第22話:指名された標的
ゴオオオオオン……――。
大サロンの吹き抜けに木霊した深夜三時の鐘の音は、重厚な石壁と床の大理石を震わせ、張り詰めていた空気を粉々に粉砕した。
天井を覆う古代魔導結界「審問領域」が、鮮やかな黄金色から不吉な深紫色へと一気に色相を反転させ、チリチリと微細な魔力の火花を空間全体に散らしている。
それは、第1回証拠調査と結果共有という名の泥沼劇の終焉であり、次なる地獄――【密談フェーズ2】の幕開けを告げる冷酷な合図だった。
サロンの中央に立ち尽くしていた婚約者エドガー・フォン・ハルデンベルクは、鐘の轟音に打たれた瞬間、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちかけた。
彼の右手は、依然として上着の右ポケットの奥深くへと突っ込まれたままだ。
第19話で彼自身が書斎の絨毯から拾い上げ、パニックのあまり隠蔽した『自らの家紋入り銀カフスボタン』。
そして第21話で、家政婦長マルタによって「現場から何かを拾って慌ててポケットにねじ込んだ」と全員の面前で白日の下に晒された、動かぬ現行犯の不審行動。
エドガーの額からは滝のような脂汗が流れ落ち、青白い唇は痙攣するように小刻みに震えていた。
「ひ……っ、あ……」
喉の奥から引きつった呼吸を漏らしながら、エドガーは虚空を見上げる。
全員の網膜の裏側に、冷淡なシステムメッセージが鮮血のような文字で焼き付けられていた。
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【審問領域:フェーズ移行宣告】
・これより――【密談フェーズ2】を開始します。
・制限時間:10分
・ルール:指名権を持つ者が任意の1名を指名し、指定された小部屋に入室。
・会話の機密性:遮音結界により、室内での対話内容は一切外部へ漏洩しません。
【第2回指名権の付与】
・獲得者:ユリアン・フォン・ファルケンハイン
(※第1回証拠調査において、5分間の制限時間を最も迅速に終了したボーナスにより付与)
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無機質なシステムアナウンスが、頭蓋の内側に響き渡る。
最速調査完了による指名権の獲得――。
第17話において、私の私室を徹底的に調べ上げ、「該当物品なし」という空振りを喫したユリアンだったが、その機械のように無駄のない捜索速度そのものが、システムによって最速と判定されたのだ。
サロンの全員が息を呑んだ。
指名権を持つのは、帝国司法卿にして冷酷無比なる名探偵、ユリアン。
彼の掌の上に、生殺与奪の切符が握られたのだ。
その瞬間――狂乱の淵に立たされていたエドガーの瞳に、溺死者が藁を掴むような異様な光が宿った。
「ユ、ユリアン卿……!」
エドガーは床に手をついた姿勢から弾かれたように立ち上がり、膝をもつれさせながら、円卓の上座に立つユリアンへと駆け寄った。
彼の右手はポケットの奥深くを握りしめたまま、空いた左手を哀願するようにユリアンの胸元へと伸ばす。
「ユリアン卿! 頼む、私を選んでくれ! 私と密談をしてくれ! 先ほどのマルタの言ったことは出鱈目なんだ! 私がポケットに入れたのは、ただの個人的な……そう、ただの私信の燃え殻なんだ! 誤解なんだよユリアン卿! 二人きりで話せば、すべて説明できる! だから……どうか、私と話を――!!」
唾を飛ばし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした青年貴族の、あまりに見苦しい縋り付き。
客観的な証拠を突きつけられ、逃げ場を失った人間が、最も権力を持つ者に泣きついて罪をもみ消してもらおうとする、哀れで醜悪な自己保身の極致だった。
だが――。
ユリアン・フォン・ファルケンハインという男は、そのような哀願に微塵でも心を動かすような甘い男ではなかった。
スッ……。
エドガーの震える左手がユリアンの外套の襟に触れる寸前、ユリアンはわずかに半歩、身体を横へと滑らせた。
一切の無駄のない、研ぎ澄まされた体術の所作。
エドガーの伸ばした手は虚空を切り、前のめりになった身体が絨毯の上に無様に倒れ込みそうになる。
ユリアンは足元によろめいたエドガーを一瞥すらしなかった。
まるで道端に転がる石ころでも避けたかのように、冷淡極まりない視線を正面へと固定したまま、氷の刃のような声で言い放つ。
「見苦しいぞ、ハルデンベルク卿。私に語るべき弁明があるならば、次の全体議論の場ですべての者の前で述べるがいい。……私には、貴様の拙劣な言い訳を聞くために浪費する十分間など、一秒たりとも持ち合わせていない」
容赦のない切り捨て。
エドガーは息を詰まらせ、床に手をついたまま絶望の表情で固まった。
ユリアンに見捨てられたということは、彼にとって、次の全体議論で司法卿自らによる容赦のない断罪が待っていることを意味していた。
そして――。
冷たくエドガーを退けたユリアンの青い瞳が、ゆっくりと巡った。
円卓の向かい側で十字架を握りしめるセレスティーヌを素通りし。
扇子の陰で冷笑を浮かべる未亡人フロランスを一顧だにせず。
床に平伏したまま私への感謝に震えるテオドール医師を飛び越え。
その凍てついた視線は、大サロンの中央に優雅に佇む、ただ一人の女性――私、ヴィヴィアン・クローデルの正面で、ピタリと静止した。
カツン、カツン、と大理石の床を踏みしめる軍靴の音。
ユリアンは歩調を緩めることなく、私の方へと真っ直ぐに向かってくる。
彼は歩きながら、先ほど外していた黒革の手袋を、再び細く長い指先へと滑り込ませた。
キュッ、と革が擦れ合う湿った音が、静まり返ったサロンに不気味なほど鮮明に響く。
私の目の前、わずか二歩の距離で、ユリアンが足を止めた。
背の高い彼の影が、私のドレスの裾の上に重く落ちる。
見下ろしてくるその秀麗な美貌。
そこには、先ほど私の私室で「該当物品なし」を突きつけられた際の苦渋など、一片も残っていなかった。
代わりにその薄い唇の端に刻まれていたのは――怜悧で、底知れぬ知的な愉悦と執着を孕んだ、獲物を射抜く狩人の笑みだった。
ユリアンは手袋をはめ終えた右手をすっと持ち上げ、その細い人差し指で、私の胸元をまっすぐに指し示した。
サロンの全員を凍りつかせる、絶対の宣告。
「――ヴィヴィアン・クローデル嬢」
低く、チェロの重低音のように響き渡る声。
「次の十分間、私に付き合ってもらおうか」
探偵役からの、直接指名。
第1回密談において私がローレンスを選んで回避した、避けては通れない「ラスボスとの一騎打ち」への、逃げ場のない招待状だった。
サロンの空気が、完全に凝固した。
「ヴィヴィアン……!?」
床にへたり込んでいたエドガーが、信じられないものを見るように目を見張った。彼にとって、唯一の味方であるはずの婚約者が、最も恐ろしい検察官の手に引き渡される光景は、己の破滅が秒読み段階に入ったことを告げる凶兆に他ならなかった。
義妹セレスティーヌは、胸元の十字架を握りしめたまま、息を呑んで私を見つめている。
(『お姉様が……ユリアン卿に連れて行かれる……!』)
彼女の碧眼には、恐怖と同時に、私室の捜索では暴かれなかった姉の化けの皮が、密談という名の尋問室で剥ぎ取られることへの、暗い期待が宿っていた。
未亡人フロランスは、黒いレースの扇子をパチンと閉じ、艶やかな瞳を細めて嘲笑を浮かべている。
「まあ……名探偵卿と、美しき令嬢の逢瀬ですこと。どのような火花が散るのか、見ものですわねえ」
主治医テオドールは、先ほど自らの命を救ってくれた恩人である私を案じるように、眉をひそめて立ち尽くしている。
そして、私の背後に控える従者ローレンスは――第12話で私が調教した通り、身動き一つせず、ただ微かに私の身を案じるような「不自然な硬直」を完璧に演じ続けていた。
全員の視線が、私へと突き刺さっている。
冷酷な司法卿からの直接指名。
普通の令嬢であれば、足腰を震わせ、恐怖のあまり悲鳴を上げて辞退を懇願するような絶体絶命のシチュエーション。
だが――。
(……ふふ。いよいよ来たわね、名探偵卿)
私の胸の内で、前世から培ってきた「マダミス廃人」としての冷徹な血潮が、歓喜の産声を上げていた。
思考のギアを、最高回転数へとシフトする。
感情など、最初から一滴も存在しない。
私の頭脳の中では、この十分間をいかに支配し、いかに自らに有利な盤面へと作り変えるかの、緻密な計算式がミリ秒単位で組み上がっていた。
(分析しなさい、ヴィヴィアン。この密談は、ピンチじゃない……絶好の『取引の場』よ)
状況を俯瞰する。
ユリアンが私を指名したのは、私を犯人だと疑っているからだ。それは間違いない。
二十一時四十五分に自らの手でブランデーを運んだ事実。
取り乱したエドガーを手際よく手のひらで転がした手腕。
そして、第17話から第18話にかけて見せつけた、埃一つ落ちていない完璧すぎる私室の異常さ。
彼の鋭利な頭脳は、「この女が黒(真犯人)だ」と叫び続けている。
だが――彼には、決定的な手札が足りないのだ。
客観的な証拠――『蒼鉛の雫』の空小瓶は、今も私のドレスのパニエの最下段、絶対の死角に括り付けられている。
彼が私室をいくら家宅捜索しようと、何も出なかったという「公認のシロ判定」が、システムによって下されている。
法と論理を信奉するユリアンにとって、物証がない以上、感情論や直感だけで私を処刑台へ送ることは絶対にできない。
そして何よりも――。
今、私の手元には、彼を黙らせ、彼を意のままに動かすための「最強の交渉カード」が三枚も揃っているのだ。
一枚目のカード:『エドガーの自滅の仕掛け』。
第14話で私が現場の絨毯に仕込み、第19話でエドガー自身に拾わせて隠蔽させた、あのカフスボタン。
そして先ほど、マルタの告発によってエドガーがポケットに何かを隠していることが全員に確定した。
エドガーは今や、盤面において最も怪しく、最も排除しやすい完璧な生贄として仕上がっている。
二枚目のカード:『テオドールの味方化』。
第21話において、私は致死量スレスレのカルテを暴かれて四面楚歌に陥ったテオドールを、鮮やかな逆説的論理で救い出して見せた。
テオドールは私に絶対の恩義を感じており、彼の一票は完全に私の手中にある。
そして――三枚目のカード。
これこそが、ユリアン・フォン・ファルケンハインという男の急所を抉る、最大の切り札。
――『国家機密の売買文書(破られた手紙の切れ端)』。
第14話において、私が書斎の暖炉の燃え殻から手に入れた証拠カード。
『帝国との取引は順調だ。次なる搬入は満月の夜、例の地下ルートにて……』という、不穏な密売の手紙。
ユリアンがこの白亜館に潜入した真の目的。それは、侯爵殺しの捜査などではない。
アルブレヒト侯爵が裏で手を染めていた、「帝国との違法な魔導兵器密売ルートの証拠文書」を回収することだ。
マダミスにおける絶対の法則。
探偵役NPCやプレイヤーにも、事件の解決とは別に、必ず「個人の裏目標」が存在する。
ユリアンにとって、国家の安全保障を揺るがす機密文書の回収は、一介の地方貴族の死の真相を暴くことよりも、遥かに優先順位の高い至上命題なのだ。
(彼を言いくるめようとして、無実を必死に訴えるのは三流の悪手よ)
そんな子供騙しの嘘は、ユリアンの前では一瞬で見破られる。
やるべきことは、ただ一つ。
――『共通の敵』を提示し、互いの利益を一致させること。
エドガーという怪しい未遂犯を共通の生贄として差し出し、侯爵の遺した国家機密の文書のありかを餌にして、ユリアンにこう思わせるのだ。
『ヴィヴィアン・クローデルを今ここで吊るすよりも、彼女を生かして侯爵家の実権を握らせ、機密文書を手に入れさせる方が、私にとって圧倒的に得だ』――と。
ゲーム理論における「利得の書き換え」。
探偵と真犯人の間に、一時的な【不可侵条約】を結ばせるための盤面操作。
青写真は、完全に完成した。
あとは、舞台の上で、最高に美しく、最高に危険な悪女を演じ切るだけだ。
私は背筋を凛と伸ばした。
扇子を胸元で静かに畳み、両手を重ねて腰骨のあたりへと添える。
そして――見下ろしてくるユリアンの冷徹な青い瞳を、瞬き一つせず、まっすぐに正面から受け止めた。
唇の両端を、ふわりと押し上げる。
サロンの凍りついた空気を溶かすかのように華やかで、そして獲物を罠へと招き入れるサソリのように艶やかな、至高の微笑み。
私は優雅に両膝を折り、流れるような所作で、完璧なカーテシーを返してみせた。
「喜んで」
鈴を転がすような、澄み切った声がサロンに響き渡る。
「光栄ですわ、監察卿。……名探偵殿と二人きりで密談ができる機会を、ずっと心待ちにしておりましたのよ」
一分の動揺も見せない、挑戦的な受け答え。
ユリアンの眉が、わずかにピクリと跳ね上がった。
怯えも、拒絶も、言い訳もない。
自ら死地へと飛び込むかのような私の不敵な態度に、彼の青い瞳の奥で、ギラリと危険な光がさらに強く輝いた。
「……口先だけの余裕でないことを祈るな、ヴィヴィアン嬢」
ユリアンは冷笑を浮かべ、外套の裾を翻した。
「来てもらおう。東翼の旧談話室だ」
「ええ、ご案内いただけますかしら?」
私は立ち上がり、ドレスの裾を優雅に払った。
サロンに残された面々の、息を詰めた視線が背中に突き刺さる。
エドガーの絶望的な眼差し、セレスティーヌの猜疑心、フロランスの興味、テオドールの祈り、そしてローレンスの無言の忠誠。
私は誰にも振り返ることなく、大股で歩き出すユリアンの背中を追って、サロンの中央へと足を踏み出した。
大サロンを出て、東翼へと続く薄暗い回廊を進む。
外界の猛吹雪が窓の結界を激しく叩きつける音が、鈍い地鳴りのように壁を通じて伝わってくる。
先を行くユリアンの軍靴の音。
その後ろを追う、私のドレスの擦れ合う衣擦れの音。
二人の間に、会話は一切ない。
だが、その無言の空間には、互いの頸動脈に刃を押し当て合っているかのような、ヒリつくような殺気と緊張感が満ち満ちていた。
やがて、回廊の突き当たり。
かつて歴代の侯爵が客人と私的な談話を行うために使われていたという、重厚な扉の前で、ユリアンが足を止めた。
東翼・旧談話室。
扉の周囲には、すでに審問領域の紫色の魔力光が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、密談の準備が完了していることを告げている。
カチャリ、と真鍮のドアノブを回す音。
ユリアンが扉を押し開け、室内に足を踏み入れた。
続いて、私も静かに敷居を跨ぐ。
部屋の中は、厚手のカーテンで窓が塞がれ、消えかけた暖炉の微かな赤い光だけが揺れる、狭く薄暗い密室だった。
中央には小さな円卓と、向かい合うように置かれた二脚の革張り椅子。
バタン……!
私たちが完全に室内に入った瞬間、背後の重い扉が、自律的に勢いよく閉ざされた。
直後、カチリと絶対の施錠音が鳴り響く。
扉の隙間を埋めるように、紫色の遮音結界がブワリと展開し、部屋全体を完全に密閉した。
外界との、完全な断絶。
この部屋の中で発せられる言葉、吐息、そして心臓の鼓動の一つすら、外の世界へ漏れ出ることは決してない。
制限時間は、十分間。
私と、私を追い詰める名探偵。
二人きりの、極限の心理戦の火蓋が切って落とされた。
ユリアンが、暖炉の薄暗い光を背にして、ゆっくりと振り返る。
その青い瞳が、暗がりの中で冷酷な光を放っていた。




