第2話 一緒に
「あの、リディア様。別邸の工事のことで……」
言いかけて、私は口を閉じた。
修繕費は、いつ、誰に、いくら払ったのか。工事はいつ始まって、いつ終わる予定なのか。聞きたいことは順番まで頭に並んでいたのに、喉の手前で止まってしまった。
「なあに?」
リディア嬢が首をかしげる。私は膝の上で指を組み直した。
「すみません。細かいことを聞く癖があって。嫌がられるのは、わかっているんですけれど」
「嫌がられたの?」
「……観劇が延びる前にも、一度延期があったんです。そのとき、次はいつ頃になりそうかと伺ったら、君は細かいね、と笑われて」
口に出してみると、思っていたより小さな出来事だった。それなのに、あの日から私は、彼に手紙を書くたびに尋ねたいことを一つずつ削ってきた。
「予定を立てたい人なら誰でも聞くわ。それを細かいと言うなら、暦も細かいことになるわね」
それで私は、もう一つ話してもいい気がした。
「婚約したばかりの頃は、私が手伝っている家の帳簿の話を、熱心に聞いてくださったんです。領地の水車の修繕費を一度話しただけなのに、次に会ったとき、その金額を覚えていてくださって。それが嬉しくて、信用したんです。最近は数字の話をすると、話を変えられるばかりで」
「最初だけ覚えていたのね。私には、君のそういう積極的なところが好ましい、って言ったわ」
リディア嬢は軽く言ったが、言い終えてから一度だけ自分の膝に目を落とした。
私の水車と、彼女の積極的なところ。あの人は、相手が一番嬉しい言葉を、ちゃんと選んでいたのだ。
「……私が疑わなかったから、こんなことに」
「疑わせないようにしたのは、彼よ」
リディア嬢は短く言って、それ以上その話を続けなかった。代わりに、身を乗り出した。
「それで、さっき何を聞こうとしたの? 別邸の工事のこと」
私は一度息をついて、頭の中に並べていた順番のまま尋ねた。
「新居の修繕費のことです。リディア様のお家からも、前払いをなさっていませんか」
リディア嬢は黙って、書類の束から一枚を抜き出した。
「それって、これのこと?」
私も自分の書類から見積書を探し、二枚を並べた。
同じ別邸、同じ工事業者、同じ工事の内訳、総額金貨三百枚。送金控えを見れば、私の家も三百枚、リディア嬢の家も三百枚を前払いしている。
「あなたの家にだけお願いする、と言われたわ」
「私もです」
三百枚の工事に、六百枚が払われている。
私は二枚の見積書を重ね、角を合わせた。
リディア嬢はしばらく、私の手元を見ていた。それから、背筋を伸ばして座り直した。
「改めて伺うわね」
さっきまでの早口が嘘のように、一語ずつ区切った言い方だった。
「一緒に婚約破棄、しませんか」
手紙で読んだときと同じ言葉なのに、声で聞くと、思っていたよりずっと柔らかかった。返事を急がなくていい、と手紙に書いてくれた人の声だった。
「はい。一緒に」
部屋の隅で、ハンナが小さく息をついたのが聞こえた。今度は咳払いではなかった。
玄関まで見送りに出たリディア嬢は、扉の前で急に声を落とした。
「ひとつ、先に謝っておくわね。今夜うちの父に話したら、たぶんアドリアン様のお家に怒りの手紙を書くと思うの」
「お止めにならないんですか」
「止めるのは母の役目なの。父は書くのが役目」
そう言って笑ったリディア嬢は、さっき見積書を並べていたときより、少しだけ顔色がよかった。
「あなたのお父様は?」
「たぶん、何もおっしゃいません。書類を最後まで読んで、それで終わりです」
「それはそれで怖いわね」
否定できなかったので、私は黙って会釈をした。
*
帰りの馬車で、私は膝の上の小箱を開けなかった。
代わりに、さっき自分が話したことを思い出していた。あんな話は、誰にも言ったことがなかった。家族にも、侍女にも、もちろんアドリアン様にも。
窓の外を、知らない家の灯りが流れていく。私は帳簿をつけるときの癖で、明日のうちに確かめることを頭の中で数え始めた。父に話すこと。送金控えの日付。代理人に頼むこと。
三つ目まで数えたところで、次にリディア嬢に会う日を、決めてこなかったことに気づいた。
そのことが、送金控えの日付よりも気になった。
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