第21話:悪女の慈悲という名の布石
「皆様――少し、落ち着いてくださいまし」
大サロンの張り詰めた空気を優しく撫でるように、私の鈴を転がすような声が静かに響き渡った。
深夜二時四十分。
天井の吹き抜けを覆う「審問領域」の深紫色の燐光の下、サロンはまさに一触即発の修羅場と化していた。
床に両膝をつき、往診カバンを取り落としたまま蒼白な顔で絶望に打ちひしがれている主治医テオドール。
その彼を、まるで己の罪を覆い隠すための格好の生贄を見出したかのように、苛烈な言葉で糾弾し続ける義妹セレスティーヌ。
黒いレースの扇子の陰で、自らが暴いた『致死量スレスレの処方カルテ』の威力を値踏みし、冷酷に唇を吊り上げる未亡人フロランス。
そして、円卓の上座から氷の刃のような青い瞳で、法廷の断罪者のようにテオドールを見下ろす司法卿ユリアン。
誰もが、テオドールという「日常的に毒物を扱えた怪しい医師」の首に、喜んで縄をかけようとしていた。
極限のデスゲームにおいて、他人の罪が暴かれる瞬間ほど、自分以外の人間にとって甘美な救いはない。彼らはテオドールを処刑台へ送ることで、今夜の死の恐怖から逃れようと、一斉に牙を剥いていたのだ。
その血みどろの処刑劇の幕を、私は自らの一声で、鮮やかに押し留めてみせたのだ。
ざわり、とサロンの空気が揺らぐ。
セレスティーヌが非難の言葉を喉に詰まらせて振り返り、フロランスが扇子の動きを止める。
そして、床に手をついていたテオドールが、地獄の底で蜘蛛の糸を見上げた亡者のように、涙と脂汗で濡れた顔をゆっくりと上げた。
私は優雅にペルシャ絨毯を踏みしめ、円卓の端から、崩れ落ちるテオドールの傍らへと静かに歩み寄った。
大きく広がった夜会用ドレスの裾が、波打つように床を撫でる。
足首のパニエの内側、ワイヤーボーンのデッドスペースに括り付けられた『蒼鉛の雫』の空小瓶が、衣擦れの奥底で微かに揺れたが、その秘密は依然として完全なる闇の中にある。
私はテオドールの斜め前に立つと、慈愛に満ちた深い憂いをその琥珀色の瞳に宿らせ、サロンの面々をぐるりと見渡した。
「セレスティーヌ、そしてフロランス夫人も。……少々、物事を短絡的に捉えすぎてはいらっしゃいませんこと?」
「短絡的、ですって……!?」
セレスティーヌが、自らの旧遺言書を暴かれた屈辱を晴らそうと躍起になった声で噛みついてくる。
「お姉様! あのカルテの記録をご覧になったでしょう!? テオドール先生は、お父様に致死量スレスレの睡眠薬を処方し続けていたのですよ!? お父様の唇の変色と、先生の薬の成分は完全に一致しているのです! これ以上の動かぬ証拠がどこにあるとおっしゃるのですか!」
「ええ、カルテの記録は拝見いたしましたわ」
私は動じることなく、優しく諭すような微笑みを崩さなかった。
「ですが、だからこそ申し上げておりますのよ。――もしテオドール先生が、本気でお父様を毒殺なさるおつもりでしたら……ご自身の直筆署名と調剤印が入ったカルテを、自室の薬品棚にそのまま残すような、そんな間抜けな真似をなさるかしら?」
私の放った澄んだ問いかけが、サロンの天井へと高く吸い込まれていった。
「……あ」
セレスティーヌが息を詰まらせ、言葉を失った。
私は間髪を入れず、理路整然とした論理の網を、滑らかに紡ぎ広げていく。
「テオドール先生は、帝都の医術院を優秀な成績で修められた、本物の医学の専門家ですわ。もし医師が己の知識を悪用して完全犯罪を企てるなら、もっと足のつかない毒物を用いるか、あるいは真っ先に自らの処方記録を焼却隠滅するはずではありませんこと? 調剤日誌をそのまま棚に残していたということ自体が……先生にとって、その処方が『隠す必要のない、正当な医療行為』であったことの、何よりの証明ではありませんの?」
サロンの空気が、急速に反転し始めた。
テオドールを糾弾しようと前のめりになっていた者たちの表情に、ハッとしたような躊躇の影が差す。
未亡人フロランスが扇子の奥で目を細め、テオドールのカルテを改めて見つめ直す。
「……確かに。毒殺を企てる人間が、己のカルテを誇らしげに残しておくというのは、いささか杜撰に過ぎますわねえ」
私は胸元で両手を重ね、床に跪くテオドールへと、慈悲深き視線を投げかけた。
「テオドール先生は、三十年近くにわたって我がクローデル侯爵家に誠心誠意仕えてくださった、誠実で誇り高いお方です。お父様の重度の不眠症をなんとか和らげようと、苦悩の末に強い調合を選ばれたのでしょう。……その献身を、このような不吉な事件のスケープゴートにして貶めるなど、侯爵家の娘として決して看過できませんわ」
私の言葉は、完璧だった。
道徳的な高潔さ。
理路整然とした逆説的推論。
そして、長年仕えてきた医師に対する、主人の血筋としての絶対の庇護。
「お……お嬢様……!」
テオドールの瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
彼は床に額を擦りつけるようにして平伏し、しゃくりあげるような嗚咽を漏らしながら、震える両手を私の靴先に向けて伸ばそうとした。
「お嬢様……! ああ、ヴィヴィアンお嬢様……! ありがとうございます、ありがとうございます……! 私を、この老いぼれの潔白を信じてくださるのですね……! このご恩は……この御恩は、我が命が尽きようとも決して忘れません……!」
四面楚歌の絶望。全員から人殺しと罵られ、処刑台への階段を上らされかけていた老医師にとって、私の差し伸べた手は、まさに暗闇の底に降り注いだ唯一の神の奇跡に見えたのだ。
(……チョロいことね。本当に)
私は扇子の下で、冷酷に舌を這わせた。
内側では、軽蔑と嘲笑が渦巻いている。
人助け? 慈悲? そんな下らない感情で、私が動くはずがない。
すべては――『票田の囲い込み(ボート・コントロール)』だ。
マダミスにおいて、中盤で疑惑を向けられて孤立したプレイヤーを救い出すことには、計り知れないゲーム理論的価値がある。
絶望の淵から救い出してやったプレイヤーは、救い主に対して絶対的な心理的依存と恩義を抱く。
その結果――彼は、これ以降の議論において、「ヴィヴィアン様の意見に無条件で同調する盲目的な信徒」へと変貌するのだ。
翌朝六時の最終投票において、テオドールが私に投票することは金輪際あり得ない。
それどころか、私が「この男が犯人ですわ」と指差した相手に対し、テオドールは自らの意思を完全に放棄して、喜んで追従票を投じてくれる。
私はたった数言の弁護の言葉と引き換えに、『確実にコントロールできる一票』を手元にストックしたのだ。
さらに重要なのは、ヘイト(容疑度)の管理だ。
テオドールをここで完全に犯人として仕立て上げてしまえば、彼の疑惑は早期に議論され尽くし、消去法によって再び二十一時四十五分にブランデーを運んだ私へと関心が戻ってしまう恐れがあった。
テオドールには、「完全なシロ」ではなく、「怪しい薬を処方していたが、犯人とまでは断定できないグレーな味方」として盤面に生き残ってもらわねばならないのだ。
円卓の上座に立つユリアンが、冷徹な青い瞳をわずかに細め、私を射抜いていた。
その眼差しには、私の「慈悲」の裏にある冷酷な計算高さを、半ば察知しているかのような鋭利な光が宿っている。
「……見事な弁護だな、ヴィヴィアン嬢。主治医への情け深さには敬服する。だが――」
ユリアンは手袋をはめた指先で、テーブルの上の羊皮紙を軽く叩いた。
「テオドールの薬が即効性の毒殺に直結し得ないとしても、侯爵が毒によって絶命したという物理的現実に変わりはない。……テオドールが犯人でないならば、一体誰が、あの書斎で侯爵を害したというのだ?」
探偵役からの、次なる問い。
テオドールという獲物を奪われたことで、サロン全体の関心は再び「では、真犯人は誰なのか」という、危険な空白状態へと戻りかけていた。
その空白を、一秒たりとも放置してはならない。
疑いの視線が散らばり、再び私へと収束する前に――用意しておいた「真の獲物」へと、全員の視線を強制的に誘導しなければならないのだ。
(さあ……出番よ、エドガー)
私は胸元で扇子を優雅に広げると、サロンの隅――壁際に背中を押し当ててガタガタと震えている男へと、ゆっくりと視線を流した。
その所作は、あくまで自然で、あくまで無垢な令嬢のふとした気づきのように。
「誰が、ですの……? ええ、私も不思議でなりませんわ。……ですが、そう言えば」
私は小首を傾げ、困惑したような愛らしい表情を作りながら、視線をエドガーの手元へと固定した。
「エドガー様? ……先ほどから気になっておりましたのだけれど」
サロンの空気が、ピシリと凍りついた。
全員の視線が、私の視線を追うようにして、一斉にエドガー・フォン・ハルデンベルクへと集中する。
エドガーの身体が、まるで冷水を浴びせられたかのように激しく痙攣した。
「え……? お、俺……?」
私は心配そうに眉尻を下げ、痛ましげな声音で問いかけた。
「エドガー様。あなた……先ほど書斎から戻られて以来、ずっと右手を上着のポケットに入れたままでいらっしゃいますわね? 先ほどテオドール先生のカルテが開示された際も、一度としてその手をポケットから出そうとなさらなかった……。何か、素敵なものでもお拾いになりまして? それとも、右手に何か、見せられないものでもお隠しですの?」
――ドクンッ!!
エドガーの心臓の跳ねる音が、静まり返ったサロンに聞こえてきそうなほどの衝撃が走った。
エドガーの顔面から、完全に血の気が失せた。
青ざめるどころではない。土気色を通り越して、死人のような灰褐色に変色した肌から、滝のような脂汗が止めどなく噴き出していく。
彼の右手は、まさに上着の右ポケットの奥深くで、第19話で現場から拾い上げた『自らの家紋入り銀カフスボタン』を、布地ごと握り潰すようにして硬直していたのだ。
「な……ななな、何を言っているんだヴィヴィアン!?」
エドガーは裏返った金切り声を上げ、椅子から飛び退くように立ち上がった。
だが、その右手は――驚くべきことに、恐怖と執着のあまり、依然としてポケットの中に突っ込まれたままだった。
「な、何も入ってなどいない! 俺はただ、手が冷えたからポケットに入れていただけだ! そうだ、ただの癖だ! やましい物など、何一つ入ってなどいないぞ!!」
醜悪極まりない、誰の目にも明らかな動揺。
弁明すればするほど、その全身が「やましい物を隠し持っています」と叫んでいるに等しい姿だった。
そして――。
私の仕掛けた完璧な火種に、これ以上ない最高のタイミングで、油を注ぎ込む者が現れた。
「――そうですわ!!」
サロンの静寂を切り裂いて、鋭い金切り声が響き渡った。
立ち上がったのは、家政婦長のマルタだった。
三十年屋敷に仕えてきた初老の家政婦長は、エプロンを固く握りしめ、憤怒と告発の光をその目に宿して、震える指先をエドガーへと突きつけたのだ。
第19話において、エドガーの書斎調査に「監視立会人」として同行していた、唯一の目撃者。
「皆様、聞いてくださいまし! エドガー様は嘘をついておられます!」
マルタは唾を飛ばし、全員の前で叫び立てた。
「先ほど二階の書斎で調査をされた際、エドガー様は執務机の脚元――絨毯の隙間を必死になって探しておられました! そして、床から何か小さな金属のようなものを拾い上げると、顔色を真っ青に変えて、慌ててその右ポケットへとねじ込まれたのです! 私が『何を拾われたのですか』と尋ねても、『ただの紙屑だ』と喚いて誤魔化し、審問領域のプロンプトで【隠蔽】を選ばれました!」
マルタの爆弾告発。
立会人による、決定的な現行犯の目撃証言が、サロンに炸裂した。
「な……っ!?」
エドガーが息を詰まらせ、喉からヒューヒューと過呼吸のような音を漏らした。
「ば……馬鹿な、マルタ、貴様……使用人の分際で、この俺を陥れる気か!? 出鱈目を言うな、出鱈目を!!」
だが、もはや誰の目にも、出鱈目を言っているのがどちらであるかは明白だった。
サロンの全員の視線が、氷の槍となってエドガーへと突き刺さっていた。
セレスティーヌが蔑むように目を細め、未亡人フロランスが扇子の陰で冷酷な嘲笑を浮かべ、先ほど私に命を救われたテオドール医師が、自らの容疑を晴らしてくれた恩人に報いるかのように、怒りを込めてエドガーを睨みつける。
そして――円卓の上座に立つ司法卿、ユリアン・フォン・ファルケンハイン。
彼の青い瞳の奥に、獲物の心臓を完全に捉えた狩人の、冷酷極まりない確信の光がギラリと灯っていた。
「……なるほどな」
ユリアンの低い呟きが、サロンの空気を凍てつかせた。
「現場の書斎の床、遺体の足元から何かを拾い上げ、立会人の前で慌ててポケットに隠蔽したか。……ハルデンベルク卿。貴様がその右ポケットの中に隠しているものは、一体何だ?」
ユリアンが、大股でエドガーの方へと歩み出そうと、一歩足を踏み出した。
完全なる、包囲網の完成。
私が第14話で絨毯の隙間に仕掛け、第19話でエドガー自身に拾わせたあの時限爆弾が、今、完璧な連鎖反応を起こして爆発しようとしていたのだ。
エドガーはもはや言葉を失い、青白い顔で後退り、暖炉の柵に背中を打ちつけた。
その右手は、依然としてポケットの中でガタガタと震え続けている。
彼が、狂乱のあまり悲鳴のような弁明を叫ぼうと、その引きつった口を開きかけた――まさに、その刹那だった。
ゴオオオオオン……――!
サロンの吹き抜けに、屋敷の骨組みを芯から揺るがすような、重厚で巨大な鐘の音が鳴り響いた。
深夜三時ジャスト。
壁の大時計の針が垂直に重なり合い、長針と短針が新たな刻限の到来を告げていた。
頭上の天井を覆う「審問領域」が、鮮やかな黄金から、再び不気味で濃密な深紫色へと一気に色相を変えた。
空間全体に走る、チリチリとした魔力の摩擦音。
全員の網膜の裏側に、冷酷なシステムメッセージが焼き付けるように浮かび上がった。
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【第1回調査結果共有フェーズ:終了】
・刻限:深夜3:00
【フェーズ移行:密談フェーズ2】
・制限時間:10分
・ルール:指名権を持つ者が任意の1名を指名し、指定された小部屋に入室。
・第2回指名権獲得者:ユリアン・フォン・ファルケンハイン
(※第1回証拠調査を最も迅速に完了した者に付与されます)
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無機質なシステムアナウンスが、大サロンの空間全体に響き渡った。
議論の強制中断。
エドガーが喉まで出かかっていた悲鳴を飲み込み、へたり込むように床に手をついた。
彼にとっては、この鐘の音は処刑台の刃が落ちる寸前に挟まれた、一時的な猶予に思えたのだろう。だが、それは破滅がほんの数十分先送りされただけに過ぎない。
そして――。
カツン、と硬質な軍靴の音が、静まり返ったサロンに響いた。
第2回の密談指名権を手に入れた男。
帝国司法卿、ユリアン・フォン・ファルケンハインが、ゆっくりと身を翻したのだ。
彼は手袋をはめ直し、怜悧な、そして底知れぬ知的な愉悦を湛えた笑みを唇の端に浮かべていた。
その青い瞳は、怯えるエドガーでも、泣き濡れるセレスティーヌでもなく。
サロンの中央で、優雅に背筋を伸ばして微笑んでいた私――ヴィヴィアン・クローデルを、寸分の狂いもなく射抜いていた。
逃げ場のない一対一の密談室への招待状。
名探偵からの、直接指名。
「――ヴィヴィアン・クローデル嬢」
ユリアンの低い、甘美な毒を含んだ声が、私の耳朶を打った。
「次の十分間、私に付き合ってもらおうか」




