第9話:未遂犯の横顔
ガタアアアアッ……と倒れたマホガニーの椅子が絨毯に叩きつけられた重い余韻が、大サロンの静寂を粉々に打ち砕いていた。
深夜零時五十二分。
審問領域の青白い魔力光に照らされた空間で、立ち尽くすエドガー・フォン・ハルデンベルクの荒い息遣いだけが、剥き出しの狂気のように響き渡っている。
「な、何を言っているんだユリアン卿! 刃物など、誰が持ち込むものか! そんな物、あるはずがないだろう!?」
エドガーは裏返った金切り声を上げ、唾を飛ばしながら両手を激しく振り回した。
その顔には、先ほどまでの高慢な貴族子息の面影など微塵も残っていない。幽鬼のように白く抜け落ちた肌、額から顎へと止めどなく滴り落ちる脂汗、そして焦点の定まらないまま見開かれた瞳孔。
「俺は……俺は関係ないぞ! 俺を疑うな! 短剣なんて知らない、刃物の痕跡なんてデタラメだ! 俺が……俺が父上を刺そうとしたとでも言うのか!? ふざけるな、俺は何もしていない、何も刺してなどいないんだ!!」
サロンの空気が、絶対零度まで冷え切った。
誰一人として、言葉を発する者はいなかった。
なぜなら――この場にいる誰一人として、エドガーの名前など一言も口にしていなかったからだ。
ユリアンが告げたのは、ただ客観的な事実のみ。
「現場の首筋に擦過傷があり、絨毯に刃物で削ぎ落とされた痕跡があった」「何者かが予定外の刃物を持ち込んでいた可能性がある」――それだけだ。
それにもかかわらず、エドガーは自ら椅子を蹴倒して立ち上がり、「俺は刺していない」「短剣なんて知らない」と、誰も聞いていない凶器の具体的な形状まで口走って喚き散らしたのだ。
それは弁明ですらなく、自ら「私は短剣を持ってあの部屋に入りました」と全身で白状しているに等しい醜態だった。
「……あらあら」
長椅子の上で、未亡人フロランスが黒いレースの扇子で口元を覆いながら、冷酷極まりない嘲笑をその琥珀色の瞳に浮かべた。
「エドガー様? ユリアン卿は『短剣』などという単語は一言もおっしゃっていませんでしたのに……ずいぶんと具体的な凶器のお名前に、お詳しいことですのね?」
「ひっ……!」
エドガーは喉を詰まらせ、弾かれたようにフロランスを睨みつけたが、その瞳は恐怖で泳ぎ切っていた。
円卓の向かい側では、テオドール医師が深く眉をひそめ、軽蔑と警戒の入り混じった眼差しでエドガーを見つめている。
「ハルデンベルク卿……落ち着きなさい。誰も貴方を名指ししてなどおりませんぞ。そのような取り乱し方をなさっては、かえって自らやましい事実を認めているように見えてしまいます」
「う、うるさい! 貴様らに何が分かる! 俺を罠に嵌めようとしているんだろう!? 全員で俺を犯人に仕立て上げて、処刑台に送る気なんだろうが!!」
エドガーは耳を塞ぐように頭を抱え、半狂乱になって叫び散らす。
その異様な剣幕に、隣に座っていたセレスティーヌは怯えきって身を縮こまらせ、ドレスの袖を握りしめて涙目で後退った。家政婦長のマルタに至っては、狂気に取り憑かれた青年貴族の姿に恐怖し、胸の前で何度も十字を切って祈りを捧げている。
そして――。
円卓の上座に立つユリアンが、氷のように研ぎ澄まされた青い瞳を、獲物の喉首を狙う狼のように細めた。
彼は机の上に置いていた黒革の手袋をゆっくりと手に取り、大股でエドガーの方へと歩み出そうと、一歩足を踏み出した。
「ハルデンベルク卿。自らそこまで饒舌に語ってくれるとは手間が省けたな。……貴様が持っているその上着の懐、今すぐここで検分させてもら――」
(――待ちなさい。それ以上は言わせないわよ、名探偵卿!)
その瞬間、私のマダミス廃人としての脳髄が、けたたましく警鐘を乱れ打ちした。
全身の血液が逆流するような、強烈な危機感。
一見すれば、これは真犯人である私にとって最高の展開に見えるかもしれない。
怪しい男が勝手に自爆し、自ら墓穴を掘って容疑者レースの先頭を独走している。このままユリアンに徹底的に締め上げさせ、エドガーを犯人として吊るし上げれば、私の完全犯罪は序盤で確定するように思える。
だが――違う。断じて違う!
それは、三流のプレイヤーが陥る典型的な「思考停止の罠」だ。
(ここでエドガーを完全に追い詰めたら……この盤面は崩壊する!)
私は自らの扇子を強く握りしめ、冷徹に最悪のシナリオをシミュレーションした。
エドガーのメンタルは、今や完全に臨界点を突破している。
もしここでユリアンに胸ぐらを掴まれ、懐の短剣を暴かれ、容赦のない論理のメスで解体されたらどうなるか?
パニックで完全に焼き切れたエドガーは、自らの保身のために――「真実」をすべて洗いざらい叫び散らすに決まっている。
『違う! 俺は刺していないんだ! 確かに俺は短剣を持って部屋に入った! だが、俺が部屋に入った時には、父上はすでに机の上で冷たくなって死んでいたんだ!!』――と。
もし、エドガーにその真実を白状されたら?
「二十二時四十五分にエドガーが部屋に入った時点で、侯爵はすでに絶命していた」という客観的事実が、盤面に確定情報として共有されてしまう。
そうなれば、テオドールが先ほど下した死亡推定時刻(二十二時十五分〜四十五分)は、さらに狭い範囲へと絞り込まれる。
そして、セレスティーヌが「二十二時十五分に書斎へ行った」という証言と結びついた瞬間、侯爵が絶命したのは「二十二時十五分から四十五分の間」――すなわち、私が毒を盛った二十一時四十五分からちょうど四十五分が経過した、あの「二十二時三十分」というキルタイムに完全に収束してしまうのだ。
さらに最悪なのは、エドガーの容疑が「殺人未遂」へと格下げされ、彼が無実(白)の侵入者であると証明されてしまうことだ。
エドガーが犯人候補から外れた時、次に全員の視線が向く先はどこか?
――二十一時四十五分に、毒の入ったブランデーグラスを自らの手で運んだと堂々と宣言した、この私、ヴィヴィアン・クローデルだ。
(スケープゴートを序盤で完全に壊して白にしてしまうのは、キラーにとって最悪のプレイングよ……!)
マダミスにおける絶対の鉄則。
『スケープゴートは、最後の投票の瞬間まで「最も怪しい黒に近いグレー」のポジションに生かしておかねばならない』。
彼に真実を語らせてはならない。
彼に「自分はすでに死体だった部屋に入ったのだ」と論理的に弁明する余裕を与えてはならない。
彼は、最後まで「自分が殺したかもしれないと怯え、支離滅裂な言い逃れを繰り返し、周囲から決定的に嫌悪される怪しい容疑者」であり続けなければならないのだ。
そのためには――今、この場で彼を救わねばならない。
敵として叩きのめすのではない。
冷酷な検察官の手から彼を庇い、聖母のような慈悲で包み込み、彼の精神を私の手のひらの上で完全に掌握する――『ヘイトコントロールと心理的囲い込み』。
「ユリアン卿、そこまでになさってくださいまし」
凛とした、しかし鈴の音のように澄んだ声が、サロンの張り詰めた空気を切り裂いた。
ユリアンがピタリと足を止める。
円卓の全員の視線が、一斉に私へと吸い寄せられた。
私は椅子から音もなく立ち上がった。
優雅にドレスの裾を払うその所作には、一切の動揺も恐れもない。ただ、我が身を顧みずに取り乱した婚約者を案じる、高潔な令嬢の気品だけが満ち満ちていた。
私はゆっくりとした、確かな足取りで絨毯を踏みしめ、円卓の端――倒れた椅子の横でガタガタと震えているエドガーの元へと歩み寄った。
「ヴィ、ヴィヴィアン……?」
エドガーが、涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、幽鬼のような目で私を見上げる。
私は何も言わず、彼のすぐ目の前に立った。
そして――手袋をはめた細く温かい右手を、そっと、エドガーの強張った右肩の上へと置いたのだ。
ビクッ、とエドガーの身体が跳ねる。
だが、私はその手を離さず、母が幼子をあやすように、優しく、慈愛を込めてその肩を包み込んだ。
「エドガー様。落ち着いてくださいませ」
至近距離から注ぎ込まれる、甘く、柔らかな声。
私はわずかに視線を下げ、エドガーの血走った瞳をまっすぐに見つめ、哀しげに微笑んでみせた。
「誰も……あなたを疑ってなどいませんわ」
「え……?」
エドガーの喉から、間の抜けた掠れ声が漏れた。
私は首を静かに横に振り、サロンの全員に聞こえるように、澄み渡る声で言葉を紡いだ。
「大切な義父上を突然喪い、このような奇怪な結界に閉じ込められたのですもの。気が動転なさるのも、無理はありませんわ。あなたはお優しい方ですもの……刃物がどうこうなどという物騒なお話を聞いて、恐怖のあまり取り乱してしまわれただけですわね?」
エドガーの瞳が、激しく揺らいだ。
周囲の全員が自分を冷たい目で見下し、人殺しを見るような視線を浴びせてくる中で――ただ一人。
この美しく気品ある婚約者だけが、自分を責めず、狂態を晒した自分を「優しいからこそ怯えたのだ」と、完璧な言葉で肯定してくれたのだ。
極限状態に置かれた人間の心理。
四面楚歌の絶望の中で差し伸べられた一本の蜘蛛の糸に、人間がどれほど無様に縋り付くか――私は前世の心理戦で、嫌というほど見てきた。
私はエドガーの肩を優しく叩き、囁くように続けた。
「深呼吸をなさって、エドガー様。胸に手を当てて、息を吸い込んで。……あなたはハルデンベルク伯爵家の誇り高い嫡男ですわ。やましいことなど何一つないのですから、怯える必要などどこにもございません。堂々としていらして」
「ヴィヴィアン……ああ、ヴィヴィアン……!」
エドガーの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
彼は崩れ落ちそうになる膝を辛うじて保ちながら、私のドレスの裾に縋り付かんばかりの勢いで、私の右手を両手で包み込んできた。
その手は小刻みに震え、まるで暗闇の中で唯一の明かりを見出した遭難者のように、必死で私にしがみついている。
「君だけだ……君だけだ、ヴィヴィアン! 俺を信じてくれるのは……! ああ、すまない、取り乱してすまない……! 俺は、俺はただ……怖かったんだ……!」
「ええ、分かっておりますわ。もう大丈夫です」
私は慈愛に満ちた聖母の顔を崩さず、エドガーの乱れた髪を、もう片方の手でそっと撫でてやった。
(――チョロい男ね、本当に)
私の内側で、冷酷な悪女の舌先が嗤っていた。
完璧だ。
これでエドガーは、完全に私の心理的支配下に置かれた。
彼はもはや、私の前で余計な真実を口走ったりはしない。私に嫌われまいと、私に「信じてもらえている無実の自分」を演じ続けようと必死になるはずだ。
そして、彼が「堂々とした無実」を装えば装うほど、周囲の目にはそれが「見苦しい虚勢」として映り、彼の怪しさは盤面の中で完璧な濃度を保ち続ける。
彼を救ったのではない。
後で最も劇的なタイミングで処刑台へ突き落とすために、今は私の手元で飼い殺しにするのだ。
「……ずいぶんと寛大な婚約者だな、ヴィヴィアン嬢」
背後から、氷柱のように冷え切った声が投げかけられた。
振り返ると、ユリアンが腕を組み、冷徹な青い瞳で私たちを見下ろしていた。
その眼差しには、婚約者同士の美しい絆に対する感動など微塵もなかった。
あるのは、目の前で繰り広げられたあまりに完璧な「茶番」に対する、底知れぬ猜疑心と観察の光。
「常軌を逸した動揺を見せた男を、そこまで手際よく宥めるとは。……まるで、彼が取り乱して余計なことを口走るのを、恐れていたかのようにも見えるが?」
鋭利な名探偵のメス。
彼は、私がエドガーを庇った「真の動機」に、微かに勘づいていたのだ。
だが――もう遅い。
「あら、ユリアン卿」
私はエドガーの肩に手を置いたまま、優雅に首を傾げてみせた。
「愛する婚約者が怯えているのを気遣うことが、ファルケンハイン家の法義では罪になりますの? これ以上、証拠もないまま彼を追い詰めるのは、司法卿としてのお立場にも傷がつくのではなくて?」
ユリアンの眉が、わずかにピクリと跳ねた。
彼は反論の言葉を口にしようと唇を開きかけたが――。
ゴオオオオオン……!
サロンの吹き抜けに、屋敷の骨組みを揺るがすような重厚な鐘の音が、轟然と鳴り響いた。
天井の「審問領域」が激しく明滅し、青白い光が波打つように収縮していく。
壁の時計の針が、深夜一時ジャストを指していた。
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【全体議論フェーズ1:終了】
・制限時間45分が経過しました。
・これより、次のフェーズへ移行します。
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無機質なシステムアナウンスが、大サロンの空間全体に木霊した。
議論の終了。
ユリアンは苦々しげに息を吐き、手袋を強く握りしめて言葉を飲み込んだ。
エドガーは私の手に縋り付いたまま、安堵のあまりへたり込みそうになっている。
フロランス夫人は扇子を揺らし、テオドール医師は手帳を閉じ、セレスティーヌは怯えたように胸元の十字架を握りしめている。
初動の全体議論は、完全に私の思惑通りに幕を閉じた。
私の犯行を暴く決定的な手掛かりは一切出ず、毒の空小瓶はパニエの奥深くに隠され、エドガーという特大のスケープゴートは私の首輪の下に収まったのだ。
だが――安堵の息を吐く暇など、審問領域は与えてくれなかった。
鐘の余韻が消え去ると同時に、天井から降り注ぐ光が、禍々しい紫色の燐光へと変色した。
全員の網膜に、次なる地獄のルールが、鮮血のような文字で刻み込まれる。
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【フェーズ移行:密談フェーズ1】
・制限時間:10分
・ルール:指名された2名のみが、指定の小部屋にて1対1の対話を行う。
・会話の機密性:遮音結界により、会話内容は一切外部へ漏洩しません。
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密談フェーズ。
逃げ場のない密室で、一対一の腹を探り合う、最も濃密で最も危険な対話の場。
サロンの中央に立つユリアンが、ゆっくりと顔を上げた。
その青い瞳が、獲物を仕留める意志を宿して、まっすぐに私へと向けられる。
彼が、私を密談の相手として指名しようと、その薄い唇を開きかけた――その刹那だった。




