第9話 聖女様、夜の街へ
神託を口にして倒れてから、三日が経った。神殿はいつにも増して騒がしい。聖女ミレイアが久々に言葉を発し、しかも王家に関わる重大な神託を下した——その噂は、一日で王都中に広がった。
神官達は興奮仕切りで、神殿長は連日王宮へ呼ばれ、記録官達は書き写した神託を手に奔走している。そして当然のように、聖女自身にもろくに休息は与えられていない。
「少しだけで結構ですので、もう一度当時の状況を——」
「神託の続きを覚えておられませんか?」
「神の御声は、どのようにお聞こえに……」
うるさい。うるさいうるさいうるさい。ミレイアは一切口を開かず、ひたすら『覚えておりません』という文字を繰り返した。
実際に、途中から記憶は曖昧だ。しかし最後に見たものだけは忘れられない。金色に輝く視界の中で、ルークを見た気がした。自分を見つめている彼の顔。神託と彼が関係あるのかは分からないが、夢と重なって嫌だった。それも原因なのかは分からないが、いつもよりも神殿が息苦しく感じられる。
その夜、ミレイアはついに限界を迎えた。
「……出よう」
ベッドに座ったまま、彼女はぽつりと呟く。セシルが目を丸くした。
「いかがなさいましたか、お嬢様?」
「ちょっとだけ。ほんのちょっと外の空気を吸ってきてもいい?」
「……それは、神殿のお庭をお散歩をしてくるという意味ですか?」
「違うわ。神殿を出るの」
「絶対に駄目です!」
ミレイアはさっさと聖衣を脱ぎ捨て、質素なワンピースに着替え始めた。白色ではなく、落ち着いた紺色のもの。頭には薄いショールをかぶる。鏡の中で姿を確認したが、どこからどう見ても、少し育ちの良い町娘だ。セシルは真っ青になっていたが。
「お一人でですか!? せめてルーク様に——」
「言ったら連れ戻されるに決まっているでしょ」
ミレイアは窓辺に立ち、勢いよく窓を開いてにやりと笑った。
「すぐ戻るわ。見つからなければ問題ないもの」
そう言って、聖女とは思えない身軽さで窓から飛び降りた。セシルの悲鳴が聞こえたが、無視する。
夜風が気持ちいい。神殿の裏庭に降り立ち、人気のない通路を抜けて小門へと向かう。胸が高鳴った。このように抜け出すのは、子どもの頃以来だ。久しぶりの自由。
うきうきな気分で門を抜けた時。
「お出かけですか、聖女様」
「ひゃっ!?」
驚きすぎて変な声が出た。壁にもたれかかるように立っていたのは、ルークだった。しかしいつもと違う。騎士の制服ではない。黒いシャツに濃紺の上着を羽織り、首元を少し開けた気楽な私服姿。月明りの下、黒髪が風に揺れている。普段よりもずっと年相応で、妙に……その、ずるいくらいに恰好よかった。
彼は腕を組んで、どこか面白そうに笑っている。その笑みが、妙に怪しい。
ミレイアの背筋が凍った。終わった。絶対に連れ戻される。ミレイアはじり、と後ずさった。ルークは一歩も動かないまま首を傾げる。
「戻られますか?」
その問いに、思わず顔を顰める。やっぱり、連れ戻されてしまう。何とか彼を撒けないかと考えていると、彼は壁から身体を起こし、自然な仕草で片手を差し出した。
「それとも、一緒に逃げますか」
「……え?」
月明りの下で、彼は穏やかに笑う。まるで、秘密を共有するかのように。ミレイアはしばらく固まった。彼の心の声を読もうと意識を向ける。
(まさか、抜け出すとは思わなかった。でも息抜きは必要だ。……驚いている顔、やっぱり可愛いな)
この男、本当に何なの。ミレイアは警戒したまま尋ねる。
「……連れ戻さないの?」
声を出してから、自分でしまったと思う。しかし彼は笑みを深めただけだった。
「今日は非番ですから。ただの町人です」
そして、恭しく身を屈める。
「なので、今は護衛としてではなく……貴女様を案内する役割に立候補致します」
その仕草があまりにも様になっていて、そして顔が良すぎて。ミレイアは何も言えなくなった。
結局、差し出された手は取らなかったけれど、小さく頷いてしまった。
夜の王都は、昼とはまるで違う。大通りには街灯が灯り、露店が並び、甘いお菓子の香りが漂ってくる。酒場からは賑やかな笑い声。楽師が広場で演奏し、子どもたちが駆けまわっている。
王都は夜でも眠らないのだ。ミレイアは目を丸くした。
「……こんなに人がいるの」
小さく呟く。ルークは彼女の隣で歩調を合わせていた。
「祭り前ですから。今日は特に賑やかですね」
神殿に閉じこもっている彼女にとって、夜の街はほとんど未知だ。誰も彼女に気付かない。聖衣も着ていないし、聖女としての神々しさもない。ただの女の子として歩くのは、落ち着かなかった。それでも、楽しい。
露店の前で立ち止まる。串焼きの香りに、思わず視線が吸い寄せられた。ルークがそれに気づき、何も言わずに店主に銅貨を渡す。
「はい」
差し出された串焼きを見て、ミレイアは目を瞬かせた。
「……別に欲しいって言ってない」
「顔に書いてありましたよ」
(食べたそうにしていたからな。食べ慣れないものだろうが、少しでも美味しいと思ってくれたらいい)
ぐぬぬ、と歯を食いしばりたくなるを抑え込み、ミレイアは悔しげに受け取り、一口かじった。そして、目を丸くする。
……おいしい。外はぱりっとしていて香ばしく、中は柔らかい。神殿で出される上品な料理よりずっと味が濃かったけれど、美味しかった。
彼女の反応を見て、ルークは小さく笑う。
(やっぱり、こういう自然な顔の方がいい)
ミレイアは慌てて顔を逸らし、串焼きをもう一口かじった。
しばらく歩いているうちに、緊張は少しずつ解けていった。
ルークは驚くほど王都に詳しかった。裏路地の近道や、夜でも安全な通り、美味しい屋台、綺麗な景色が見られる場所。
「……どうしてそんなに詳しいの?」
何気なく聞くと、ルークは少し視線を上げた。遠くを見るような目をして、口元を和らげる。
「昔、よく抜け出していたのです」
「抜け出す?」
「育った場所から、少し」
その言い方にミレイアは眉をひそめた。彼の心の声に耳を傾ける。
(孤児院のことは、話すほどではないか)
初めて、彼の過去について聞いた。ルークは貴族出身ではない。常に騎士らしい立ち振る舞いだから、てっきりどこかの貴族家の出だと思っていた。
「……ここに来ていたの?」
「ええ。夜の街は、その頃の遊び場でした」
彼はさらりと話をしているが、昔を思い出しているのかその声は優しい。そして、それ以上を語ることはなかった。
ミレイアには分かった。彼はきっと、苦労してここまで来たのだ。
噂に聞いた話では、彼は王太子とも面識があるそうだ。いつも、誰よりも堂々としている人。そんな彼にも、重い過去があるなんて。
もっと知りたいと、そう思った。
気づけば、二人は広場の噴水前にいた。灯火が水面に揺れていてとても綺麗だった。
ミレイアは、両手に焼き菓子の袋を抱えたまま立ち尽くす。彼女が気になったものは全て、ルークが「せっかくですから」と言って買っていったのだ。
(嬉しそうだな)(もっと色んな顔を見たい)(笑ってくれてよかった)
彼の心の声が甘い。もうやめてほしい。恥ずかしい。それでも、頬が緩むのを止められなかった。
「……楽しい」
こぼしてしまった声。自分でも驚くほどに素直な言葉だった。
ルークは隣で目を見開く。それから、ふんわりと笑った。
「それは、よかったです」
(一緒に来て、正解だったな。息抜きになっただろうか)
その声を聞きながら、ふと思う。夢で見た未来なんて、本当に訪れるのだろうか。こんなに穏やかな夜があるのに。こんなふうに笑えるのに。
その考えは、胸の奥で小さな痛みに変わる。今は、未来のことなんて考えたくなかった。彼女は果実の飴をかじって、わざとそっぽを向く。
「……次はあっちに行く」
ルークは少し驚いた後、楽しそうに頷いた。
「はい。どこまでも、貴女様と共に」
そして二人は、夜の賑やかな街へとまた歩き出した。
ミレイアは、神殿では決して見せない、少女らしい笑顔を浮かべていた。




