第8話:予定外の兇刃
深夜零時四十八分。
大サロンの天井に展開された「審問領域」の青白い魔術陣が、全体議論フェーズ1の残り時間が二分を切ったことを告げるように、せわしなく明滅を繰り返していた。
暖炉の奥で、爆ぜかけた薪が崩れ落ち、赤い火の粉を散らす。
セレスティーヌが自席へと退き、両手を固く組んでうつむいたことで、サロンには再び冷え切った静寂が戻っていた。
だが、その静けさは平穏などでは断じてない。互いの首筋に冷たい刃を当て合い、誰が最初に脈を乱すかを値踏みし合うような、神経を削る膠着状態だった。
「……予定外の刃物、だと……?」
沈黙の澱を破ったのは、テオドール医師の掠れた呟きだった。
彼は先ほど自らが読み上げた検死記録のメモを膝の上で握りしめ、狼狽したように眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「ユリアン卿、しかし……先ほど私が申し上げた通り、閣下のご遺体に刺創や切り傷の類はございませんでしたぞ。致命傷となるような出血も一切ない。死因はあくまで、急性の心筋麻痺――鉱物毒による心不全です。刃物など、一体どこからそんな話が出てくるのです」
テオドールの反論は、医師としてのプライドから出たものだった。自らが検死した遺体について、司法卿とはいえ門外漢であるはずの男から「刃物の痕跡」などと指摘されれば、自らの見立ての不備を突かれたも同然だからだ。
だが、円卓の上座に立つユリアンは、テオドールの反論を一顧だにせず、氷のように冷ややかな眼差しを向けただけだった。
「貴様の検死眼を否定しているわけではない、テオドール。貴様の見立て通り、侯爵は毒によって絶命した。それは事実だ」
ユリアンはそう言いながら、先ほどはめ直したばかりの黒革の手袋を、再び指先からゆっくりと外し始めた。
キュッ、と革が擦れ合う微かな音が、異様なほど重く室内に響く。
露わになった彼の指先は、貴族特有の白皙でありながら、数々の剣劇と書類仕事をこなしてきた者特有の、節くれ立った無駄のない強靭さを湛えていた。
「だが、貴様は見落としたのだ。遺体の外見的特徴だけに目を奪われ、『現場の空間そのもの』が発していた微細な悲鳴をな」
ユリアンは手袋をテーブルの上に無造作に放り出すと、外套の裾を払って円卓の中央へと一歩踏み出した。
その長身から放たれる圧倒的な威圧感に、円卓の全員が呼吸を止める。
「書斎の現場検証において、気になる点が二つあった。……まず一つ目は、貴様が『死因とは無関係の日常的な小傷』と片付けた、侯爵の首筋の擦過傷だ」
ユリアンは自らの首筋の左側、頸動脈が走る急所を、手袋を外した人差し指の先でトンと叩いた。
「皮膚の剥離は、幅わずか一ミリ、長さにして二センチ程度。極めて浅く、出血も滲む程度で止まっている。……だが、その切り口の断面は極めて滑らかで、繊維や爪で引っ掻いたような粗雑な傷ではない。あれは、剃刀のように研ぎ澄まされた鋭利な鋼の切っ先が、皮膚の表面をかすかに撫でた際にしか生じ得ない傷だ」
テオドールが息を呑み、言葉を失った。
「日常の生活で、喉元にそのような刃を近づける機会があるか? 髭剃りの剃刀だとでも言うつもりか? アルブレヒト侯爵は豊かな髭を蓄えておられた。首筋のあの位置に剃刀を当てる必然性など、毛頭存在しない」
ユリアンの声は、感情を一切交えない絶対零度の事実の羅列だった。
彼はそこで言葉を切り、視線をサロンの床――敷き詰められた濃紺のペルシャ絨毯へと落とした。
「そして、二つ目だ。これこそが決定的だった」
ユリアンの青い瞳が、獲物の骨を砕く獣のように鋭利に光る。
「執務机の右脚元、絨毯の毛足――パイル糸の表面を観察した。そこには、深さ数ミリにわたって、絨毯の織り糸が帯状に削ぎ落とされた痕跡が残されていた。……机の脚と床の隙間に向かって、何者かが切っ先を激しく滑らせたか、あるいは取り落とした刃物の刃が絨毯を抉った痕跡だ。傷口の繊維の断面は真新しく、埃すら積もっていなかった。今夜、数時間以内に生じた傷痕であることは明白だ」
ざわり、とサロンが波打つように揺れた。
「絨毯のパイル糸が削ぎ落とされた痕跡……」
長椅子に座る未亡人フロランスが、黒いレースの扇子をパチンと閉じ、面白そうに目を細めて呟いた。
「まあ……ということは、書斎の現場で、誰かが刃物を振り回した、あるいは落としそうになったということですの?」
「そうだ」
ユリアンは冷酷に断言した。
「首筋の擦過傷、そして床の絨毯の傷痕。二つの物理的痕跡から導き出される結論は一つしかない。……あの書斎には、間違いなく予定外の刃物――短剣か、あるいはそれに類する凶器が持ち込まれていた」
サロンに、凍りつくような緊張が走った。
毒殺の館に、突如として浮上した「刃物」という第二の凶器。
ユリアンは腕を組み、冷徹な視線で円卓をぐるりと見渡した。
「毒殺に見えるこの事件だが、現場の様相は単純ではない。犯人が確実に侯爵の息の根を止めるため、毒と短剣という二重の殺意を持って現場に臨んだのか。あるいは――毒を盛った者とは別の人間が、刃物を手にあの部屋へ侵入したかだ」
――二重の犯行計画。
名探偵の口から飛び出したその言葉に、サロンの全員が息を詰まらせた。
(……素晴らしいわ、名探偵卿)
その静寂の只中で、私は扇子の下で、歓喜に震える口元を誰にも悟られないよう隠していた。
背筋を駆け抜ける、強烈な快感。
私のマダミス廃人としての脳細胞が、極限の回転速度で新たな盤面の図面を描き直していた。
(思考を整理しなさい。神の視点を捨て、プレイヤーとしての確定情報だけを照合するのよ)
まず、揺るぎない絶対の前提。
私――ヴィヴィアン・クローデルは、二十一時四十五分に書斎へ赴き、ブランデーに「蒼鉛の雫」を混入して侯爵に飲ませた。
私が使った凶器は、その毒薬ただ一つ。
私は短剣など持ち込んでいないし、侯爵の首筋に刃を突きつけてもいない。絨毯を刃物で傷つけた覚えも一切ない。
つまり――。
現場に残された「首筋の擦過傷」と「絨毯の傷痕」は、百パーセント、私の犯行ではないのだ。
(これよ。これこそが、マダミスにおける最大のカオスであり、犯人にとっての最大の好機――『第三者の未遂犯の存在』だわ!)
前世で経験した幾多の卓を思い出す。
難易度の高いマーダーミステリーのシナリオでは、真犯人以外にも、被害者に対して強い殺意や害意を抱き、別個の犯行計画を実行に移そうとした「未遂犯」や「第二の襲撃者」が配置されていることが極めて多い。
彼らは真犯人とは全く別のタイムラインで現場へ侵入し、脅迫を試みたり、ナイフを振り上げたり、あるいはすでに事切れていた死体を見てパニックに陥って逃走する。
そして、この白亜館の事件における「未遂犯」の正体は――誰あろう、私の目の前で怯えきっている婚約者、エドガー・フォン・ハルデンベルクだ。
物理的なタイムラインのピースが、美しく嵌まり込んでいく。
二十一時四十五分:私が毒を盛る。
二十二時十五分:セレスティーヌが来訪し、口論の末に退出。
二十二時三十分:毒の効果が発現し、侯爵が絶命。
そして――二十二時四十五分。
借金の帳消しを迫るため、懐に短剣を忍ばせたエドガーが、書斎へと忍び込んだのだ。
彼は最初、机に向かう侯爵を背後から脅そうとしたのだろう。
短剣の切っ先を侯爵の喉元に突きつけ、「借用書を返せ!」と迫ったのかもしれない。その際、冷たくなっていた侯爵の首筋に、刃の切っ先がわずかに触れて擦過傷を残した。
だが、返事がない。揺さぶっても動かない。
机に突っ伏したまま動かない父親の顔を覗き込み――エドガーは気づいてしまったのだ。
「死んでいる」と。
想像するだけで滑稽なほどのパニックだ。
脅そうとした相手が、すでに死体だったのだ。
驚愕と恐怖のあまり、エドガーは短剣を取り落としそうになり、慌てて掴み直す際に切っ先が床の絨毯を抉った。
そして、一目散に部屋から逃げ出す際、机の脚の角に袖口を激しくぶつけ――自らの家紋入りカフスボタンを、絨毯の隙間へと脱落させたのだ。
(完璧だわ。全ての物理的痕跡の辻褄が、狂いなく一本の線で繋がった)
胸のすくような納得感。
そして何より、この「刃物の存在」が公になったことは、真犯人である私にとって、天の恵みとも言うべき絶好の追い風だった。
もし現場に「毒殺の痕跡」しか残されていなければどうなるか?
ユリアンのような論理派探偵は、容疑者を「毒薬を調達・混入できた者」だけに絞り込み、タイムラインの整合性から、最終的に二十一時四十五分にブランデーを運んだ私へと疑いを一本化してくる。
時間軸の消去法を使われれば、いくら物証を隠しても、最後に残るのは私になってしまうリスクがあった。
だが――「現場に刃物が持ち込まれていた」となれば、話の次元が完全に変わる。
盤面には二つの可能性が併存することになるのだ。
可能性A:毒殺の犯人が、念のために刃物も持ち込んでいた。
可能性B:毒を盛った者とは別の人間が、殺意を持って刃物で襲撃した。
そして、後者(可能性B)が浮上した瞬間、プレイヤーたちの関心は「誰が現場に凶器を持って侵入したのか」という、極めて分かりやすく、刺激的で、生々しい疑惑へと強烈に引きつけられる。
毒という「目に見えない凶器」よりも、短剣という「目に見える物理的脅威」の方が、大衆の危機感を煽り、ヘイトを集めやすいのだ。
ましてや、その短剣を持ち込んだ男は、現場に「家紋入りのカフスボタン」という動かぬ遺留品を落としていっているのだから。
(エドガー。あなたが愚かにも現場へナイフを持ってきてくれたおかげで、私の完全犯罪のパズルは、最後のピースを手に入れたのよ)
私は心の中で、哀れな婚約者へ向けた冷酷な賛辞を呟いた。
彼を「凶器を持って現場にいた決定的な犯人」として仕立て上げればいい。
毒殺という死因そのものすら、「エドガーが短剣で脅した際に、発作を起こした侯爵を見て偽装のために後から毒を飲ませたのではないか」あるいは「エドガーこそが毒と短剣の両方を用意していたのではないか」という文脈へと、いくらでも歪曲することができる。
真犯人のタイムラインを覆い隠すための、これ以上なく巨大で、これ以上なく頑丈なスケープゴート。
エドガーという名の生贄は、今や完全にまな板の上に載せられたのだ。
「……ユリアン卿」
テオドール医師が、青ざめた顔で恐る恐る口を開いた。
「刃物が持ち込まれていた可能性があるとして……それは、誰の物なのですか? 現場に、その刃物自体は残されていたのですか?」
「いや」
ユリアンは首を横に振った。
「机の周囲、暖炉の中、本棚の隙間に至るまで視診したが、短剣らしき実物は見当たらなかった。……つまり、その刃物は、持ち込んだ者によって今も持ち去られ、この館のどこかに隠されているか、あるいは依然としてその者の懐にあるということだ」
ユリアンの低い宣告が、重い槌のようにサロンに振り下ろされた。
「館内にいる何者かが、現在進行形で鋭利な兇刃を隠し持っている。……誰がその危険な兇器を持ち歩いているのか、全員で徹底的に洗い出さねばならんな」
ユリアンの冷徹な青い瞳が、獲物を狙う鷹のように、再び円卓の面々を順に射抜いていく。
セレスティーヌが怯えて身を縮め、フロランスが扇子を握り直し、マルタが胸の前で十字を切る。
そして――。
その青い瞳が、円卓の端でガタガタと震えていた一人の男の上で、ピタリと静止しようとした、その刹那だった。
ガタアアアアッッ……!!!!
静寂を切り裂き、サロンの空気を粉々に粉砕するような、激しい破裂音が轟いた。
円卓の端。
エドガー・フォン・ハルデンベルクが、座っていた豪奢なマホガニーの椅子を後方へと派手に蹴倒しながら、弾かれたように立ち上がっていた。
「ひ……っ、うああっ……!!」
倒れた椅子が絨毯の上で重い鈍音を立て、卓上の銀食器がチャリンと鳴り響く。
一同の視線が、一斉にエドガーへと集中した。
その姿は、常軌を逸していた。
エドガーの顔は、土気色を通り越して完全に血の気が引いた白蝋のようになっていた。
見開かれた両目の瞳孔は極限まで収縮し、白目には赤い血走りが無数に浮き上がっている。
唇は激しく痙攣して言葉を紡ぐことすらできず、喉からはヒューヒューと笛のような過呼吸の音が漏れていた。
彼の両手は、自らの上着の胸元――懐のあたりを、無意識に庇うように強く押し当てられていた。
まるでそこに、今まさに誰にも見られてはならない「絶対の破滅」が潜んでいると、全身で叫んでいるかのように。
「……ハルデンベルク卿?」
ユリアンの冷え切った、研ぎ澄まされた声が、狂乱のエドガーを正面から射抜いた。
その青い瞳の奥に、獲物の急所を完全に捉えた冷酷な確信の光が、ギラリと灯っていた。
第1回全体議論の終了を告げる審問領域の鐘が、頭上で重々しく鳴り響こうとしていた。




