第14話:絨毯の下の時限爆弾
深夜一時二十分。
白亜館の大サロンに、天井の「審問領域」から降り注ぐ黄金色の燐光が、静まり返った空気の中でチリチリと微細な音を立てていた。
壁の大時計の針が刻む一秒一秒が、全員の寿命を削り落とすかのように重い。
全員の網膜に投影された【証拠調査フェーズ1】の告知。
そして、その最上段に刻まれた『第1指名者:ヴィヴィアン・クローデル』の文字列。
サロンの中央に佇む私へと、七対の視線が一斉に突き刺さっていた。
「……ヴィヴィアン」
円卓の端で、私の婚約者エドガーが掠れた声を漏らした。
彼はまだ先ほどのパニックの余波から抜け出せておらず、青白い顔で私のドレスの裾を縋るように見つめている。彼にとって、味方であるはずの私が最初の調査権を得たことは、暗闇に差した一条の光に見えているのだろう。自分が犯したヘマを、婚約者が上手く隠滅してくれるのではないか――そんな浅ましい期待が、その泳ぐ瞳に透けて見えていた。
一方、義妹のセレスティーヌは、胸元の十字架を固く握りしめたまま、警戒に満ちた碧眼で私を凝視している。自分が第7話で突かれた「聖ルミナス修道院への巨額寄付」の件が、私の手によって暴かれるのではないかと、喉を詰まらせて息を潜めていた。
未亡人フロランスは扇子の陰で冷ややかに微笑み、テオドール医師は手帳を抱えて生唾を飲み込み、マルタは祈るように手を組んでいる。
そして――円卓の上座に立つ司法卿、ユリアン・フォン・ファルケンハイン。
彼は手袋をはめ直した右手をサーベルの柄に置いたまま、氷を削り出したかのような冷徹な青い瞳で、私の一挙手一投足を観察していた。
「最初の権利は君にある、ヴィヴィアン嬢」
ユリアンの低い声が、静寂を切り裂いた。
「白亜館内の任意のエリア、または特定の人物。……貴様は、手元のトークンを消費してどこを調べるつもりだ?」
私は胸の前で象牙の扇子をパチンと鳴らし、優雅に小首を傾げてみせた。
動揺も、躊躇もない。
私の脳内では、この瞬間に取るべき行動が、何手も先まで完全に組み上がっていた。
「やましいことなど何一つないとお伝えしましたでしょう、ユリアン卿。……私が調べる場所など、最初から決まっておりますわ」
私は透き通るような声で、サロンの全員に聞こえるようはっきりと告げた。
「私が指定いたしますのは――『二階書斎、お父様のご遺体の周辺および暖炉前の絨毯』ですわ」
サロンが、ざわりと波打った。
「書斎だと……!?」エドガーが喉を引きつらせて息を呑む。
セレスティーヌが目を見張り、フロランスが扇子の動きを止めた。
無理もない。
書斎は、アルブレヒト侯爵が毒殺された事件の核心現場だ。
そして、二十一時四十五分に自らの手でブランデーを運んだと名乗り出た私が、わざわざ自ら犯行現場の調査を志願したのだ。
常識的な感覚からすれば、真犯人が現場に再び足を踏み入れるなど、墓穴を掘りに行く自殺行為にしか見えないだろう。
だが――ユリアンの青い瞳だけは、欺かれなかった。
彼の唇の端が、冷徹な愉悦を孕んでわずかに吊り上がる。
「現場の再調査か。……給仕した本人が、自ら現場の痕跡を洗おうというわけだな」
ユリアンは外套の裾を翻し、大股で私の方へと歩み寄ってきた。
「面白い。だが、審問領域の公正を保つため、調査には監視立会人が必要だ。……君のその調査、私が同行させてもらおう」
「ええ、喜んで」
私は引くどころか、最高に華やかな微笑みで受けて立った。
「卿のような厳格な司法卿が見届けてくだされば、私が妙な小細工をしていないことの、何よりの証明になりますもの。……どうぞ、存分にご覧になってくださいませ」
(ついてきなさい、名探偵卿。……あなたが背後にいてくれなければ、この罠は完成しないのだから)
私は心の中で、冷酷に舌を這わせた。
二階へと続く大階段を上る足音が、冷え切った回廊に二重の残響を刻む。
私のドレスの衣擦れの音と、ユリアンの規則正しい軍靴の音。
背後から放たれるユリアンの視線は、まるで私の背骨を透視しようとするかのように鋭く、重かった。
「……驚いたな」
階段の踊り場で、ユリアンが低く呟いた。
「てっきり、自室の保全に走るか、あるいは他の容疑者の部屋を暴いて煙幕を張るかと思ったが。現場を指定するとは、相当な自信があるのか、それとも破れかぶれのブラフか」
「どちらでもございませんわ」
私は前を見据えたまま、軽やかに階段を踏みしめた。
「私はただ、真実が知りたいだけですの。お父様を害した者が誰なのか……現場に残された手掛かりを、自分の目で確かめたいだけですわ」
「白々しいことを」
ユリアンは短く鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。
二階東翼の最奥。
重厚なオーク材の観音開き扉の前。
事件の発覚から二時間近くが経過した書斎の扉は、青白い魔術の封鎖膜に覆われていた。
私が掌の上にある真鍮色の「証拠調査トークン」を一枚かざすと、カチリと澄んだ音が響き、コインが黄金の粒子となって虚空へと溶けていく。
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【証拠調査トークン消費:1枚(残り2枚)】
・調査対象エリア:二階書斎・遺体周辺および暖炉
・調査制限時間:5分
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扉が音もなく開き、室内の凍りつくような冷気が一気に吹き出してきた。
机の上に突っ伏したままの、アルブレヒト侯爵の遺体。
濁った灰色の瞳、銀白色に変色した唇。
机の端に残された、琥珀色のブランデーがわずかに底に淀むクリスタルグラス。
そして、部屋の奥で冷たく鎮座する大理石の暖炉と、床一面に広がる濃紺のペルシャ絨毯。
すべてが、第2話で私が足を踏み入れた時のまま、完全な静止状態で保存されていた。
「制限時間は五分だ」
ユリアンが扉の前に立ち、腕を組んで私を見据えた。
「好きに調べるがいい、ヴィヴィアン嬢。私はここから貴様の指先一本、視線一つに至るまで、すべて監視させてもらう」
「どうぞ、気の済むまでご覧になって」
私は優雅に一礼し、躊躇うことなく部屋の中央へと足を踏み入れた。
(さて……ゲームの時間よ)
私のマダミス狂いとしての脳細胞が、極限の集中状態へとシフトする。
まず、私の目的の整理。
私がこの書斎でやるべきことは、「証拠を見つけること」ではない。
そんなものは、審問領域のシステムが勝手に用意してくれる副産物に過ぎない。
私の真の目的は――【証拠の再配置】だ。
左手の指先が、ドレスの左脇――隠しポケットの内側に触れる。
そこには今、何が入っている?
――『ハルデンベルク家の家紋入り銀カフスボタン』。
第2話において、私が書斎の現場検証の際、絨毯のキワに落ちていたのをハンカチを落とす手品で回収し、密かに隠し持っていた、エドガーの決定的な遺留品だ。
普通の人間の発想なら、こう考えるだろう。
「犯行現場で拾った他人の遺留品なら、サロンで全員の前に叩きつけて『エドガーが犯人です!』と告発すればいいではないか」――と。
だが、それはド素人のプレイングだ。
もし私が今、自分のポケットからカフスボタンを取り出し、「皆様、見てください! 先ほど拾ったエドガー様のカフスです!」などと提示したらどうなるか?
ユリアンは即座にこう切り捨ててくるに決まっている。
『なぜそれを今出す? 初動の現場検証で見つけたのなら、なぜその場で申告しなかった? 貴様が意図的に証拠を隠匿していたのではないか? それとも、事前にエドガーから盗み取ったものを、今になって捏造して提示したのではないか?』――と。
証拠を直接提示した人間には、常に「発見の正当性」と「保管の透明性」を証明する義務が生じる。
そして、真犯人である私がそんな追及を受ければ、言い逃れの過程で必ずボロが出るのだ。
ならば、マダミスにおける最も美しく、最も回避不可能な罠とは何か?
答えは一つ。
――『自分が配置した地雷を、別の誰かに自らの足で踏ませること』だ。
私が告発するのではない。
客観的な第三者――それも、他ならぬエドガー自身、あるいはユリアン自身が、自らの調査トークンを使って現場を調べた際に、「机の脚の陰からカフスボタンが発見された」という客観的事実を作り出すこと。
他人が発見した証拠であればこそ、その信憑性は絶対となり、私の関与を疑う余地は完全にゼロになる。
そのためには、私の手元にあるこのカフスボタンを――再び、現場の絨毯の隙間へと、完璧に、誰にも気づかれずに「戻す(リドロップする)」必要があるのだ。
(立会人は、あの名探偵ユリアン。……難易度は、ナイトメア級ね)
私は心の中で冷徹に笑った。
背後には、扉の前で腕を組み、私を監視しているユリアンがいる。
部屋の広さは十分にあるが、彼の立ち位置から執務机の周囲は完全に視界に入っている。
普通にしゃがみ込んでボタンを置けば、一発で「今、何かを床に置いたな」と見咎められる。
正当な動作。
不審がられず、かつ、ユリアンの視線が完全に逸れる「死角」を、私自身の手で創り出さねばならない。
「……まずは、暖炉の灰から改めさせていただきますわ」
私は声に出して宣言し、執務机を通り過ぎて、部屋の奥の大理石の暖炉へと向かった。
暖炉の前で膝を折る。
豪奢なシルクのドレスの裾が、床へと広がる。
私は手袋をはめた手で、暖炉の火かき棒を手に取り、冷え切った燃え殻をカチャカチャと弄る仕草を見せた。
「暖炉を調べるのか?」
背後から、ユリアンの冷たい声が飛ぶ。
「毒殺の犯人が、毒薬の瓶や包み紙を暖炉で燃やしたとでも思っているのか」
「ええ、その可能性もございますでしょう?」
私は振り返らず、灰をかき混ぜながら答えた。
「あるいは、燃え残った手紙の類があるかもしれませんわ。お父様は秘密主義な方でしたから」
火かき棒の先が、灰の奥に埋もれていた硬い塊に当たった。
パチリ、と魔力の火花が散り、審問領域のプロンプトが私の視界の端に点滅する。
灰の奥底から、黒く焦げた羊皮紙の破片が、青白い光を帯びて実体化しかけていた。
これが、システムが用意した正規の「証拠カード」だ。
(よし、食いついたわね)
私は火かき棒を置き、煤でわずかに汚れた手袋を見つめながら、困ったように息を吐いた。
「まあ……煤が酷いわ。ユリアン卿、暖炉の上のマントルピースに飾られている、あの肖像画……」
私は立ち上がりながら、暖炉の上部――巨大な額縁に収められた、アルブレヒト侯爵の若かりし頃の肖像画を、扇子の先で指し示した。
「あの絵画の裏側に、隠し収納の継ぎ目のようなものが見えますわ。卿の背丈なら、届くのではありませんこと?」
ユリアンの青い瞳が、わずかに細められた。
彼は私の指し示す先――暖炉の上の肖像画の額縁の隙間へと、視線を向けた。
司法卿としての鋭い観察眼が、未知の隠しスペースという「新たな情報」の可能性に引きつけられたのだ。
彼が、大股で暖炉の方へと歩み寄り、顔を上げて肖像画の額縁を仰ぎ見た――。
時間にして、わずかコンマ五秒。
ユリアンの視線が、床から完全に離れ、天井近くの額縁へと百パーセント集中した、その絶対の死角。
(今よ!)
私の身体は、すでに音もなく執務机の右脚元へと滑り込んでいた。
ドレスの裾を翻す。
大きく広がったパニエの最下段――毒の小瓶が縫い付けられているその反対側、私の左手が、目にも留まらぬ速度で左の隠しポケットへと潜り込んだ。
ポケットの奥底。
冷たい銀の感触。
ハルデンベルク家の家紋入りカフスボタン。
手品師がコインをパームするように、人差し指と中指の腹でボタンを挟み込む。
そのまま、膝を深く折り、床に落ちた灰を払うような滑らかな所作で、机の脚の陰へと右手を伸ばす。
指先の感覚。
毛足の長い、濃紺のペルシャ絨毯。
机の脚の角、木材と床が交差する、上からは決して見えない深い窪み。
――スッ。
音一つ立てず。
指先から放たれた銀のカフスボタンは、絨毯の深い毛足の奥底、机の脚の真裏へと滑り込んだ。
絨毯のパイル糸が、まるで最初からそこにあったかのように、銀色の金属片を優しく包み隠す。
第2話でエドガーが落とし、私が拾い上げた、まさにその全く同じ場所。
完全なる、『リバース・ピックポケット(逆スリ)』の成功。
(設置完了……!)
私が立ち上がると同時に、暖炉の前で肖像画を検分していたユリアンが、冷ややかに首を横に振って視線を下ろした。
「……何もないな。ただの額縁の固定具だ。埃すら積もっていない」
「あら、見間違いでしたかしら。失礼いたしましたわ」
私は何事もなかったかのように、胸元で手を重ねて微笑んでみせた。
私の足元、執務机の脚の陰には、これからエドガーを地獄へ引きずり落とすための絶対の時限爆弾が、音もなく埋め込まれている。
ユリアンは、自分が仰ぎ見ていたわずかコンマ五秒の間に、目の前の床に致命的な証拠が配置されたことなど、夢にも思っていなかった。
その時――。
ポォン……と、暖炉の奥から澄んだ魔力音が響いた。
灰の中から、青白く輝く一枚のカードが浮き上がり、私の目の前の空間へと静止した。
審問領域が提示した、公式な調査結果。
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【証拠カード獲得】
・名称:『破られた手紙の切れ端(差出人不明)』
・発見場所:書斎・暖炉の燃え殻
・内容:「……帝国との取引は順調だ。次なる搬入は満月の夜、例の地下ルートにて……」
・選択プロンプト:【全体公開】または【非公開(隠蔽)】を選択してください。
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「ほう……手紙の燃え残りか」
ユリアンが眉をひそめ、カードへと視線を落とした。
その文字を読んだ瞬間、彼の青い瞳の奥に、ギラリと危険な光が走ったのを私は見逃さなかった。
帝国との取引。地下ルート。
――そう、これこそが、彼が追っている「国家反逆・密輸ビジネス」の断片だ。
審問領域のプロンプトが、私に選択を迫ってくる。
【全体公開】か、【非公開(隠蔽)】か。
(迷う必要なんて、一秒もないわね)
マダミスにおいて、重要そうに見えるが自分に直接の容疑がかからない証拠を手に入れた時。
初心者は「とりあえず隠しておこう」と隠蔽枠を無駄遣いしがちだ。
だが、それは悪手中の悪手。
隠蔽枠は各自に一つしか与えられていない。そんな貴重なスロットを、自分の犯行と無関係な紙切れで埋めてしまっては、後半の立ち回りが完全に死んでしまう。
何より――ここで堂々と「全体公開」を選ぶことこそが、ユリアンに対する最大のブラフになるのだ。
「【全体公開】を選択いたしますわ」
私は迷いなく、空中に浮かぶプロンプトの「公開」の文字を指先でタップした。
パッと光が弾け、証拠カードの内容がシステムログへと登録される。
ユリアンがわずかに目を見張り、私を見つめた。
「隠蔽枠を使わないのか、ヴィヴィアン嬢。手に入れた証拠を秘匿する権利は、貴様にもあるはずだが」
「隠す理由がどこにありますの?」
私は誇り高き令嬢の微笑みを浮かべ、毅然と言い放った。
「私は、父の死の真相を暴きたいだけです。このような不穏な手紙が見つかった以上、全員で共有し、議論の材料にするのが筋というものでしょう? ……それとも卿は、私がやましい物を隠したがっていると、まだ疑っておいでですの?」
ユリアンは数秒の間、値踏みするように私の瞳を凝視していたが、やがてフッと自嘲気味に息を吐いた。
「……いい度胸だ。貴様のその潔癖さが、本物であればいいがな」
制限時間五分の終了を告げる鈴が鳴った。
書斎の扉が開き、調査の終了が宣言される。
私の手元には、公式な成果としての『全体公開された手紙』。
そして――現場の絨毯の奥底には、完璧に再配置された『エドガーのカフスボタン』。
完全犯罪の盤面は、私の描いた青写真通りに、狂いなく進んでいた。
サロンへと戻る階段を下りながら、私の網膜に、審問領域の次なるアナウンスが点滅した。
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【証拠調査フェーズ1:進行中】
・第1指名者:調査終了
・これより――第2指名者:セレスティーヌ・フォン・ローゼンベリの調査を開始します。
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サロンの扉が開く。
出迎えたのは、青白い顔で立ち上がる義妹セレスティーヌの姿だった。
彼女の番だ。
そして、彼女が選ぶ調査場所こそが――彼女自身の首を絞める、次なる地獄の引き金となるのだ。




