第15話:開かれた旧遺言書
深夜一時三十五分。
二階の書斎から大サロンへと戻った私とユリアンの足音を、暖炉の前に集まっていた面々は息を詰めて見守っていた。
私が手に入れた証拠カード――『破られた手紙の切れ端(差出人不明)』の内容は、審問領域の魔導端末を通じて、すでにサロンの全員の網膜上へと「全体公開情報」として共有されていた。
帝国との違法な密売を示唆する不穏な文字列。
サロンの長椅子に座る未亡人フロランスは、その内容を読み取った瞬間から、黒いレースの扇子で口元を覆ったままぴくりとも動かなくなっていた。彼女がアルブレヒト侯爵と共有していた裏ビジネスの輪郭が、わずかに盤面へと滲み出たからだ。
だが、広大なサロンに漂う張り詰めた緊張感は、密輸の手紙などという遠い脅威だけに向けられているのではなかった。
頭上の吹き抜けを見上げれば、深紫色に脈動する結界が、黄金のシステムメッセージを無機質に点滅させ続けている。
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【証拠調査フェーズ1:進行中】
・第1指名者:調査完了[獲得:全体公開カード1]
・これより――第2指名者:セレスティーヌ・フォン・ローゼンベリの調査を開始します。
・制限時間:5分
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「……セレスティーヌ嬢」
円卓の上座に歩み戻った司法卿ユリアンが、氷を削り出したかのような冷徹な声で名を呼んだ。
彼は外套の襟元を正し、黒革の手袋をはめた指先でテーブルの天板をトンと叩く。
「ヴィヴィアン嬢の調査は終了した。次は貴様の番だ。……手元にある『証拠調査トークン』を一枚消費し、調査対象を指定しろ」
サロンの視線が、一斉に円卓の向かい側――義妹セレスティーヌへと注がれた。
セレスティーヌは、まるで死刑台の階段の前に立たされた罪人のように、華奢な肩をびくりと震わせた。
彼女の両手は、胸の前で握りしめられた銀の十字架を白くなるほど強く締め上げている。伏せられた長い睫毛の下で、大きな碧眼が恐怖と焦燥に濡れ、小刻みに彷徨っていた。
(……怯えているわね、セレスティーヌ)
私は自らの席へと優雅に腰を下ろしながら、扇子の下で冷ややかに義妹を観察していた。
彼女の喉が、引きつったように上下に動く。
第7話において、私が彼女に打ち込んだ牽制球――『お父様は、聖ルミナス修道院からの巨額の寄付要請書をご覧になって頭を痛めておいででしたわ』という一言。
あれは、彼女にとって急所を貫かれたに等しい致命打だったのだ。
彼女は今、自らの横領と、教団への裏資金ルートが公に暴かれる恐怖に、全身を苛まれている。
だからこそ――彼女の取るべき行動は、初めから一つに絞られていた。
「わ……私は……」
セレスティーヌは掠れた声で唇を開いた。
彼女は震える指先で、掌の上に置かれていた真鍮色のコイン――証拠調査トークンを一枚、つまみ上げる。
「私は……お父様の、二階の書斎へ参ります」
サロンが微かにざわめいた。
「また書斎か」とテオドール医師が呟き、エドガーが落ち着きなく視線を巡らせる。
セレスティーヌは必死に声を張り上げ、健気な娘の仮面を取り繕うように言葉を紡いだ。
「お父様が……お父様が、最期までお仕事をなさっていた場所ですもの。お父様が遺された書類の中に、何か……事件の真相を示す手掛かりがあるかもしれません。私は……『お父様の執務机の引き出し』を、改めさせていただきたく存じます……!」
(やっぱりね)
私は扇子の陰で、小さく喉を鳴らした。
完璧な、予想通りの誘導。
彼女が探したいのは「事件の手掛かり」などではない。
執務机の引き出しに隠されているはずの、自らを修道院送りにし、廃嫡へと追い込む呪われた書類――父親が作成していた『旧遺言書』の現物だ。
彼女は、それが他の誰かの手に渡る前に、自らの手で回収し、手元に隠蔽してしまいたいのだ。
「いいだろう」
ユリアンは感情を交えずに頷いた。
「書斎の執務机だな。……先ほどと同様、公平を期すため、私が立会人として同行する」
「あ……はい、ユリアン卿。よろしくお願いいたします……」
セレスティーヌは青ざめた顔で立ち上がり、ドレスの裾を乱さないよう細心の注意を払いながら、ユリアンの後に続いてサロンを出ていった。
二階へと上る二人の足音が遠ざかり、サロンには再び、暖炉の爆ぜる音だけが残された。
残された者たちの間には、気まずい沈黙が横たわっている。
だが、私の意識はすでに、二階の書斎で繰り広げられているであろう光景へと飛んでいた。
書斎の中央に鎮座する、マホガニーの巨大な執務机。
その引き出しには、アルブレヒト侯爵が好んで使っていた、精巧なからくり仕掛けの二重底が存在する。
普通の人間が見れば、ただの書類入れにしか見えない。
だが、審問領域の魔導スキャンが介入する「証拠調査トークン」を用いれば、物理的な隠し底など何の意味も成さないのだ。
カチリ、と真鍮コインが消費され、黄金の光が引き出しの奥を照らし出す光景が、私の脳裏に克明に浮かび上がる。
そして――。
その隠し底から現れるのは、セレスティーヌが喉から手が出るほど欲しがり、同時にこの世で最も恐れていた、あの忌まわしい羊皮紙だ。
(……さあ、どう転ぶかしらね、可愛い義妹様?)
私のマダミス脳が、冷徹に二つのルートの損益計算を弾き出す。
ルートA:セレスティーヌがそれを手に入れ、隠蔽スロットを使って秘匿する。
――これでも構わない。
もし彼女が旧遺言書を隠せば、立会人であるユリアンの目には「セレスティーヌが何か重大な動機の証拠を隠した」と映る。彼女へのヘイト(容疑度)は跳ね上がり、容疑者レースのトップ集団に躍り出る。
だが、より美味しく、より盤面を美しく混沌へと叩き落とすのは――。
ルートB:ユリアンの手によって、その遺言書が強制的に白日の下に晒されることだ。
それから、わずか三分後。
二階から階段を下りてくる足音が、再びサロンへと近づいてきた。
バタン、とサロンの扉が押し開かれる。
戻ってきたセレスティーヌの顔色を見た瞬間、円卓の誰もが言葉を失った。
その表情は、土気色を通り越して完全に白蝋と化していた。
呼吸は荒く、両肩は小刻みに上下し、足元は今にも崩れ落ちそうによろめいている。
彼女の右手には――青白く発光する一枚の証拠カードが、まるで毒蛇の尻尾でも掴んでいるかのように、震える指先で握りしめられていた。
そして、その背後に立つ監察卿ユリアンの顔には、獲物の急所を完璧に抉り出した狩人の、冷酷極まりない嘲笑が張り付いていた。
「戻ったぞ」
ユリアンの氷のような声が、サロンの空気をピシリと凍りつかせた。
「セレスティーヌ嬢の調査は、極めて実りあるものだった。……当主アルブレヒト侯爵が、死の直前まで机の中に秘匿していた、極めて重要性の高い法的文書だ」
「な……何があったんだ、セレスティーヌ!?」
エドガーが椅子から身を乗り出し、上擦った声で叫ぶ。
「何を見つけたんだ!? 見せろ!」
セレスティーヌは悲鳴のような息を呑み、反射的にそのカードを自らの胸元へと引き寄せ、両手で覆い隠そうとした。
その瞳には、剥き出しの絶望と恐怖が渦巻いている。
彼女の網膜には今、審問領域の選択プロンプトが表示されているはずだ。
【全体公開】にするか、それとも【非公開(隠蔽)】にするか――。
セレスティーヌの震える指先が、空中に浮かぶ「非公開」のアイコンへと、吸い寄せられるように伸びていく。
(隠さなきゃ……! これだけは、絶対に誰にも見せるわけにはいかない……! 見られたら、私の人生はおしまいだわ……!)
彼女の全身が、そう叫んでいた。
だが――。
「隠蔽枠を使うのか、セレスティーヌ嬢」
背後に立つユリアンが、低く、逃げ場を塞ぐような冷徹な声音で宣告した。
その声は、優しさなど微塵もない、純然たる司法の刃だった。
「各自に与えられた隠蔽枠は、たったの一つだ。手に入れた証拠を秘匿するのは貴様の正当な権利だが……立会人である私の前で、侯爵の直筆署名が入った文書を公表せず隠すという行為が、何を意味するか……分かって言っているのか?」
セレスティーヌの指先が、ピタリと空中で凍りついた。
ユリアンは一歩間合いを詰め、彼女の青ざめた横顔を見下ろしながら、容赦のない言葉の楔を打ち込む。
「『やましい内容が記されているからこそ隠した』。……これ以上の雄弁な有罪の告白があるか? 貴様がそれを隠蔽した瞬間、私は次の全体議論において、貴様をアルブレヒト侯爵殺害の第一容疑者として公に告発する。動機は『遺言書を巡る激しい怨恨』。……全員の投票先を貴様に一本化させる自信が、私にはあるぞ」
――ヒッ……!
セレスティーヌの喉から、押し殺された悲鳴が漏れた。
逃げ場のない、完璧なチェックメイト。
隠せば、ユリアンによって「動機を隠滅した犯人」として即座に吊るされる。
公開すれば、自らの恥部と殺害動機が全員の白日の下に晒される。
前門の虎、後門の狼。
デスゲームのプレッシャーに耐え切れるだけの精神力を、この温室育ちの養女が持ち合わせているはずもなかった。
「あ……ああ……」
ぽろぽろと、大粒の涙がセレスティーヌの瞳から零れ落ちた。
彼女の震える指先が、絶望に屈服するように――空中の【全体公開】のプロンプトへと触れた。
パアァァァッ……!
青白い閃光が弾け、サロンの中央の空間に、巨大な羊皮紙のホログラムが投影された。
全員の網膜上にも、同時にその文字列が強制的に焼き付けられる。
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【証拠カード獲得:全体公開】
・名称:『侯爵の旧遺言書(直筆署名・公証印あり)』
・発見場所:書斎・執務机の隠し引き出し
・作成日時:一ヶ月前(直近の公証記録)
【本文要約】
「我が死後、クローデル侯爵家の全領地、全財産、ならびに動産・不動産のすべてを、帝国公認『聖ルミナス修道院』へと無条件で寄付・譲渡するものとする。
また、我が養女セレスティーヌ・フォン・ローゼンベリは、放蕩と教団への不審な資金流出の責任を問い、即座に養子縁組を解消、一切の相続権を剥奪する。
実子ヴィヴィアン・クローデルに対しても、当主としての責務を怠りし廉により、家督相続権を剥奪し、最低限の生活費のみを認めるものとする」
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サロンが、息を呑む音すら忘れて静まり返った。
「な……全財産を修道院へ寄付……!?」
テオドール医師が眼鏡を取り落としそうになりながら叫んだ。
「養子縁組の解消……相続権の剥奪だと……!?」
未亡人フロランスが扇子の奥で目を細め、冷酷な嘲笑を浮かべる。
「まあまあ……これはまた、随分と思い切った遺言書ですこと。セレスティーヌ様? あなた、お父様から完全に家を追い出される寸前でしたのね?」
「ち、違う……違います……!」
セレスティーヌは両手で顔を覆い、床に崩れ落ちるように泣き伏した。
「私は……私はそんな……お父様を恨んでなど……殺してなどいません……! 信じてください、本当なのです……!」
だが、彼女の涙を信じる者など、このサロンには誰一人としていなかった。
これ以上ない、完璧な、生々しすぎる『殺害動機』。
全財産を奪われ、家を追われ、路上に放り出される寸前だった養女。
彼女が父親を毒殺し、この遺言書を破棄して新たな遺言を偽造しようとした――そのストーリーは、誰の目から見ても、あまりにも完璧な「真犯人の動機」として成立していた。
(……素晴らしいわ)
私は扇子を静かに胸元で畳み、冷徹な観察者の視点で、泣き崩れる義妹を見下ろしていた。
私の脳内で、盤面情報のアップデートが急速に行われる。
まず、容疑の分散の観点。
セレスティーヌに特大の殺害動機が直撃した。
これにより、盤面における容疑者レースは、「現場に短剣を持ち込んだエドガー」と「全財産剥奪に直面していたセレスティーヌ」という、二大巨頭の泥沼の潰し合いへと突入した。
真犯人である私への視線は、さらに一段と薄まり、不可侵の安全圏がより強固なものとなったのだ。
そして――何よりも重要な、【秘密・追加ミッション】の状況更新。
私の網膜に刻まれた追加ミッション。
――『亡き侯爵の執務机および金庫に存在する旧遺言書を完全に破棄し、自らの廃嫡を防ぎ、家督相続権を掌握すること』。
(手に入ったわね。私のターゲットが)
あの羊皮紙。
セレスティーヌが引き出しから暴き出してくれたおかげで、旧遺言書の現物は、今や書斎の隠し底から引っ張り出され、このサロンのテーブルの上に「公開証拠」として物理的に置かれているのだ。
もちろん、今の段階で私がそれを奪い取って破り捨てれば、審問領域のペナルティを受ける。
だが、カードとして実体化した以上、それは物理的な実体を持つ羊皮紙だ。
後のフェーズ――混乱が生じる議論の合間、あるいはローレンスと連携した視線切りの隙に、あの暖炉の赤々と燃える熾火の中へと放り込んでやりさえすれば。
私の追加ミッションは、完全に達成される。
セレスティーヌは、自らを破滅の淵へと追い込みながら、同時に私の追加ミッションの標的を、お盆に載せて私の目の前へと運んできてくれたのだ。
哀れな義妹。だが、これが情報戦の世界の掟だ。
「……取り乱すな、セレスティーヌ嬢」
ユリアンが冷淡に吐き捨て、卓上の旧遺言書の羊皮紙を無造作に指先で弾いた。
「貴様の動機については、次の全体議論において徹底的に追及させてもらう。……今は、フェーズを進行させるのが先決だ」
ユリアンは踵を返し、サロンの中央へと戻ってきた。
その青い瞳には、セレスティーヌを追い詰めたことによる達成感など微塵もない。
彼の視線は、すでに「次なる獲物」へと向けられていた。
チリン、と澄んだ金属音が鳴り響いた。
ユリアンが、自らの上着のポケットから取り出した真鍮色の「証拠調査トークン」を、親指の爪先で高く弾き上げたのだ。
コインは宙で美しい弧を描き、カランと音を立てて彼の手のひらへと収まる。
『第2指名者:調査終了』
『これより――第3指名者:ユリアン・フォン・ファルケンハインの調査を開始します』
審問領域のアナウンスが響く中、ユリアンの冷徹な視線が、ゆっくりと移動した。
泣き崩れるセレスティーヌを素通りし。
震えるエドガーを一瞥もくれず。
彼がその氷の刃のような青い瞳を固定したのは――円卓の席で、優雅に背筋を伸ばして微笑んでいた、私だった。
ユリアンは薄く唇を吊り上げ、サロンの全員を凍りつかせるような、絶対の宣告を放った。
「私の番だな。……私が指定する調査対象は――」
彼は手袋をはめた指先を、まっすぐに私へと突きつけた。
「『ヴィヴィアン・クローデルの私室』だ」
息を呑む音が、サロンのあちこちから同時に上がった。
名探偵のメスが、ついに私の本丸へと切り込んできたのだ。




