第1話 もう一人の婚約者
三日後の観劇は、また延期になった。
アドリアン様からの短い手紙には「父の具合が思わしくなく」とあった。先月の茶会も同じ理由で流れている。次はいつ頃になりそうかと書き添えようとして、前に同じことを尋ねたときの彼の顔を思い出し、ペンを止めた。
笑ってはいた。けれど、あれは話を早く切り上げたいときの笑い方だった。婚約して数か月のうちに、彼にそういう笑い方があることを、私はもう覚えてしまっていた。
お父上が心配なのは本当だろうし、別邸の管理まで任されてお忙しいのだから、と彼を庇う言葉を並べていたところへ、侍女がもう一通の手紙を持ってきた。
差出人の名を見て、私は少し身構えた。子爵家のリディア嬢。金で縁を買おうとする家の娘だから関わらない方がいい、とアドリアン様から聞かされていた名前だった。どこかの夜会で一度だけ、遠くから見かけたことがある。よく笑う人で、周りにはいつも誰かがいた。
「突然のお手紙をお許しください。私はアドリアン様と婚約しております。あなたも同じだと伺いました。
もしお互いの婚約がどちらも正式な契約であるなら、一緒に婚約破棄しませんか。
ご返事はお急ぎにならないでください。ご確認いただけるよう、私の婚約契約書の写しを同封いたします」
最初に浮かんだのは、たちの悪い嫌がらせだという考えだった。アドリアン様に近づきたい誰かが、私に身を引かせようとしているのかもしれない。それなら、あの方から聞かされていた話とも辻褄が合う。
けれど、契約書の写しまであるのなら、嫌がらせと決めつける前に確かめられることがあった。封筒の中には、きちんと折り畳まれた紙が一枚入っていた。契約の日付があり、アドリアン様の署名があり、「父より委任された権限により承認する」という一文まであった。
私はその夜、父の書斎を訪ねた。日付を一つ確かめたいだけです、と言うと、父は何も聞かずに書棚の鍵を開け、自分の机に戻って書きものの続きを始めた。
自分の契約書を、写しの隣に広げる。署名の最後の一画を跳ね上げる癖も、承認の文言の言い回しも同じだった。家の帳簿を手伝うようになってから、私は字の癖を見分けるのが得意になっている。得意でなければよかった、と思ったのは初めてだった。
日付は私の方が二か月早い。そう気づいてから、早いからどうだというのだろうと思い直した。どちらの紙にも、もう一人の存在は書かれていない。
部屋に戻って、返事を書いた。書き出しで三度ペンが止まり、そのたびに、罵る言葉も、取り乱した言葉も使わないと決め直した。
お会いして確かめたいことがあります。その際は、婚約に関わる書類と、いただいた品をお持ちします。
それだけを書いて封をすると、手のひらに汗をかいていた。
*
リディア嬢の王都の屋敷は、私の家より通りが一本賑やかな場所にあった。馬車の中で、私は膝の上の小箱を何度も持ち直した。中身はアドリアン様からいただいた首飾りで、書類の束と一緒に持ってくるよう、手紙で約束していたものだ。
通されたのは、侍女が一人控えるだけの小さな応接室だった。
「来てくださってありがとう。本当に来てくださるか、ずっと落ち着かなくて。知人が宝飾店で、あなたのお家がアドリアン様との婚約祝いの品を誂えていると聞いてきたの」
リディア嬢は私が座るより先に、卓の上へ書類を広げ始めた。
「それで、お手紙を」
「ええ。噂だけで決めつけるのは嫌だったから。でも図々しいと思われたかしら。お金目当ての家の娘が何か企んでいる、とか。あ、まず私の書類から見てくださいね。疑われて当然だもの。これが契約書の原本で、こちらが父の承認の控え、それから――」
リディア嬢は華やかな顔立ちの人で、よく通る声で話す。遠くから見かけたときと同じだった。そのくせ私が紙をめくっている間だけは、膝の上で両手を組み直していた。
私は日付と署名を一つずつ自分の書類と突き合わせた。冬の十二日と、春の三日。承認の文言は一字一句同じで、署名の最後の撥ねまでよく似ていた。リディア嬢は私が顔を上げるたびに何か言いかけ、私がまた紙に目を落とすと口を閉じた。
照合はすぐに済んだ。互いの名前はアドリアン様から聞かされていたが、相手も正式な婚約者だとは、二人とも知らなかった。
「お名前だけは存じていました。あまり、よい形ではなく」
「私もよ。そのお話は、また今度にしましょう。先に、贈り物を」
リディア嬢が小箱の蓋を開けた。青い石を銀の蔦が囲む首飾りだった。
私は膝の上の箱を開け、同じ首飾りを隣に置いた。
「……祖母の形見だと伺いました」
「私もそう伺ったわ」
二つを並べると、石の色も蔦の巻き方も見分けがつかなかった。違うのは、私の方の留め金に小さな傷があることだけだった。
「お祖母様は、お二人いらっしゃるものですし」
「両方のお祖母様が、同じ品を選ぶご趣味だったのね」
そこで私たちは同時に吹き出した。止めようとすると、隣の相手の肩が震えているのが見えて、また止まらなくなる。部屋の隅で侍女が咳払いをした。
「ハンナ、今のは笑うところでしょう」
リディア嬢が目元を押さえながら言ったが、侍女は顔色一つ変えずに前を向いていた。それがまたおかしくて、私は口元を手で覆った。
ようやく落ち着いてから、会えなかった日の言い訳も照らし合わせた。先月の茶会が流れた日、私は「父の具合が」と聞かされていた。リディア嬢は同じ日に、「君の家に恥じない新居にしたいから、別邸の工事を見てくる」と聞かされていた。
「あの人、あなたにはお父様を、私には新居を出したのね」
リディア嬢は呆れたように言った。私は、その言葉の後ろ半分を頭の中で繰り返していた。
別邸の工事。私の家の帳簿にも、その別邸の名がある。新居修繕費、前払い、金貨三百枚。先月、自分の手で書き写した一行だった。
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