第19話:踏み抜かれた地雷
深夜二時十五分。
三階の私室から大サロンへと戻る中央階段を下りながら、私の耳には、階下から漂う重苦しい緊張のざわめきが届いていた。
私の先を歩く監察卿ユリアンの背中は、先ほどまで私を壁際へと追い詰めていた時のあの危険な熱量を、綺麗さっぱり氷の鎧の内側へと仕舞い込んでいた。
だが、その無言の足取り、規則正しい軍靴の音の奥底には、自らの調査トークンを一枚消費しながら「該当物品なし」という完全な空振りを喫したことに対する、冷たい屈辱と猜疑心が澱のように沈んでいるのを、私は見逃さない。
大サロンの豪奢なアーチをくぐった瞬間、円卓を囲む面々の視線が、まるで裁きを待つ群衆のように一斉に私たちへと突き刺さった。
「ユリアン卿……! ヴィヴィアン……!」
弾かれたように立ち上がったのは、婚約者エドガーだった。
彼は長椅子と円卓の間の絨毯の上で落ち着きなく足踏みをし、今にも爪を噛みそうなほど切迫した表情で、私とユリアンの顔色を交互に見比べている。
隣に座る義妹セレスティーヌは、自らの旧遺言書を暴かれたショックから立ち直れぬまま、涙で赤く腫らした碧眼を伏せ、祈るように組んだ指先を震わせていた。未亡人フロランスは扇子をゆったりと揺らし、主治医テオドールは手帳を膝に載せたまま生唾を飲み込んでいる。
ユリアンはサロンの中央、円卓の上座へと歩み出ると、一切の感情を交えない事務的な声音で、虚空に向けて宣告した。
「3階・ヴィヴィアン私室の調査は完了した。……審問領域の判定は『該当物品なし』。毒薬の残留、不審な調合器具、凶器の類は一切発見されなかった」
サロンの空気が、ふっと弛緩した。
「何も出なかったのか……!」とエドガーが安堵の息を漏らし、テオドールが眼鏡を直す。
一方、セレスティーヌはわずかに唇を噛み、姉の潔白が証明されたことに対するやり場のない焦燥をその睫毛の奥に隠していた。
ユリアンは冷徹な眼差しで一同を見渡すと、手袋をはめた指先でテーブルの天板をトンと叩いた。
「私のターンは終了した。……次だ。第4指名者、エドガー・フォン・ハルデンベルク卿」
宣告が落ちた瞬間、エドガーの肩がビクッと跳ねた。
頭上の吹き抜けに展開された「審問領域」の青白い魔術陣が、新たな調査者の名を黄金の文字で点滅させ始める。
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【証拠調査フェーズ1:進行中】
・第3指名者:調査終了[獲得カード:なし]
・これより――第4指名者:エドガー・フォン・ハルデンベルクの調査を開始します。
・調査制限時間:5分
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「お、俺の番……」
エドガーは掠れた声を喉から絞り出し、掌の上に残された二枚の真鍮コイン――証拠調査トークンを見つめた。
その指先は、小刻みに、しかし止まることなく震えている。
彼の脳内を支配しているのは、ただ一つ――底知れぬ「恐怖」だ。
昨夜二十二時四十五分。
借金の帳消しを迫るため、懐に短剣を忍ばせて二階の書斎へと侵入したあの記憶。
机に突っ伏してすでに息絶えていたアルブレヒト侯爵の冷たい死体。
パニックに陥り、短剣を取り落としそうになって絨毯を傷つけ、命からがら逃げ出したあの数分間。
そして、第8話でユリアンが告げた「現場に残された予定外の刃物の痕跡」という言葉。
エドガーは今、狂おしいほどの強迫観念に苛まれているのだ。
(俺はあの時、何か痕跡を残してこなかったか? 足跡は? 血痕は? それとも……何か、致命的な私物をあの部屋に落としてきてしまったのではないか!?)
誰かに調べられる前に、自分自身の手で現場を確認し、もし痕跡があれば握り潰さねばならない。
容疑者が陥る、最も典型的で、最も愚かな心理誘導。
「……ハルデンベルク卿。対象エリアを指定しろ」
ユリアンの冷ややかな催促が飛ぶ。
エドガーは生唾を飲み込み、引きつった笑みを浮かべようとして無様に顔を歪めた。
「お、俺は……二階の、書斎だ! 父上が亡くなられたあの現場を……俺自身の目で、改めて調査させてもらう! 義父上を害した真犯人の手がかりが、まだ見落とされているかもしれんからな!」
見え透いた虚勢。
だが、審問領域のルール上、調査場所の選択は自由だ。
ユリアンは冷淡に視線を巡らせ、円卓の隅で控えていた初老の女性へと指先を向けた。
「エドガーの調査には、家政婦長マルタ。貴様が立会人として同行しろ」
「は、はい……! 畏まりました、ユリアン卿……!」
マルタは胸の前でエプロンを握りしめ、おどおどと立ち上がった。三十年屋敷に仕えてきた彼女の目は、怯えの中にも、主人の命を奪った者を決して許さないという頑なな光を宿している。
エドガーはふらつく足取りで歩き出し、サロンを出る直前、すがるように私を振り返った。
その瞳は、まるで救いを求める溺死者のようだった。
私は胸元で両手を重ね、聖母のように優しく、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて彼を送り出してやった。
「いってらっしゃいませ、エドガー様。……神のお導きが、あなたにありますように」
(ええ、いってらっしゃいな、哀れな婚約者様。……特大の地雷原が、あなたを待っているわ)
私の内心の冷酷な嘲笑に見送られながら、エドガーとマルタの足音は、二階へと続く大階段の上へと消えていった。
◆ エドガー・フォン・ハルデンベルク ◆
心臓が、肋骨の内側を破らんばかりに激しく脈打っていた。
二階の薄暗い回廊を踏みしめるたび、膝が笑って崩れそうになるのを、俺は必死で太ももに力を込めて耐えていた。
背後からは、家政婦長マルタの擦り切れた靴音が、まるで死神の足音のようにピタピタと追従してくる。
(落ち着け……落ち着くんだ、エドガー・フォン・ハルデンベルク! 俺は何も殺していない! 父上は、俺が部屋に入った時にはもう死んでいたんだ! 俺が刺したわけじゃない!)
脳内で、何度も何度も同じ呪文を繰り返す。
だが、額から噴き出す嫌な脂汗は止まらない。
首筋に張り付いたネクタイが、首を絞める縄のように息苦しい。
二階東翼の最奥。
重厚な書斎のオーク材の扉の前に立つ。
掌の中の真鍮コインをかざすと、カチリと魔力の解錠音が響き、コインが光の粒子となって消え去った。
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【証拠調査トークン消費:1枚(残り1枚)】
・調査者:エドガー・フォン・ハルデンベルク
・立会人:マルタ・グリム
・調査対象エリア:二階書斎・執務机周辺
・調査制限時間:5分
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扉を押し開ける。
室内に充満する、冬の夜気と、死の冷気。
部屋の中央には、あの忌まわしい執務机。
机の上には、突っ伏したままのアルブレヒト侯爵の遺体。
灰色の濁った瞳、銀白色に変色した唇。
今夜二十二時四十五分、短剣を懐に忍ばせてこの部屋に忍び込んだ時と、寸分違わぬ悪夢の光景がそこにあった。
「ひ……っ」
喉の奥から悲鳴が漏れそうになり、俺は慌てて口元を手の甲で塞いだ。
背後で、マルタが訝しげに眉をひそめる気配がする。見苦しい姿を晒すわけにはいかない。俺は伯爵家の嫡男なのだ。
(探すんだ……! 俺が何か、ここに残していないかを……!)
俺は机の上の死体から極力視線を逸らしながら、執務机の周囲の床へと目を落とした。
濃紺のペルシャ絨毯。
机の脚元には、ユリアンが指摘した通り、短剣の切っ先が抉ったのであろう絨毯の傷痕が生々しく残っている。それを見ただけで、あの時の恐怖が蘇って胃液が逆流しそうになる。
「エドガー様……何を、お探しなのですか?」
扉の前に立つマルタが、しわがれた声で尋ねてきた。その目は、探るように俺の背中を凝視している。
「な、なんでもない! 床に何か、争った痕跡がないか見ているだけだ! 黙って見ていろ!」
怒鳴り散らして誤魔化しながら、俺は机の右側へと回り込んだ。
絨毯の上を這うように、視線を巡らせる。
机の天板、散らばる書類、椅子の下、暖炉の前の灰――。
そして――。
俺の視線が、執務机の右脚の付け根、毛足の長い絨毯の奥深い隙間へと落ちた、その瞬間だった。
(……あ?)
呼吸が止まった。
暖炉の残り火の薄暗い光と、結界の燐光の隙間で。
毛足の深い濃紺の絨毯の奥底に、何かが――キラリと、冷たく銀色に反射したのだ。
親指の爪ほどの、小さな金属片。
机の脚の真裏、上から見下ろしただけでは決して見えない、床と木材の隙間に埋もれるようにして転がっている、丸いボタン。
俺は吸い寄せられるように、その場に膝をついた。
両手を絨毯につき、顔を床すれすれまで近づける。
震える指先が、その冷たい金属片に触れた。
拾い上げる。
手のひらの上に載ったそれを見た瞬間――俺の脳天を、巨大な雷鳴が直撃した。
「ひ……っ、あ……ああっ……!?」
声にならない絶叫が喉を焼き、俺は自らの両手で口を裂けんばかりに塞いだ。
全身の血の気が一瞬で引き、足の爪先から頭のてっぺんまでが、氷水に漬けられたように凍りついた。
手のひらの上で鈍く光る、銀のボタン。
精緻な透かし彫りで刻まれているのは――双頭の鷲と、茨の冠。
ハルデンベルク伯爵家の、家紋。
俺が今夜身につけている夜会服の、左袖――失われていたはずの、俺自身のカフスボタンだった。
(な……ぜだ……!? なぜ、こんなところに落ちているんだ……!?)
心臓が早鐘のように狂い打つ。
ドクン、ドクン、ドクンと、耳の奥で血管が破裂しそうなほどの音が鳴り響く。
(やはり……やはり俺があの時、落としていったのか!? 死体を見てパニックになって逃げる時……机の脚にぶつかって、袖口から外れて落ちたのか!?)
記憶が混濁する。
昨夜逃げ出した時、袖口のことなど気にする余裕はなかった。部屋に戻ってからカフスが片方ないことに気づき、どこで落としたのかと青ざめていたのだ。
それが――まさに、この犯行現場の、死体のすぐ足元の絨毯に落ちていた。
動かぬ証拠。
言い逃れの余地のない、物理的遺留品。
もしこれがユリアンの手に渡ればどうなる?
『エドガー・フォン・ハルデンベルクの家紋入りカフスが、遺体の足元から発見された。刃物を持って現場に入ったのは貴様だな』――その一言で、俺の人生は終わる。
貴族院からの追放どころではない。審問領域の雷光で、魂を消滅させられるのだ。
その時――。
ポォン……と、無機質で残酷な魔力音が、俺の頭蓋の真上で響き渡った。
俺の掌の上にあるカフスボタンから、青白い光が立ち上り、目の前の空中に半透明のシステムウィンドウが展開されたのだ。
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【証拠カード獲得】
・名称:『ハルデンベルク家の家紋入り銀カフスボタン』
・発見場所:書斎・執務机の脚元絨毯
・選択プロンプト:【全体公開】または【非公開(隠蔽)】を選択してください。
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審問領域のルール。
手に入れた証拠は、即座に「全体公開」するか、「手元に隠蔽」するかを選ばねばならない。
(公開……!? ふざけるな、公開なんてできるわけがないだろうが!!)
こんなものを全員の前に晒してみろ!
セレスティーヌは俺を罵倒し、フロランスは嘲笑い、ユリアンは冷酷に俺を犯人と断定するに決まっている!
死ぬ! 公開したら、俺は死ぬんだ!!
「……エドガー様?」
背後から、マルタの不審そうな声が飛んできた。
「何を……何を拾われたのですか? 何か、見つかりましたのか……?」
「っ――!!」
マルタが近づいてくる気配。
時間がない。思考する余裕など、一秒も残されていない。
パニックで焼き切れた俺の右手は、吸い寄せられるように、空中に浮かぶ【非公開(隠蔽)】のプロンプトを、狂ったように力任せに叩いていた。
パシュン、と光が収束し、カードのホログラムが消滅する。
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【証拠の隠蔽を実行】
・『ハルデンベルク家の家紋入り銀カフスボタン』を手元に秘匿しました。
・警告:あなたの隠蔽スロット(1枠)は消費されました。
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俺は震える指先で銀のカフスボタンを握りしめると、弾かれたように立ち上がり、それを自らの上着の右ポケットの奥深くへと、乱暴にねじ込んだ。
奥へ、もっと奥へ。誰の目にも触れないように、ポケットの布地ごと握り潰すようにして。
「な、なんでもない! 何でもないんだマルタ! 埃だ、ただの紙屑が落ちていただけだ!」
俺は息を荒らげ、唾を飛ばしながら叫んだ。
だが――振り返った俺の目に飛び込んできたのは、マルタの冷たく見開かれた瞳だった。
マルタは、見ていたのだ。
俺が床に這いつくばり、何か金属めいたものを拾い上げ、顔色を土気色に変えて、必死の形相で右ポケットへと押し込んだ、その一連の異様な挙動のすべてを。
「……そうですか。紙屑、でございますか」
マルタの声には、隠しようのない疑念と警戒が張り付いていた。
キィィィィン……と、調査終了の鐘が鳴る。
五分が経過したのだ。
俺はポケットの中の冷たい金属を強く握りしめたまま、逃げるように書斎を飛び出した。
階段を転がり落ちそうになりながら、サロンへと向かう。
助かった、隠し通せた――そう自分に言い聞かせる一方で。
ポケットの中のボタンが、まるで焼き鏝のように、俺の太ももを熱く焦がし続けていた。
◆ 大サロン(ヴィヴィアン視点) ◆
大サロンの扉が勢いよく開かれ、エドガーが戻ってきた瞬間。
私は扇子を胸元でパタパタと揺らしながら、心の中で完璧な歓喜の美酒に酔いしれていた。
(……おかえりなさい、エドガー。完璧よ)
戻ってきた婚約者の姿は、誰の目から見ても「完全な有罪者」そのものだった。
顔面は蒼白を通り越して青紫色に変色し、呼吸は過呼吸のように浅く荒い。
そして何よりも――彼の右手は、上着の右ポケットの中に深く突っ込まれたまま、外側から何かの膨らみを隠すように、強く、不自然な力加減で握りしめられていた。
その後ろから入室してきた家政婦長マルタの表情を見れば、書斎で何が起きたかなど、説明を受けるまでもなかった。
マルタの目は怒りと警戒に燃え、エドガーの背中をまるで汚らわしい犯罪者でも見るかのように射抜いている。
網膜に、審問領域の無機質なアナウンスが点滅する。
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【証拠調査フェーズ1:進行中】
・第4指名者:調査終了[獲得カード:非公開(隠蔽)]
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『非公開(隠蔽)』――。
その文字がサロンの全員の視界に共有された瞬間、室内の空気が一段と張り詰めた。
ユリアンの青い瞳が、獲物の喉笛を完全に捉えた狼のようにギラリと細められる。
セレスティーヌが息を呑み、フロランスが扇子の奥で冷酷な笑みを深めた。
(踏み抜いたわね。……私が仕掛けた地雷を、完璧に)
私は優雅に背筋を伸ばし、扇子の陰で舌先を湿らせた。
エドガーは自ら、破滅への一本道を猛ダッシュで駆け抜けてくれたのだ。
第14話において、私が書斎の絨毯の隙間へと再配置した、彼自身のカフスボタン。
エドガーはそれを自らの手で発見し、パニックのあまり「隠蔽」を選択した。
これにより、彼は貴重な隠蔽スロットを一つ消費しただけでなく――立会人であるマルタの目の前で、「現場から何かを拾い、慌ててポケットに隠した」という、動かぬ現行犯の不審行動を焼き付けさせたのだ。
もし彼が現場で正直に「何者かが私のカフスを落としていた」と全体公開していれば、まだ弁明の余地はあった。
だが、隠蔽したことで、コンテクストは完全に固定された。
――『犯人が、現場に残していた自らの遺留品を回収し、証拠隠滅を図った』と。
誰がどう見ても、真犯人の行動そのものだ。
エドガーはサロンの隅へと足早に向かい、誰とも目を合わせようとせず、壁際に背中を押し当ててガタガタと震えている。
その右手は、依然としてポケットの中で小刻みに震え続けていた。
哀れな男。
自分が自らの手で首に巻きつけたその縄が、次の全体議論でどれほど無残に自らの命を締め上げることになるか、彼はまだ何も知らなかった。
そして――審問領域の鐘が、次なる調査の始まりを告げて鳴り響いた。




