第16話:名探偵の私室踏み込み
「私の番だな。……私が指定する調査対象は――」
深夜一時五十分。
暖炉の熾火が爆ぜる音すら凍りついた大サロンの中央で、監察卿ユリアン・フォン・ファルケンハインの氷を削り出したかのような美声が、大理石の床を滑るように響き渡った。
彼が手袋をはめた指先をまっすぐに伸ばし、その切っ先を突きつけた先。
サロンにいる全員の呼吸が、同時に止まった。
「『ヴィヴィアン・クローデルの私室』だ」
宣告が落ちた瞬間、室内の気圧が一段階下がったかのような錯覚を覚えた。
大サロンを包む青紫色の結界が、微かにパチパチと乾いた火花を散らす。
誰もが、その言葉の意味する重さを瞬時に理解していた。
ヴィヴィアン・クローデル――当主アルブレヒト侯爵が絶命する直前、二十一時四十五分に自らの手でブランデーグラスを運び込んだ、この事件の最大のキーパーソン。
彼女の私室を調べるということは、すなわち、この館で最も疑わしい容疑者の本丸へ、司法卿の鋭利なメスを直接突き立てることに他ならない。
もし、彼女の部屋から毒薬の瓶や、毒殺を企てたメモ、あるいは何らかの決定的な証拠が見つかればどうなるか?
その瞬間にゲームは終わる。
翌朝六時の最終投票を待つまでもなく、ヴィヴィアン・クローデルが最多得票を集めて処刑台へ送られることは、火を見るより明らかだった。
「な……何を言い出すんだ、ユリアン卿!」
静寂を破り、椅子をガタつかせて立ち上がったのは、私の婚約者エドガーだった。
彼はまだ先ほどまでのパニックから完全に立ち直っておらず、顔色は幽鬼のように青ざめ、脂汗で額の髪を張り付かせている。だが、彼にとって「婚約者の部屋を調べられる」ということは、自らの陣営の最後の砦を脅かされることと同義だったのだ。
エドガーは唾を飛ばしながら、円卓の端からユリアンを指差して叫んだ。
「未婚の貴族令嬢の私室を、男が家宅捜索するなど……言語道断だ! 紳士の礼儀に反するとは思わないのか!? いくら司法卿の権限があるとはいえ、女性の寝室を荒らすような真似は、帝国貴族としての誇りが許さないはずだ!」
必死の抗議。だが、その声は上擦り、誰の耳にもただの「見苦しい狼狽」としてしか届かなかった。
マダミスにおいて、他人の部屋の捜索に対して外野が過剰に口を挟むことほど、自らの怪しさを際立たせる愚行はない。エドガーは良かれと思って私を庇っているつもりなのだろうが、その的外れな紳士論は、盤面にとっては何の価値もない雑音だった。
ユリアンは、エドガーの方へ視線を向けることすら毛頭しなかった。
一瞥の価値もないと切り捨てるように、冷淡に横顔のまま吐き捨てる。
「真実の究明に、紳士協定など不要だ」
短く、一切の反論を許さない絶対零度の刃。
「この館にいる者は全員が容疑者であり、全員の命が天秤の上に載せられている。淑女のプライバシーと己の命、どちらが重いかなど、論じるまでもなかろう。……邪魔をするな、ハルデンベルク卿。それとも貴様が、彼女の部屋に『探られては困る何か』が隠されていると知っているのか?」
「う……っ、そ、それは……!」
エドガーは息を詰まらせ、言葉に窮して椅子へと倒れ込んだ。これ以上口を開けば、再び自分が疑いの渦中へと引きずり戻されることを思い出したのだ。
サロンの視線が、再び私へと集中した。
義妹セレスティーヌは、先ほど自らの旧遺言書を暴かれて泣き崩れていたが、今は涙で濡れた碧眼をわずかに上げ、縋るような、そしてどこか歪んだ期待を込めた眼差しで私を見つめている。
(『お姉様も、暴かれればいい……。私だけが地獄に落ちるなんて許せない……』)
そんなドロドロとした情念が、その伏せられた長い睫毛の奥から漏れ出ていた。
未亡人フロランスは、黒いレースの扇子で口元を覆い、面白がるように目を細めている。
テオドール医師は手帳を抱えたまま固唾を呑み、家政婦長のマルタは胸の前で祈るように指を組んでいる。
そして、私の背後に控える従者ローレンスは――第12話で私が授けた指示通り、身動き一つせず、ただ微かに私の背中を気遣うような「不自然な硬直」を絶妙に保っていた。
全員が待っていた。
当事者である私――ヴィヴィアン・クローデルが、この致命的な踏み込みに対して、いかに動揺し、いかに醜く取り乱し、いかに拒絶の言葉を並べるかを。
だが――。
(……ふふ。おいでなさい、名探偵卿)
私の内側で、冷徹なゲーマーの血が、静かに、そして熱く脈打っていた。
マダミスにおける絶対のセオリー。
『自室の捜索を「拒絶」あるいは「躊躇」したプレイヤーは、その瞬間に全員から百パーセント黒(有罪)と見なされる』。
「部屋は見ないでほしい」「女性の部屋だから恥ずかしい」「後にしてほしい」――そんな泣き落としや時間稼ぎを口にした瞬間、他のプレイヤーたちの脳内では「あいつの部屋に凶器がある」という確信が確定する。
一度植え付けられたその疑念は、二度と拭い去ることはできない。議論の終盤になれば、「部屋を拒んだ」というただ一点の理由だけで、満場一致の処刑票が集まるのだ。
何より――今の私にとって、自室の捜索など痛くも痒くもない。
私の手元、私の部屋の中を思い出してみるがいい。
アルブレヒト侯爵を絶命させた猛毒『蒼鉛の雫』の空小瓶。
見つかれば即死確定のあの凶器は、現在どこにある?
部屋のベッドの下か? クローゼットの奥か? 暖炉の煙道か?
――違う。
小瓶は今、私が身にまとっているこの重厚なシルクドレスの足元――『パニエの最下段の内側』に、細いリボンでガチガチに括り付けられている。
私の部屋には、毒の破片一つ、煤の粒一つすら存在しないのだ。
そして、第2話で現場から回収したエドガーの「銀のカフスボタン」は?
それも、先ほどの第14話において、私が自らの調査トークンを使い、書斎の絨毯の隙間へと完璧に再配置し終えている。
今の私の私室は、文字通り「埃一つ落ちていない、完璧に潔白な聖域」なのだ。
(ここでユリアンに私の部屋を調べさせることは、ピンチでも何でもない。……むしろ、最大のチャンスよ!)
私の脳内で、完璧な計算式が弾き出される。
ユリアンは貴重な「証拠調査トークン」を一枚消費して私の部屋を調べる。
そして、その結果は――完全な「空振り(手掛かりなし)」に終わる。
探偵役の最も強力なリソースを一枚、無駄にドブに捨てさせることができるのだ。
それだけではない。
司法卿自らが徹底的に調べ上げた上で「何も出なかった」という公認のお墨付きを得ることで、私は中盤以降、「部屋を完全に洗われた上で潔白が証明された、最も白い容疑者」という、盤石の防御壁を手に入れることができる。
断る理由など、天地がひっくり返っても存在しない。
必要なのは、一秒の躊躇も見せない「絶対の余裕」の演出だ。
私は背筋を凛と伸ばしたまま、ふわりと唇の両端を押し上げ、最高に優雅で、最高に気品に満ちた微笑みを浮かべた。
その所作には、恐怖の色も、焦りの影も、微塵も存在しない。
ただ、無礼な客人を優しく迎え入れる、誇り高き大貴族の当主令嬢としての威厳だけが満ちていた。
「ええ。どうぞ、気の済むまでご覧になってくださいませ、ユリアン卿」
澄んだ、鈴を転がすような声が、サロンの隅々にまで染み渡る。
私は腰の帯に結びつけられていた、小さなビロードのポーチへと優雅に手を伸ばした。
華奢な指先がポーチの紐を解き、中から一本の鍵を引き出す。
細密な唐草模様が彫り込まれた、銀色の重厚な鍵。
私はその鍵を、指先で摘むようにして持ち上げると、迷いのない足取りでユリアンの正面へと進み出た。
二人の距離は、わずか一歩。
彼の見下ろす冷徹な青い瞳を、私は瞬き一つせず、まっすぐに正面から見つめ返した。
そして――掌を上に向けて差し出し、その銀の鍵を、ユリアンの目の前へと差し出したのだ。
「私の私室の鍵ですわ。……私には、卿に対してやましいことなど何一つございませんもの。疑いをお持ちのまま議論を続けるより、卿ご自身のその鋭い目で確かめていただいた方が、お互いにとって有益ですわね?」
サロンが、再び静まり返った。
エドガーが目を見開き、セレスティーヌが息を呑む。
あまりにも堂々とした、一点の曇りもない対応。
鍵を隠そうとするでもなく、渋るでもなく、自ら進んで差し出すその姿は、誰の目から見ても「やましい物が何もない人間」の振る舞いそのものだった。
ユリアンの涼やかな眉が、わずかにピクリと動いた。
その青い瞳の奥に、微かな計算違いの光が走るのを、私は至近距離で見逃さなかった。
彼ほどの男だ。私の動揺、瞳孔の収縮、声の震え、脈拍の跳ね上がり――それらの身体反応を極限まで研ぎ澄まして観察していたはずだ。
もし私が一瞬でも鍵を渡す手を躊躇わせれば、彼はその瞬間に私の罪を確信しただろう。
だが、返ってきたのは、完璧なまでの自信と気品。
探偵役の張り巡らせた心理的な罠を、私は真正面から、その気高さで踏み砕いてみせたのだ。
ユリアンは数秒の間、私の瞳を無言で見つめ返していた。
互いの吐息が触れ合うほどの距離で、見えない知性の火花が散る。
「……ふん」
やがて、ユリアンは短く鼻を鳴らし、手袋をはめた指先で、私の掌の上にあった銀の鍵を音もなくつまみ上げた。
冷たい金属が擦れ合う微かな音。
「口先だけの潔白でないことを祈るな、ヴィヴィアン嬢。……案内してもらおうか。貴様の私室へ」
「ええ、喜んで。ご案内いたしますわ」
私は優雅にカーテシーを返し、身を翻した。
サロンに残された面々の視線を背に受けながら、私は中央階段へと向かって歩き出す。
背後からは、規則正しい軍靴の足音が、影のようにぴったりと追従してくる。
大サロンを離れ、二階、そして三階へと続く階段を上っていく。
階層が上がるにつれて、サロンの暖炉の温もりは完全に失われ、外界の猛吹雪が窓の魔術結界を叩きつける鈍い振動だけが、壁を通じて伝わってきた。
白亜館の三階東翼。
クローデル侯爵家の正統なる後継者である私に与えられた、最も格式の高いプライベートエリア。
薄暗い回廊の突き当たりに、黒檀で作られた重厚な一枚扉が佇んでいた。
扉の前で足を止める。
冷え切った空気が、肌を刺すように冷たい。
ユリアンが私の隣に並び立ち、上着の内ポケットから真鍮色の「証拠調査トークン」を一枚取り出した。
彼がそのコインを扉のノブにかざすと、カチリと澄んだ魔力音が響き、コインが黄金の光の粒子となって虚空へと溶けていく。
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【証拠調査トークン消費:1枚(残り2枚)】
・調査者:ユリアン・フォン・ファルケンハイン
・調査対象エリア:3階・ヴィヴィアン私室
・調査制限時間:5分
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審問領域のシステムが、正式に家宅捜索の開始を告げた。
ユリアンは手にした銀の鍵を、黒檀の扉の鍵穴へと差し込んだ。
カチャリ、と重厚なシリンダーが回転する硬質な音が、静寂の回廊に響き渡る。
彼の手が真鍮のドアノブにかかり、ゆっくりと押し開かれていく。
ギィ……と蝶番が軋む音とともに、私の私室の内部が、青白い結界の光に照らし出されながら、闇の中からその全貌を現そうとしていた。




