第8話 婚約破棄令嬢
手紙が届いた翌日、私たちは菓子店にいた。
南通りではない。私の家から歩いて行ける、小さな店だった。リディア嬢が、あなたの普段のお店を見てみたい、と言い出したのだ。
硝子の棚の前で、リディア嬢は端から端まで眺めていった。糖衣のかかったものは一種類しかなく、彼女はそれを見つけると、ほっとしたように指をさした。
店の奥から、二人連れの令嬢の声がした。
「ねえ、あちらの方たち」
「ええ、あの夜会の。婚約破棄令嬢よ」
声はすぐに小さくなった。二人は包みを受け取ると、こちらを見ないようにして店を出ていった。
リディア嬢は棚に目を向けたままだった。
「……素敵な呼び名ね」
そう言って笑った。いつもなら、私が何か言う前に次の言葉が続く。今日は、その一言が出るまでに一拍あった。笑い声もいつもより短かった。
私は出ていった二人の背中を目で追った。
「今の方、焼き菓子を三つもお買いになりましたね」
「……え?」
「胡桃のを二つと、糖衣のを一つ。お二人で三つです」
「数えてたの?」
「包む前に、棚から出されるところが見えたので」
リディア嬢は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「陰口を言いながら、三つ」
「たぶん、一人は二つ目を食べる方です」
リディア嬢は口元を押さえて、しばらく肩を震わせていた。店主が、何がおかしいのかという顔でこちらを見た。私たちは糖衣のものと胡桃のものを一つずつ包んでもらって、店を出た。
呼び名の話は、それきりになった。
*
家に戻って、居間でクララ嬢の手紙をもう一度広げた。
昨日は最初の一文で顔を見合わせてしまったが、手紙には続きがあった。夜会でのことを人づてに聞いたこと。十日後に婚約の署名を控えていること。母がこの婚約を心配していて、自分はその心配を晴らしてから署名したいこと。最後に、お二人のご都合のよい日に伺わせてください、とあった。
「あの呼び名で、私たちを見つけたのね」
リディア嬢が言った。さっきより声が普段に戻っていた。
「会いますか」
「会うわ。あなたは?」
私は手紙の筆跡を見た。丁寧で、少し右に傾いている。一度書き損じたのか、「署名」の二文字だけ、上から紙を貼って書き直してあった。
「会います。ただ、私たちに何がわかるか」
「帳簿と、噂なら」
リディア嬢が指を二本立てた。一本は私に、一本は自分に向けて。
頼られるのは、悪い気分ではなかった。リディア嬢も同じらしく、返事の手紙を書く間、何度もペンの先を眺めては書き出しを考え直していた。
「『婚約破棄令嬢より』って署名したら、怒られるかしら」
「クララ様は笑ってくださるかもしれません。私の父は怒ると思います」
「やめておくわ」
*
その翌日、クララ嬢が私の家へやって来た。
十九歳だと手紙にはあった。思っていたより小柄で、栗色の髪をきちんと結い上げている。居間の椅子に浅く腰かけ、手提げを膝の上で両手に抱えていた。
「お時間をいただいて、ありがとうございます。あの、本当に来てしまって、よかったのでしょうか」
「来てくださって嬉しいわ。お茶をどうぞ。焼き菓子もあるのよ」
リディア嬢がカップを勧めると、クララ嬢は一口飲んで、ようやく手提げから手を離した。
話は手紙に書いてあった通りだった。相手は伯爵家の次男で、ユリウス様という。署名は十日後、いや、もう八日後になった。相手の家は早く署名を済ませたいと言い、そのかわりに、持参金は結婚した後に十二回に分けて払えばよいと申し出てくれた。
「普通は、結婚のときに一度にお支払いするものですよね。うちは裕福ではないので、本当にありがたいお話なんです。でも母は、親切すぎると言って」
「親切すぎて、不安になっていらっしゃるのね」
「はい。私は母に安心してほしいんです。それで、問題がないと確かめていただけたら、気持ちよく署名できると思って」
クララ嬢はそこで少し言葉を探した。
「ユリウス様は本当にお優しい方なんです」
「どんなふうに?」
リディア嬢が身を乗り出した。クララ嬢は聞かれると思っていなかったように瞬きをした。
「初めてお会いしたのは、雨の日の園遊会で。私、傘を馬車に置いてきてしまって、木の下で待っていたら、ユリウス様が傘をさしかけてくださったんです。ご自分の肩が濡れているのに、気づいていらっしゃらなくて。それで、帰り際に私が肩のことを申し上げたら、今気づいた、っておっしゃって、本当に今気づいたお顔をなさって」
そこまで話して、クララ嬢は自分の口を手で押さえた。耳まで赤くなっていた。
「……すみません。こんなお話をしに来たのではないのに」
「いいえ。大事なお話よ」
リディア嬢はからかう顔をしなかった。私も黙って頷いた。クララ嬢は赤い顔のまま、手提げから書類を出した。
「婚約契約書の写しです。母がお二人に見ていただきなさい、と」
私は写しを受け取った。
持参金の額。結婚後、十二回の分割で支払うこと。各回の支払い日。ここまではクララ嬢の話の通りだった。
その次の条項で、私は読む速さを落とした。
婚約の署名と同時に、クララ嬢の家は、持参金の全額を記した支払約束証書を、相手の家へ差し入れること。証書は「持参人に支払う」形で振り出すこと。
もう一度、頭から読んだ。分割の約束とは別に、全額を払う約束の紙が、婚約の時点で相手の手に渡る。
「クララ様。この証書のことは、お聞きになっていますか」
「はい。形式だけのもので、結婚したら返していただけると。ユリウス様のお母様が、そうおっしゃっていました」
私は写しから顔を上げた。
「この証書は、持っている人がお金を請求できる紙です。もしこれが誰かの手に渡ってしまったら、婚約がなくなっても、証書を取り戻せるとは限りません」
クララ嬢の顔からさっきの赤みが引いた。
「結婚しなくても、お金だけは払うことになる、ということですか」
「そうなるかもしれない、ということです」
隣で、リディア嬢がカップを置いた。
「ただ、この紙に何を書いてあるかと、あちらのお家がこれをどうするつもりかは、別のお話よ。本当に形式だけのつもりかもしれないわ」
クララ嬢はリディア嬢を見て、それから私を見た。私は頷いた。
「書類からわかるのは、ここまでです。何に使うおつもりなのかは、書いてありません」
クララ嬢はしばらく黙っていた。膝の上で、手提げの持ち手を握り直す。
「……あの。実は、三日後にユリウス様のお母様のお茶会に招かれているんです。婚約が決まった娘さんのお友達も、ぜひご一緒に、と言っていただいていて」
クララ嬢は私たち二人を交互に見た。
「お友達として、来ていただけませんか」
リディア嬢が私の方を見た。目が少しだけ輝いていた。
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