第6話 熱に浮かされて
翌朝、ミレイアは最悪の目覚めを迎えた。体調不良が悪化していたのだ。
私室の天井を見上げながら、彼女は布団の中で無言のまま息を吐く。昨日の……というよりは、ここ数日の無理がたたったのだろう。身体が重く、頭も痛い。喉も熱を帯びていて、思うような声が出せない。
それ以上に問題なのが、昨日の記憶がすべて鮮明に残っていることだ。ルークに抱き上げられたこと。神官たちの前をそのまま運ばれたこと。しかも自分が恥ずかしさのあまり、彼の胸に顔を埋めたこと。また思い出してしまい、両手で顔を覆った。
「……死にたい」
掠れた声が漏れる。傍で薬湯を用意していたセシルが振り返った。
「お嬢様、お目覚めですか?」
「記憶を消す薬ない?」
「ありません」
素早い返事に、ミレイアは呻きながら枕に顔を押し付ける。
「何であんなことしたのよ……あいつ……」
セシルは苦笑した。
「ルーク様は、本当にお嬢様のことをご心配なさっていたのですよ。お嬢様のお顔色は、かなり悪かったですし」
「それにしたって……普通抱っこする!? しかも人前よ!」
「倒れそうな女性を放っておく騎士の方が問題では……」
「うるさい」
布団の中から睨みつけるが、熱のせいか迫力がない。セシルは小さく笑って、薬湯を差し出した。
「今日はすべての予定を取りやめました。神殿長にはルーク様が伝えてくださいましたよ」
ミレイアは起き上がりかけて、ぴたりと止まる。
「……あいつが?」
「ええ。随分強く仰ったそうです。『聖女様には休養が必要です』、と」
昨日の彼の声が蘇り、また胸がざわついた。嫌になる。どうしてこう、いちいち思い出してしまうのか。苛立ちを隠すように、彼女は薬湯を一気に飲み干した。とても苦かった。
昼近くになって、部屋の扉が控えめに叩かれた。セシルが扉を開け、応対する。
「どなたですか?」
「ルークです。聖女様のご様子を伺いに」
その声を聞いた瞬間に、ミレイアは毛布を引き上げた。なんで来るのよ。放っておいてよ。放っておかれても逆に腹立つけれど。
セシルがちらりと彼女に視線を向ける。ミレイアは毛布の中でじたばた足を動かして抗議したが、無視された。
部屋にルークが入ってくる。今日は軽装の騎士服だった。王国騎士団の制服ではなく、神殿内勤務用の簡素な装いだ。それだけなのに、なぜかいつもよりも雰囲気が和らいで見える。
彼はベッドの傍で立ち止まって膝をつき、少し眉を下げた。
「……まだお辛そうですね」
(顔を隠している。俺が勝手に抱き上げたこと、まだ気にしているのかな)
ミレイアの肩がびくっと跳ねた。やめて、読まないで。いや、勝手に心を読んでいるのは自分の方だけれど。
ルークはセシルから事情を聞いていたのか、小さな包みを差し出してきた。
「お見舞いです。食欲がなくても食べやすいかと」
彼女の代わりにセシルが受け取り、中を見た。彼女は毛布の隙間からちらりと伺う。それは、果物の砂糖煮だった。王都でも評判の店のものであるらしい。
(彼女、甘いものは好きだからな)
「……」
なぜ知っているのか。確かに彼からもらった甘いものはすべて食べているし、包み紙も捨てずに残しているし、食事後のデザートを楽しみにしている。しかし誰にも、自分が甘いものを好きだと伝えたことはない。
「お嫌いでしたか?」
(俺の間違いだったらどうしよう。やはり、迷惑だったか)
とても不安そうだ。ミレイアはたまらず毛布から片手だけ出して、筆記具を引き寄せる。声を出してもいいのだが、朝よりも喉の調子が悪いためこちらの方が楽なのだ。いつもよりもかなり乱れた字で書く。
『嫌いではありません』
ルークがその文字を読み、ほっとしたように微笑んだ。
「それならよかったです」
(字が少し崩れているな。熱でつらいのに返事をしてくれたんだ)
どうしてそんな細かいところを見るの。ミレイアは、筆を握ったまま黙り込んだ。セシルが空気を読んで静かに退室していることには一切気づいていない。
「今日と明日は、何もしなくて良いそうです。神殿長も納得されました」
(正確には納得していなかったが押し切った。いちいち反論してきて面倒だったな)
ミレイアは思わず目を見開く。彼は優しく微笑みながら続けた。
「少しご不満な様子でしたが、聖女様を無理に働かせる方がおかしいですから」
その言い方は穏やかなのに、珍しく棘がある。心の声の方も、珍しく冷えていた。
(こんなにもこの人は疲れているのに、まだ働かせるつもりだったのか。神殿も腐ったものだな)
ミレイアは目を丸くした。彼は、自分のことで怒っている。そのことに、胸の奥がじわりと温かくなった。セシル以外に、こんな風に怒ったくれる人はいなかった。神殿も王家も、彼女の力しか見ていない。休ませるのはその力の回復のためであって、彼女自身を気遣ってではない。でも、この男は違う。心から彼女を心配し、休むことを勧めている。
彼女はたまらず視線を逸らした。黙っていると、ルークがふと立ち上がる。
「では、私はこれで」
彼はそのまま去ろうとして、ミレイアは咄嗟に手を伸ばした。服の裾を引かれた彼は、驚いた顔で振り返っている。彼女自身、自分が彼の服を掴んだことが信じられなくて、はっと目を見開く。
「……っ」
手を放そうとしたが、彼はその前に問いかけてきた。
「どうかしましたか?」
(……帰らない方がいいのか? 熱が出て、心細くなっているのかもしれない)
優しすぎる声。ミレイアは顔を真っ赤にして、必死で筆を動かす。震える字で、一言。
『まだいて』
書いた瞬間、自分で固まった。しまった、わたしは何を書いているの。消したい。今すぐに燃やしたい。
しかしその前にルークに見られてしまう。彼は驚いたように目を瞬かせた後、ゆっくりと笑った。からかうのではなく、ただ、とても嬉しそうに。
「勿論です」
(……嬉しいな。まだ傍にいることができる)
彼はそれ以上何も言わずに、椅子を寝台の傍に引き寄せて腰を下ろした。ミレイアは毛布の中で息を潜めたまま、そっと隙間から覗く。ルークは窓辺から差し込む光の中で、じっと彼女を見つめていた。目が合うと、目を細めて柔らかく微笑む。
(俺がいることで安心して眠ることができるのならば、それが一番いい)
その声を聞いたミレイアは、再び毛布に潜った。もう駄目だ。心臓の音がうるさい。熱の所為なのか、それとも別の理由なのか、自分でもわからない。
しばらくじっとしていると、身体の重さが増してきた。まぶたが重い。しかし、眠ってはいけない気がした。まだ彼がそこにいる。こんな近くで眠るなんて落ち着かない。
だが熱のせいか抵抗は弱く、意識はゆっくりと沈んでいった。
そして——夢を見る。
ミレイアにとっての夢は、ただの夢ではない。神に選ばれた聖女だけが見ることを許された、未来の断片。いわば、神託の一部だ。断片的で、曖昧で、それでも決して無意味ではない。そのため、彼女は眠ることを少し恐れるようになっていた。
今日もまた、いつものように暗闇から始まる。冷たい風が吹いていて、焦げ臭い匂いがして、空は真っ赤に染まっている。
王都が、燃えていた。石造りの塔が崩れ落ち、白い神殿は黒煙に呑まれている。人々の悲鳴が響き渡り、遠くでは異常事態を知らせるように鐘の音が鳴り響く。
ミレイアは、その中心に立っていた。白い聖衣は煤に汚れ、頬や手は血に濡れている。彼女の目の前には、巨大な黒い裂け目があった。瘴気の渦が地面から噴き上がり、世界そのものを喰らうかのように広がっている。
彼女の前に、誰かが立った。黒髪の男、ルークだ。
「……だめ」
夢の中で、ミレイアは声を出す。だが届かない。
彼は振り返った。その顔は、いつもの穏やかなものではない。傷だらけで、血に濡れていて。それでも、優しく笑っていた。
『大丈夫です』
聞こえたのは声ではない。脳内に直接響き渡るような感覚。
彼は剣を抜いた。その先には、瘴気の中から現れた何かがいる。人ではない、獣でもない、黒い影の塊だ。それが、彼に襲い掛かった。
「やめて!!」
ミレイアは駆けだそうとするが、足が動かない。身体が縛られているのだ。祝福の光が、自分を地面に縫い付けている。まるで、「お前は動くな」と神から命じられているかのように。
ルークの剣が折れる嫌な音が聞こえる。その直後に、黒い爪が、彼の胸を貫いた。
彼の身体がゆっくりと倒れる。その瞳が最期に見つめていたのは——ミレイアだった。血に濡れた唇が、声にならない言葉を紡いだ。
『泣かないで』
夢の景色が崩壊を始めた。燃える王都も、黒く染まってしまった空も、すべてが砕け散っていく。
「——っ!!」
ミレイアは飛び起きた。息が荒く、喉が焼けるように痛い。全身には冷や汗が滲んでいた。
目の前に広がるのは、薄暗い私室だ。既に日は落ちており、空の端が僅かに赤く染まっている。ここは、夢ではない。現実だと自分に言い聞かせるが、心臓は激しく脈打っている。あまりの恐怖に、視界が滲んだその時。
「聖女様?」
すぐそばから声がした。ミレイアはびくりと肩を震わせる。声の主であるルークはすぐさま立ち上がり、慌ててベッドへと近づいてきた。
「どうされましたか。うなされて……」
彼の顔を見た瞬間、夢の中の血まみれの彼の姿が重なる。剣が折れる音と、胸を貫かれた時の音が蘇ってくる。あまりにも、怖かった。気づけば、ミレイアは反射的に彼の手を掴んでいた。ぎゅっと、手を震わせながら。
ルークは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を和らげた。
「大丈夫です。私はここにいます」
(今にも泣いてしまいそうな顔だ。……嫌な夢を見たのだろう)
ミレイアは答えることができない。夢の内容を言えることはできない。しかし、掴んだ彼の手を離すこともできなかった。
夢は未来だ。今までに、何度も夢と同じ出来事が現実にも起こった。断片的であっても、外れたことはない。つまり——今見たのは、いずれ起こる未来なのだ。ルークが死ぬ未来。
彼女がそれを再認識した時、全身を激しい震えが襲った。ルークは何も聞こうとはせず、ただベッドのそばに膝をついて彼女の目を見つめている。
「怖い夢を見たのですか?」
(貴女が安心できるまで、離れないでおこう)
優しい声。その心の声も、優しい。彼の言葉に胸が締め付けられた。
離れてほしくない。でも、離れてほしい。夢の中の彼は、ミレイアの近くにいた。なら、彼が彼女の近くにいなければ、未来は変えることができるのかもしれない。そう考えて、彼女は唇を噛みしめた。
震える手で、枕元の筆記板を探す。しかしうまく掴むことができない。彼女の動きに気がついたルークが、そっと筆記板を手渡してくれた。彼と手が触れあった瞬間、また夢が蘇ってくる。
血。炎。彼の笑顔。
ミレイアは、ぐしゃぐしゃの字で書いた。
『今日は帰って』
ルークは目を見開いた。その表情が傷ついているように見えるのは、気のせいではない。
(……俺がそばにいるのは迷惑だったのだろうか)
違う。違うのに、説明をすることができない。ミレイアは必死にもう一行付け足した。
『ひとりになりたいの』
ルークは板を見つめた後、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
声は穏やかだ。それがかえって、彼女の心を抉っていく。彼は立ち上がって、扉へと向かった。その背中が遠ざかるほどに胸が苦しくなる。でも、止められない。止めたらいけない。
扉の前で彼は、一度だけ振り返った。
「また、明日もこちらに来て良いですか?」
(嫌がられていないなら、来たい。俺になにかできないだろうか。もっと、彼女を元気にできるような何かを……)
彼の言葉に、ミレイアは何も答えることはできなかった。小さく頷くだけ。それを見てルークは少しだけ安心したように笑って、部屋を出て行った。扉が閉まり、静寂が訪れる。
ミレイアは筆記板を握りしめたまま、ぽつりと呟いた。
「……いや」
その声は掠れていた。涙が、頬を伝う。
「死なないで……」
夢の中で最後に見た彼の笑顔が、どうしても忘れられなかった。




