第20話:暴かれたカルテ
深夜二時三十分。
白亜館の大サロンに、屋敷の太い梁を震わせるような重々しい魔力鐘が、三度打ち鳴らされた。
頭上の吹き抜けを見上げれば、深紫色の結界が波打ち、黄金の文字が円卓を囲む八名の網膜の上へと一斉に降り注ぐ。
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【証拠調査フェーズ1:全工程終了】
・第1指名者:書斎暖炉[公開カード1:破られた手紙]
・第2指名者:執務机[公開カード2:旧遺言書]
・第3指名者:ヴィヴィアン私室[該当物品なし]
・第4指名者:書斎絨毯[非公開(隠蔽)カード1]
・第5指名者:調剤室[獲得カードあり]
・第6指名者:厨房[獲得カードあり]
・第7指名者:中庭回廊[該当物品なし]
・第8指名者:バルコニー下[非公開(隠蔽)カード2]
【フェーズ移行:第1回調査結果共有フェーズ】
・各自、獲得した証拠の開示、ならびに発見事実の報告を行ってください。
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無機質で、血の通わない審問領域のアナウンス。
サロンに張り詰めていた重圧が、一段と湿り気を帯びて重く沈み込んでいく。
全員の手元にあった三枚の「証拠調査トークン」のうち、正確に一枚ずつが消費された。
残されたコインは、各自あと二枚。
盤面全体に存在する二十四枚のリソースのうち、三分の一が消費され、この豪雪の孤城に隠されていた「最初の闇」が、水面上へと引きずり出されたのだ。
私は自席の椅子に深く腰掛け、扇子の端で自らの鎖骨を優雅に撫でながら、円卓の面々の表情を冷徹にスキャンしていた。
まず、私の従者ローレンス。
彼は円卓の隅で直立不動の姿勢を崩さず、伏せられた漆黒の瞳には何の動揺も宿していない。
彼が第12話で私から受けた指示通り、二階書斎の真下――中庭のバルコニー下の雪だまりを捜索し、手に入れた証拠を迷わず【非公開(隠蔽)】枠へと収めたことが、システム表示によって確認できた。
エドガーが現場から逃走した際の足跡か、あるいは彼が落とした別の小物の痕跡。それを誰の目にも触れさせず、私の陣営の手札として秘匿することに成功したのだ。
そして――私の婚約者、エドガー・フォン・ハルデンベルク。
彼の様子は、もはや見るに堪えなかった。
壁際に背中を押し当て、腰掛けた椅子の端を両手で白くなるほど強く掴んでいる。
その右手は、依然として上着の右ポケットの奥深くへと突っ込まれ、外側から何かの膨らみを隠すように、不自然極まりない力加減で握りしめられていた。
第19話において、彼が現場から自ら拾い上げ、パニックのあまり隠蔽した自らの遺留品――『家紋入り銀カフスボタン』。
その存在が、まるでポケットの中で赤く焼けた鉄塊のように、彼の精神を内側から焼き苛んでいるのだ。
義妹セレスティーヌは、第15話で自らを廃嫡に追い込む『旧遺言書』を暴かれて以来、生気を失った顔で胸元の十字架を握りしめ、ただ小さく震えている。
「……さて」
円卓の上座に立つ司法卿、ユリアン・フォン・ファルケンハインの氷のような声が、沈黙の澱を両断した。
彼は手袋をはめ直した右手をテーブルの天板に置き、冷徹な青い瞳で円卓を見渡す。
「全員の第一回調査が終了した。すでにシステム上で開示されている通り、ヴィヴィアン嬢が発見した『密輸を示唆する手紙』、そしてセレスティーヌ嬢が引き出しから暴いた『旧遺言書』については、すでに全員の知るところだ。エドガーとローレンスが隠蔽枠を行使した件については、後ほど徹底的に追及させてもらうが……」
ユリアンの視線が、円卓の向かい側――優雅に長椅子に腰掛ける一人の淑女へと向けられた。
「まずは、貴様からだ。フロランス・ド・ヴィリエ伯爵夫人。貴様がテオドール医師の調剤室を捜索して手に入れたカードを、全員の前に開示してもらおうか」
サロンの全員の視線が、一斉に未亡人フロランスへと集中した。
フロランスは黒いレースの扇子をパタパタと胸元で揺らし、濡れたような黒髪を肩越しに払った。
その妖艶な唇の端には、社交界で数多の男たちを手玉に取ってきた女流貴族特有の、サソリの毒針のように甘美で冷酷な笑みが浮かんでいる。
「まあ、ユリアン卿。そんなに怖いお顔で睨まないでくださる? わたくし、隠すことなど何一つございませんわ。……やましい秘密を抱えてポケットを握りしめている殿方とは違って、ね」
フロランスは扇子の先で、サロンの隅で震えるエドガーをちらりと流し見した。
エドガーがビクッと肩を跳ねさせ、憎悪と恐怖の入り混じった目で彼女を睨み返す。
第13話の直前、密談においてエドガーの借用書の債権を盾に彼を脅迫したフロランスだ。彼女にとって、エドガーを精神的に追い詰めることなど、朝の紅茶を嗜むよりも容易い児戯に過ぎない。
フロランスは優美な仕草で、空中に浮かんでいた青白い証拠カードを、その細い指先で軽やかにタップした。
「皆様、聞いてくださるかしら? わたくしがテオドール先生のお部屋――一階の調剤室を調査いたしましたところ……大変、大変興味深い記録が出てまいりましたのよ」
パアァッ……と光が弾けた。
サロンの中央に、巨大な羊皮紙のホログラムが展開される。
全員の網膜上にも、同時にその文字列が強制的に投影された。
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【証拠カード獲得:全体公開】
・名称:『調剤日誌および劇薬物出納記録』
・発見場所:1階・テオドール調剤室の薬品棚奥
・作成・管理責任者:主治医テオドール・ヴァイス(直筆署名・調剤印あり)
【記録内容の要約】
アルブレヒト侯爵に対し、過去三ヶ月間にわたって処方されていた重度の不眠症治療薬(主成分:銀塩化合物含有睡眠薬)の処方履歴。
・三ヶ月前:規定量(1日1包)
・二ヶ月前:規定量の1.5倍(1日2包)
・先月:規定量の2倍
・直近一週間:**【通常の致死量スレスレ】**に相当する、規定量の3倍の特別調合が連続処方されている。
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文字が空間を満たした瞬間、大サロンの空気が、まるで火薬庫に火が落ちたかのように激変した。
「な……!?」
「規定量の、三倍……!?」
テオドール医師の隣に座っていたマルタが息を呑み、椅子から飛び退くように後退った。
セレスティーヌが信じられないものを見るように目を見開き、エドガーですら自らのポケットから意識を離してカードを凝視した。
「致死量スレスレ……だと……?」
ユリアンの青い瞳が、獲物の急所を捉えた刃のように細められた。
その視線が、円卓の端で手帳を抱えたまま凍りついている壮年の医師へと、一直線に突き刺さる。
「テオドール医師。……これは、一体何の冗談だ?」
ユリアンの低い声は、静かでありながら、法廷で死刑判決を言い渡す裁判長のような冷徹な響きを帯びていた。
「先ほどの第4話において、貴様は『二十一時三十分まで書斎で侯爵を診察し、睡眠薬を処方した』と申告したな。そして第5話の検死では、自ら『死因は心不全、劇薬物による中毒死の可能性が高い』と解説してみせた。……だが、その薬を日常的に、しかも致死量ギリギリの濃度で侯爵の体内に注ぎ込み続けていたのは、他ならぬ貴様自身ではないか」
「ち、違う……! 違います、ユリアン卿!」
テオドールは弾かれたように立ち上がった。
その顔からは、完全に血の気が失せていた。
普段の温厚で人当たりのいい医師の面影はどこにもなく、額に指を当てて眼鏡を押し上げる手は、痙攣したように激しく震えている。往診カバンが膝から滑り落ち、絨毯の上で鈍い音を立てた。
「そ、それは……閣下の、重度の不眠症を治療するための、やむを得ない処置だったのです! 閣下はここ数ヶ月、夜になると激しい幻覚と頭痛に苛まれ、眠ることができないと毎夜のように私を呼び出しておられました! 通常の量では全く効果がなく、閣下ご自身から『もっと強い薬を持ってこい、眠れぬなら貴様を医療過誤で訴えてやる』と、激しく脅迫されていたのです!」
テオドールは唾を飛ばし、必死の形相で両手を広げて弁明を叫んだ。
だが、その弁明は、聞く者すべてにとって「自白」にしか聞こえなかった。
「脅迫されていた……?」
セレスティーヌが、震える声で立ち上がった。
先ほどまで旧遺言書のせいで四面楚歌に陥り、泣き崩れていた彼女の碧眼に、ここぞとばかりに他者を糾弾するための鋭利な光が宿っていた。
人間は、自らの疑惑を晴らすためなら、他人の綻びをどこまでも残酷に攻撃できる生き物だ。
セレスティーヌは涙の痕が残る頬を怒りに歪め、震える指先をテオドールへと突きつけた。
「テオドール先生……! あなた、お父様に何を飲ませていたのですか!? 脅迫されていたから……ご自分の過去の医療過誤を盾に脅されていたから、お父様を恨んでいたのでしょう!? だから、お父様を毒殺するために、少しずつ毒を盛っていたのではありませんか!?」
「違いますセレスティーヌ様! 私は殺してなどいない!」
テオドールは悲鳴のような声を上げ、頭を抱え込んだ。
「あれは睡眠薬です! 確かに心臓に負担をかける成分は含まれておりますが、一度に大量に服用しなければ、即座に心不全を引き起こすようなものではありません! 昨夜お渡しした分も、一晩分の適正な用量でした! 私が殺したのではない、断じて毒殺などではありません!!」
醜悪極まりない崩壊。
サロンの空気は、一瞬にしてテオドール医師への糾弾一色へと染まり上がった。
ユリアンの冷徹な視線。
セレスティーヌのヒステリックな告発。
フロランスの冷笑。
マルタの怯えと軽蔑。
(……素晴らしいわ、フロランス夫人)
その狂乱の只中で、私は扇子の下で、歓喜に震える口元を誰にも悟られないよう隠していた。
背筋を駆け抜ける、強烈な快楽。
私のマダミス廃人としての脳細胞が、極限の明晰さで新たな盤面の勢力図を完成させていた。
(思考を整理しなさい。……この展開が、真犯人(私)にとって何を意味するかを!)
フロランスの放った一撃によって、盤面には「第二の特大容疑者」が完全に爆誕したのだ。
客観的な事実を照合してみるがいい。
アルブレヒト侯爵の遺体の唇に残されていた、あの「微かな銀白色の変色」。
第5話において、テオドール自身が「鉱物毒の初期症状」と鑑定したあの痕跡だ。
だが――今暴かれたカルテによれば、テオドールが処方していた睡眠薬には、まさにその銀白色の沈着を引き起こす銀塩化合物が、致死量スレスレの濃度で含まれていたのだ。
つまり――。
テオドール医師には、『侯爵から脅迫されていたという強烈な動機』があり、『日常的に毒物を投与できる絶対の機会』があり、そして『遺体の症状と完全に一致する薬品を所持・処方していたという動かぬ物証』が存在するのだ。
これ以上ない、完璧な容疑者の構図。
誰がどう見ても、テオドールは「長期間にわたって被害者を毒殺しようと企んでいた、第一級の毒殺犯候補」として、盤面の中心へと躍り出たのだ。
(これで、役者は完全に揃ったわね)
私は心の中で、円卓の面々を順に指差していった。
一人目:エドガー・フォン・ハルデンベルク。
昨夜二十二時四十五分に短剣を持って現場へ侵入した未遂犯。現場にカフスボタンを落とし、それを自ら隠蔽してポケットに握りしめている、最も愚かで最も目立つスケープゴート。
二人目:セレスティーヌ・フォン・ローゼンベリ。
全財産を修道院へ寄付され、養子縁組を解消されて放り出される寸前だった養女。旧遺言書の存在を巡って激しい殺意を抱いていた、最も生々しい動機を持つ容疑者。
三人目:テオドール・ヴァイス。
過去の医療過誤を盾に脅迫され、侯爵に致死量スレスレの睡眠薬を日常的に投与し続けていた主治医。医学的知識と毒物の入手経路を持つ、最も現実的な毒殺者候補。
(……三つ巴よ)
私の胸の内で、冷酷な悪女の哄笑が響き渡る。
マダミスにおける究極の防衛陣形――『容疑者の過密化』。
もし盤面に怪しい人間が一人しかいなければ、探偵役や他のプレイヤーの思考リソースはその一人を潰すことに集中する。そして、その一人がシロだと判明した瞬間に、次のターゲットへと矛先が移る。
だが――もし盤面に、「決定的な動機を持つ者」「現場に兇刃を持って侵入した者」「日常的に毒を盛っていた者」という、甲乙つけがたい特級の容疑者が三人も同時にひしめき合っていたらどうなるか?
プレイヤーたちの議論は、泥沼の三角関係へと突入するのだ。
「エドガーが怪しい!」「いや、セレスティーヌの動機の方が強い!」「いや待て、テオドールの薬こそが真の凶器ではないのか!?」――と。
互いが互いの疑惑を擦り付け合い、醜悪な足の引っ張り合いを繰り広げ、議論の時間は加速度的に溶けていく。
そして――。
その血みどろの容疑者レースの中で、真犯人である私、ヴィヴィアン・クローデルの立ち位置はどうなっている?
二十一時四十五分にブランデーを運んだ事実を堂々と自己開示し。
自室を名探偵ユリアンに徹底的に洗わせて「該当物品なし」の公認シロ判定を勝ち取り。
手に入れた手紙の切れ端を惜しげもなく全体公開して潔白をアピールした、高潔なる侯爵令嬢。
私のヘイト(容疑度)は、今や盤面の中で極限まで希釈され、不可侵の聖域へと押し出されていたのだ。
私を疑う余裕など、今の彼らには一秒たりとも残されていない。
「……言い逃れは見苦しいぞ、テオドール」
ユリアンの冷え切った声が、パニックに陥る医師をさらに追い詰めた。
「貴様のカルテに記された処方量は、客観的な事実だ。貴様が侯爵を毒殺する意志を持っていたか否かは、法廷で弁明するがいい。……現時点で、貴様が最も有罪に近い薬品を扱っていた事実に変わりはない」
「ユリアン卿……! 信じてください、私は……私は……!」
テオドールは膝から崩れ落ち、床に手をついて絶望の呻きを漏らした。
サロンの全員が、冷淡な、あるいは糾弾の眼差しで医師を見下ろしている。誰も彼を庇おうとはしない。誰も彼の無実を信じようとはしない。
完全に、四面楚歌。
テオドール・ヴァイスは今、この審問領域という名の処刑台の階段の、まさに一段目に足をかけさせられたのだ。
だが――。
その静まり返ったサロンの只中で。
私は膝の上で扇子を静かに閉じ、冷徹な計算のもとに、ゆっくりと立ち上がった。
(ここよ。……ここが、勝負の分かれ目だわ)
私のマダミス廃人としての直感が、次なる最高の一手を告げていた。
テオドールをこのまま孤立させて見殺しにするのは三流だ。
極限の絶望に叩き落とされた人間に対して、誰も予想しなかった角度から「救いの手」を差し伸べてやること――それこそが、後の最終投票において、絶対の票田を手に入れるための至高の布石となる。
私は優雅にドレスの裾を払うと、サロンの全員の視線が集まる中央へと、静かに歩み出た。
「皆様――少し、落ち着いてくださいまし」
鈴を転がすような、凛とした、そして慈愛に満ちた私の声が、凍りついたサロンの空気を優しく包み込んだ。




