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婚約者のもう一人の婚約者から、「一緒に婚約破棄しませんか」と手紙が届きました  作者: 白川 透


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5/9

第5話 扉が開いたら

 馬車の中で、リディア嬢はずっと話していた。


 夜会の楽団は去年と同じ顔ぶれらしいこと。昔の舞踏会で、裾を踏んで転びかけた子爵がいたこと。今朝のパンが少し焦げていて、料理人がひどく落ち込んでいたこと。


 私は相槌を打ちながら、手提げの中の書類を確かめた。二通とも、昨夜と同じ順番で入っていた。少しして、もう一度確かめた。三度目に口を開けたとき、リディア嬢が話すのをやめた。


 彼女は自分の膝を見て、それから私を見た。


「私、さっきから同じことを二回話してる?」

「パンの話は、二回でした」

「……あなたは、それで何回目?」


 私は手提げの口を閉じた。


「三回目です」


 私たちは少し笑った。それから、どちらからともなく窓の外へ目をやった。屋敷の灯りが、もう見えていた。


*


 七時ちょうどに、私たちは同じ馬車から降りた。両家の代理人が付き添いとして後に続き、広間に入ると、目立たないように壁際へ下がった。


 燭台の灯りが揺れ、楽団が軽い曲を奏でていた。客の顔ぶれには、商会を営む家の当主や、新しい事業に金を出すことで知られた家の人が多い。卓には料理が湯気を立てていて、九時にはたしかに片づいていそうだった。


 入口近くで客を迎えていたアドリアン様が、私を見つけて笑顔を作った。あの、話を熱心に聞いてくれそうな笑顔だった。


 その笑顔のまま私の隣に目を移し、口元だけが固まった。


 隣でリディア嬢が私にだけ聞こえる声で「せーの」と言った。


「ごきげんよう、アドリアン様」


 声は、きれいに揃った。


「セシリア、よく来てくれたね。……リディア嬢も。ずいぶん早いお着きだ」

「ええ。セシリア様とご一緒に参りましたの」

「そうか」


 アドリアン様は私とリディア嬢を一度ずつ見た。目が、どこか別の場所を探すように一瞬だけ広間を泳いだ。


「セシリア、少し話があるんだ。奥の部屋へ来てくれないか。リディア嬢には、後で改めて」


 彼の手が、私の背に添えられかけた。二時間のあいだに起きるはずだったことが、そのまま目の前で始まりかけていた。


「私たち三人に関わるお話ですから、ここでご一緒に伺います」


 アドリアン様は一瞬だけ言葉に詰まった。それから二人を見比べて、取り繕うように笑った。


「ずいぶん仲がいいんだね。いつの間に知り合ったんだい」

「お手紙で。あなたがセシリア様のことを悪く言ってくださったおかげで、かえってどんな方か気になったんですの」


 リディア嬢がにこやかに答えた。盾の話をしたときと同じ顔だった。


 アドリアン様はそれには答えず、近くにいた年配の紳士へ向き直った。


「失礼。こちらは子爵家のリディア嬢で、家同士で付き合いがありまして」

「婚約者のリディアですわ。セシリア様と同じく」


 近くの客たちの会話が止んだ。杯を口元へ運びかけた婦人が、その手を下ろした。ざわめきが、輪の外側へ向かって静かに広がっていった。


 アドリアン様は笑顔を崩さないまま、私の方だけを向いた。


「誤解なんだ、セシリア。リディア嬢とは、父の代からの付き合いで――」

「契約書の署名は、あなたお一人でしたけれど」


 リディア嬢が横から言うと、彼は今度はそちらへ身を寄せた。


「リディア、君にはきちんと説明するつもりだったんだ」

「私との婚約は冬です。春にリディア様と契約なさる前に、説明する機会はあったはずです」


 彼はそれ以上、どちらにも体を向けなかった。


 私は手提げを開けた。上下を間違えることはなかった。二通の契約書の写しを、近くの客にも見える高さで並べる。


「どちらも、当事者の署名とお家の承認を備えた正式な契約です。公にはまだ発表されていません。お父上のご体調が落ち着いてから、と頼まれていましたので」


 アドリアン様は二枚を見比べもしなかった。大きく息をつき、私たちではなく、さっきの年配の紳士と周りの客に向かって頭を下げた。


「お騒がせして申し訳ありません。家同士の調整が、まだ途中でして。片方は相性の不一致ということで、解消する手はずになっていたのです」


 紳士は、曖昧に頷いた。


 それを見て、彼の肩から力が抜けた。その謝罪が私たちには一言も向けられなかったことに、私は自分でも意外なほど驚かなかった。


 彼は振り返り、私の手を取りそうなほど近くへ来た。声が、私の知っている柔らかさに戻っていた。


「大丈夫、僕が選ぶのは君だよ、セシリア。君の好みも思い出も、僕が一番よく知ってる。ほら、覚えているかい。南通りの菓子店で、君が糖衣をもっと足してほしいと頼んで、店主が目を丸くした日のこと」


 呆れて返事が遅れた私より先に、隣から声がした。


「それ、私ですわ」

「私はそのお店に、まだ行ったことがありません。甘いものは控えめが好きです」


 リディア嬢の肩が小さく震えていた。笑いをこらえているのがわかって、私までつられそうになった。二つ目のために控えめにするのだと私が話した相手は、彼ではなく彼女の方だ。


 アドリアン様の顔から、柔らかさが一枚はがれた。


「……相手を取り違えただけだ。大事なのはそこじゃない。結婚の準備は、ちゃんと進めていた。別邸の修繕だって」

「その修繕費のことです」

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