第7話:義妹の毒針、令嬢の盾
「お姉様……少し、よろしいかしら?」
静寂が支配する大サロンに、鈴の音のように可憐で、しかし不気味なほど澄み切った声が響いた。
円卓の空気が、ふたたびピシリと凍りつく。
歩み寄ってきた義妹セレスティーヌは、私の座る椅子の真横、わずか二歩ほどの距離で静かに足を止めていた。
両手を胸の前で固く組み、白いレースの手袋をはめた指先を小さくもじもじと絡め合わせている。修道女のように質素で清楚な紺色のドレス。肩にかかる淡い亜麻色の巻き毛が、暖炉の熾火に照らされて微かに揺れていた。
その大きな翠の瞳には、愛する父親を不条理に奪われた薄幸の娘にふさわしい、涙の膜が張っている。
一見すれば、姉に縋りつき、不安を分かち合おうとする無力な妹の姿そのものだ。
だが――私の肌の産毛が、一斉に逆立っていた。
(……目が、笑っていないわね)
私は扇子を胸元に添えたまま、伏し目がちに私を見下ろすセレスティーヌの視線を真っ向から受け止めた。
彼女の潤んだ瞳の奥底。その水晶体の中央に、針の先のような冷徹で打算的な光が、チリチリと燻っているのを私は見逃さなかった。
前世のマダミス卓で、私はこういうプレイヤーを何人も見てきた。
「初心者なんです」「よく分からなくて……」と庇護欲をそそる態度を崩さず、周囲の警戒を完全に解かせた上で、議論の決定的な局面で相手の脇腹へ躊躇なく錆びた短剣を突き立ててくるタイプ。無害な小鹿の皮を被った、狡猾なハンター。
「なあに、セレスティーヌ? そんなに怯えた顔をして」
私は眉尻を優しげに下げ、実の姉のような慈愛に満ちた笑みを唇に浮かべた。
「大丈夫よ。ユリアン卿がこうして公正に調査を進めてくださっているのですもの。私たち姉妹がやましいことをしていないのなら、何も恐れることはありませんわ」
まずは、盤石な「聖母の盾」を構える。
無垢な妹を包み込む優しい姉という構図を、円卓の全員――とりわけ、上座から鋭い視線を注いでいるユリアンに見せつけるためだ。
しかし、セレスティーヌは私のその包容を、かすかに身を引くことで滑らかに拒絶した。
彼女は困惑したように眉をひそめ、サロンの全員に聞こえる絶妙な声量――決して叫びはせず、だが誰もが耳を傾けざるを得ない、哀愁を帯びた声音で口を開いた。
「ええ、分かっておりますわ、お姉様。……ただ、どうしても気になってしまって。先ほど、お姉様は昨夜の二十一時四十五分にお父様へブランデーをお運びになったとおっしゃいましたでしょう?」
「ええ、そう申しましたわ」
「その時……お父様のご様子は、いかがでしたの? その……お父様、ひどく怒っておられたりは……なさいませんでしたか?」
――来た。
セレスティーヌの唇から放たれた言葉を聞いた瞬間、私の脳内のゲームクロックが、カチリと音を立てて加速した。
(一見すると、父親の体調や精神状態を気遣う健気な質問。……でも、甘いわよ)
私のマダミス廃人脳が、彼女のハンドアウトの裏面を瞬時に透視し、その意図を三次元的に逆算していく。
なぜ、セレスティーヌは「怒っていなかったか」などと尋ねてきたのか?
父親が死んだ直後に、最初に気にするべきは「苦しそうにしていなかったか」あるいは「何か変わったことはなかったか」のはずだ。
「怒っていたか」という極めて限定的な感情の起伏をわざわざ指定して確認しようとするのは――彼女自身が、昨夜「激怒した侯爵」を目撃しているからに他ならない。
(タイムラインの答え合わせね、セレスティーヌ)
私の記憶は鮮明だ。
彼女は昨夜二十二時十五分、誰にも見つからないよう息を潜めて二階の書斎を訪れている。
目的は、自分の養子縁組解消と、全財産の修道院への寄付が記された『旧遺言書』の存在を問い質し、それを撤回させるため。
だが、その時すでに侯爵の体内には私の盛った「蒼鉛の雫」が回り始めていた。
激しい胸の苦しみと苛立ちに支配されていた侯爵は、セレスティーヌの直訴を聞き入れるどころか、怒鳴り散らしてわずか五分で部屋から追い出したのだ。
セレスティーヌの脳内は今、二つの思惑で激しく渦巻いているはずだ。
一つは、保身。
「自分が遺言書の件でお父様を激怒させたせいで、発作が起きて死んでしまったのではないか?」という罪悪感と恐怖。もし直前の二十一時四十五分の時点で侯爵が機嫌よく穏やかだったと私が答えれば、「では、二十二時過ぎに誰かが彼を激怒させたことが引き金になったのでは」という推理が成り立ち、直後に訪れた彼女のアリバイ隠蔽が致命的な意味を持ってしまう。だから、彼女は「最初から父は怒っていた」という証言が喉から手が出るほど欲しい。
そして、もう一つ。より邪悪な思惑。
もし私が「ええ、お父様は怒っておられたわ」と答えれば、セレスティーヌはすかさずこう畳み掛ける腹積もりなのだ。
――『まあ、お姉様。お父様は、お姉様に対して怒っておられたのですか? お姉様とお父様の間で、何か口論でもあったのではありませんか?』と。
父親と口論になり、腹を立てた長女が、手渡すブランデーに毒を盛った――。
セレスティーヌは、私に「犯行の動機」という名の汚名を擦り付け、自らの容疑を逸らすためのスケープゴートに仕立て上げようと、このジャブを放ってきたのだ。
円卓の視線が、私とセレスティーヌの間に集中していた。
「……ほう」
ユリアンが、手帳の上のペンを止め、青い瞳をわずかに細める。彼もまた、セレスティーヌの質問の裏にある「違和感」を鋭く嗅ぎ取っていた。
エドガーは、自分から標的が逸れたことに安堵したのか、息を詰めて私たちの様子を伺っている。
未亡人フロランス夫人は、黒い扇子を胸元でパタパタと弄びながら、「さて、どう切り返すのかしら」と意地の悪い好奇心を隠そうともしない。
ここで、安易に「いいえ、とても穏やかでしたわ」と返せば、セレスティーヌの思う壺。
かといって「ええ、怒鳴り散らしていたわ」と返せば、口論の有無を追及される。
(ふふ……可愛い妹ね。初心者相手なら、その二者択一の誘導尋問で詰ませられたかもしれないわ)
私は心の中で、冷徹な舌なめずりをした。
マダミスにおいて、相手から飛んできた毒針をただ盾で弾くだけのプレイヤーは二流だ。
一流のプレイヤーは――飛んできた毒針を空中で掴み取り、そこにさらに猛毒を塗りたくって、相手の急所へと寸分違わず投げ返す。
カウンター・インフォメーション。
相手が隠している「最大の急所」を、何食わぬ顔で会話の文脈に織り交ぜて炸裂させる、情報戦の必殺技。
私は胸元に当てていた象牙の扇子を、パチンと静かな音を立てて閉じた。
そして、深窓の令嬢特有の、痛ましげで、どこか哀愁を帯びた完璧な溜息を吐き出してみせた。
「……ええ。お父様は、少しお疲れのようでしたわ」
サロンに響く、私の静かな声。
セレスティーヌの瞳が、ピクリと揺れる。
私は彼女の翠の瞳から視線を逸らさず、慈愛の笑みを浮かべたまま、流れるように言葉を続けた。
「怒っておられた、というよりは……ひどく頭を痛めておいででしたの。執務机の上に広げられた書類を睨みつけながら、深いため息をついておられましたわ。——確か、どこかの『修道院からの巨額の寄付要請書』をご覧になって、ひどく思い悩んでおいででした」
ピキリ。
空気が、音を立ててひび割れたような錯覚を覚えた。
セレスティーヌの呼吸が、完全に止まった。
彼女の愛らしい顔から、潮が引くように一瞬で血の気が失せていくのが、目に見えて分かった。
潤んでいたはずの翠の瞳孔が、恐怖によって針の先ほどに収縮し、組まれていたレースの手袋の指先が、小刻みに、激しく震え始める。
『修道院からの寄付要請書』――。
その単語は、セレスティーヌにとって、この世で最も聞きたくない悪夢の呪文だったはずだ。
彼女の抱える秘密。
それは、敬虔な信徒を装いながら、裏で特定の教団へ侯爵家の資産を横流しし、自らの養子縁組を解消して自由を手に入れようとしていたこと。
そして、その不正に気づいた侯爵が、彼女を廃嫡して全財産を修道院へ寄付するという『旧遺言書』を作成したこと。
彼女が最も恐れているのは、その「修道院」と「遺言書」の存在が、この場で白日の下に晒されることなのだ。
(どう、セレスティーヌ? 効いたかしら?)
私は優雅に微笑みながら、無言の圧力を彼女の網膜へと叩き込み続けた。
私の言葉の裏に含まれたメッセージは、極めてシンプルかつ暴力的な脅迫だ。
――『私は、あなたが二十二時十五分に書斎へ行ったことも、修道院への不正な寄付の件も、全部知っているのよ。これ以上、私を犯行現場と結びつけようと小細工をするなら……次の一言で、あなたのその薄汚い裏の顔を、ユリアン卿の前で全部ぶちまけてあげるけれど、どうする?』
セレスティーヌの喉仏が、上下に小さく動いた。
乾いた唾を飲み込む音。
彼女の額に、微かな冷汗が滲み出る。
「しゅう……どういん、の……?」
セレスティーヌの唇から漏れたのは、先ほどの澄んだ声とはまるで違う、擦れ切った掠れ声だった。
「ええ、そうですわ」
私は小首をかしげ、まるで何も気づいていない無邪気な姉のように、追撃の笑顔を向けた。
「聖ルミナス修道院……でしたかしら? 熱心にお祈りを捧げていらっしゃるあなたなら、よくご存知の場所ではありませんこと? お父様は、その書類をご覧になって『私の財産を、このような得体の知れない教団に奪われてたまるか』と、ひどく憤慨しておられましたの。……ねえ、セレスティーヌ。あなた、何か心当たりがおありになって?」
完璧な、詰みの宣告。
これ以上踏み込めば、自爆する。
セレスティーヌの頭脳が、その残酷な計算式を弾き出したのが分かった。
「い……いいえ」
セレスティーヌは、引きつった笑みを唇に張り付けながら、よろよろと一歩、後退った。
その顔は、もはや幽鬼のように蒼白だった。
「わ、私には……何も、分かりませんわ。お父様が、そのようなことで悩んでおられたなんて……ち、知らなかったものですから。……お姉様のお邪魔をして、ごめんなさい……」
蚊の鳴くような声でそう呟くと、セレスティーヌは逃げるように身を翻し、自らの席へと足早に戻っていった。
椅子に腰掛けた彼女は、二度と私の方を見ようとはせず、ただ膝の上で組んだ手を激しく震わせながら、俯いて沈黙を守るしかなかった。
(迎撃、完了ね)
私は心の中で、小さく勝利の息を吐き出した。
セレスティーヌという駒は、これで完全に沈黙した。
彼女は今後、自分の秘密が暴かれるのを恐れるあまり、私に対して不用意な攻撃を仕掛けてくることは二度とできない。
むしろ、自分の疑惑を晴らすために、別の誰か――エドガーあたりに攻撃の矛先を変えざるを得なくなるはずだ。
私の手札の強固さを、再確認する。
私はただ前世の記憶を頼りにしているのではない。
この世界の人間たちの「弱み」と「インセンティブ(利害関係)」を正確に把握し、それをチェスの駒のように配置転換しているのだ。
だが――。
ふと、私の視界の端に、冷たい気配が過った。
サロンの上座。
円卓の中央に立つユリアン・フォン・ファルケンハインが、腕を組み、静かに私を見つめていた。
その青い瞳は、先ほどよりも一段と深く、昏い色を湛えている。
彼は、手帳に文字を書き込むのをやめていた。
ただ、獲物の微細な呼吸の乱れすら見逃さない鷹のように、私とセレスティーヌの間で交わされた「目に見えない火花」の余韻を、じっと観察していたのだ。
(……見られたわね)
私の背筋を、冷たい針でなぞられたような緊張が走る。
ユリアンほどの頭脳を持つ男だ。
セレスティーヌの不自然な撤退と、私が放った「修道院」という単語の重みを、ただの姉妹の会話として聞き流すはずがない。
彼の中で、「ヴィヴィアン・クローデル」という存在の危険度ランクが、また一段跳ね上がったのは確実だった。
だが、後悔はない。
ここでセレスティーヌに主導権を握らせるリスクに比べれば、探偵役に警戒されることなど織り込み済みだ。
「……ふむ」
ユリアンが、低く喉を鳴らした。
彼は組んでいた腕を解き、黒革の手袋をテーブルの上からゆっくりと拾い上げた。
その長い指先が、手袋の革をピンと引っ張り、装着していく。
カチリ、とサロンの大時計が、深夜零時四十五分を告げようとしていた。
天井の審問領域の魔術陣が、微かに明滅を速める。
【全体議論1】の制限時間四十五分が、いよいよ最終盤へと差し掛かっていた。
「議論の時間は、残り数分といったところか」
ユリアンの冷徹な声が、静まり返ったサロンに響き渡った。
彼は手袋をはめ終えた右手を、腰のサーベルの柄へと無造作に置いた。
一同の視線が、自然と彼へと集まる。
誰もが、このまま第1回目の議論が終わり、証拠調査フェーズへと移行するのだと思っていた。
エドガーは脂汗を拭いながら胸を撫で下ろし、テオドールは眼鏡を外し、マルタは安堵の息を漏らしかけていた。
だが――。
監察卿ユリアンという男が、そんな生温い幕引きを許すはずがなかった。
「各員のタイムライン、ならびに心理的動揺の観察は済んだ。……だが、最後に一つだけ、全員に突きつけておかねばならない事実がある」
ユリアンの声のトーンが、一段と低く、鋭利に研ぎ澄まされた。
その瞳に宿る冷酷な光に、サロンの全員が息を呑んだ。
「誰かが、致命的な嘘を吐いている」
ユリアンは円卓の全員をゆっくりと見据え、爆弾のような宣告を投下した。
「先ほど私が行った、書斎の現場検証においてだ。……あの部屋には、毒殺という手段にはおよそ似つかわしくない、『予定外の凶器』が持ち込まれた痕跡が残されていた」
サロンの空気が、凍結した。
エドガーの身体が、ビクンと痙攣するように跳ね上がった。
名探偵が暴き出す、第二の狂気。
私の敷いた完全犯罪のタイムラインに、他人の持ち込んだ「兇刃」が、ついに牙を剥こうとしていた。




