第5話 扉が開いたら
馬車の中で、リディア嬢はずっと話していた。
夜会の楽団は去年と同じ顔ぶれらしいこと。昔の舞踏会で、裾を踏んで転びかけた子爵がいたこと。今朝のパンが少し焦げていて、料理人がひどく落ち込んでいたこと。
私は相槌を打ちながら、手提げの中の書類を確かめた。二通とも、昨夜と同じ順番で入っていた。少しして、もう一度確かめた。三度目に口を開けたとき、リディア嬢が話すのをやめた。
彼女は自分の膝を見て、それから私を見た。
「私、さっきから同じことを二回話してる?」
「パンの話は、二回でした」
「……あなたは、それで何回目?」
私は手提げの口を閉じた。
「三回目です」
私たちは少し笑った。それから、どちらからともなく窓の外へ目をやった。屋敷の灯りが、もう見えていた。
*
七時ちょうどに、私たちは同じ馬車から降りた。両家の代理人が付き添いとして後に続き、広間に入ると、目立たないように壁際へ下がった。
燭台の灯りが揺れ、楽団が軽い曲を奏でていた。客の顔ぶれには、商会を営む家の当主や、新しい事業に金を出すことで知られた家の人が多い。卓には料理が湯気を立てていて、九時にはたしかに片づいていそうだった。
入口近くで客を迎えていたアドリアン様が、私を見つけて笑顔を作った。あの、話を熱心に聞いてくれそうな笑顔だった。
その笑顔のまま私の隣に目を移し、口元だけが固まった。
隣でリディア嬢が私にだけ聞こえる声で「せーの」と言った。
「ごきげんよう、アドリアン様」
声は、きれいに揃った。
「セシリア、よく来てくれたね。……リディア嬢も。ずいぶん早いお着きだ」
「ええ。セシリア様とご一緒に参りましたの」
「そうか」
アドリアン様は私とリディア嬢を一度ずつ見た。目が、どこか別の場所を探すように一瞬だけ広間を泳いだ。
「セシリア、少し話があるんだ。奥の部屋へ来てくれないか。リディア嬢には、後で改めて」
彼の手が、私の背に添えられかけた。二時間のあいだに起きるはずだったことが、そのまま目の前で始まりかけていた。
「私たち三人に関わるお話ですから、ここでご一緒に伺います」
アドリアン様は一瞬だけ言葉に詰まった。それから二人を見比べて、取り繕うように笑った。
「ずいぶん仲がいいんだね。いつの間に知り合ったんだい」
「お手紙で。あなたがセシリア様のことを悪く言ってくださったおかげで、かえってどんな方か気になったんですの」
リディア嬢がにこやかに答えた。盾の話をしたときと同じ顔だった。
アドリアン様はそれには答えず、近くにいた年配の紳士へ向き直った。
「失礼。こちらは子爵家のリディア嬢で、家同士で付き合いがありまして」
「婚約者のリディアですわ。セシリア様と同じく」
近くの客たちの会話が止んだ。杯を口元へ運びかけた婦人が、その手を下ろした。ざわめきが、輪の外側へ向かって静かに広がっていった。
アドリアン様は笑顔を崩さないまま、私の方だけを向いた。
「誤解なんだ、セシリア。リディア嬢とは、父の代からの付き合いで――」
「契約書の署名は、あなたお一人でしたけれど」
リディア嬢が横から言うと、彼は今度はそちらへ身を寄せた。
「リディア、君にはきちんと説明するつもりだったんだ」
「私との婚約は冬です。春にリディア様と契約なさる前に、説明する機会はあったはずです」
彼はそれ以上、どちらにも体を向けなかった。
私は手提げを開けた。上下を間違えることはなかった。二通の契約書の写しを、近くの客にも見える高さで並べる。
「どちらも、当事者の署名とお家の承認を備えた正式な契約です。公にはまだ発表されていません。お父上のご体調が落ち着いてから、と頼まれていましたので」
アドリアン様は二枚を見比べもしなかった。大きく息をつき、私たちではなく、さっきの年配の紳士と周りの客に向かって頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありません。家同士の調整が、まだ途中でして。片方は相性の不一致ということで、解消する手はずになっていたのです」
紳士は、曖昧に頷いた。
それを見て、彼の肩から力が抜けた。その謝罪が私たちには一言も向けられなかったことに、私は自分でも意外なほど驚かなかった。
彼は振り返り、私の手を取りそうなほど近くへ来た。声が、私の知っている柔らかさに戻っていた。
「大丈夫、僕が選ぶのは君だよ、セシリア。君の好みも思い出も、僕が一番よく知ってる。ほら、覚えているかい。南通りの菓子店で、君が糖衣をもっと足してほしいと頼んで、店主が目を丸くした日のこと」
呆れて返事が遅れた私より先に、隣から声がした。
「それ、私ですわ」
「私はそのお店に、まだ行ったことがありません。甘いものは控えめが好きです」
リディア嬢の肩が小さく震えていた。笑いをこらえているのがわかって、私までつられそうになった。二つ目のために控えめにするのだと私が話した相手は、彼ではなく彼女の方だ。
アドリアン様の顔から、柔らかさが一枚はがれた。
「……相手を取り違えただけだ。大事なのはそこじゃない。結婚の準備は、ちゃんと進めていた。別邸の修繕だって」
「その修繕費のことです」
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