揃えて、角を合わせた。


「お預けした修繕費、各三百枚、合わせて六百枚の返還を請求します。書類は両家の代理人がお預かりしています」

「わかった。わかったから、返金の話は別室で――」

「いいえ。お話は代理人となさってください」


 リディア嬢が言い、代理人たちがアドリアン様の前へ進み出た。私は書類を渡した。手提げの中には、もう何も残っていなかった。


 どちらからともなく、私たちは出口へ向かった。客たちは何も言わずに道を空けた。並んで歩きながら、リディア嬢が前を向いたまま小声で言った。


「ごきげんようより、ずっときれいに揃ったわね」


 私は笑いそうになるのをこらえて、扉をくぐった。振り返ると、彼は代理人に挟まれたまま、まだ広間の同じ場所に立っていた。


*


 外の空気に触れたところで、急に膝が笑い出した。


 階段を一段下りるたびに、足の裏が地面を確かめそこねる。馬車までの短い距離が、来たときの倍ほどに感じられた。どうにか乗り込んで扉が閉まると、リディア嬢が私の手を握った。


「震えてる」

「リディア様もです」


 握られた手も、握っている手も、同じくらい冷たかった。どちらが先に震えだしたのかは、わからなかった。


 しばらく、そのまま揺られていた。膝の上の手提げは、来るときよりずっと軽かった。


 やがてリディア嬢が窓の外を見ながら言った。


「さっき、続きを言ってくれてありがとう」

「……私が言いたかったことを、言っただけです」

「それでも」


 リディア嬢はそれ以上は言わなかった。代わりに、握った手に少しだけ力を込めた。


「今度、ゆっくりお茶をしましょう。書類なしで」

「ええ。書類なしで」

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