第3話 見られてはいけないもの
その日の夕暮れ。聖女の私室では、珍しく(いつも通り)怒号が響いていた。もちろん、外には漏れないようになっている。扉が完全に閉じられていたら、内側の声が一切漏れ出ないことは確認済だ。それでも、室内はひどいことになっている。
「ふざけんじゃないわよあの狸爺……!!」
セシルが悲鳴を飲み込んだ。
「お、お嬢様、落ち着いて……!」
「落ち着けるわけないでしょ!」
ミレイアは聖衣の襟を雑に緩め、ソファーに膝を立てて座り込んでいる。普段の神々しい姿はどこにもない。
彼女がこんなにも荒れている原因は、昼間の神殿会議のことだった。神殿長が持ち出してきた、ある提案。
『王太子殿下と聖女様の関係強化のため、婚約の可能性も視野に入れては』
言葉自体は柔らかだったが、ミレイアには聞こえてしまった。
(どうせ、聖女の意思など不要だ。王家に組み込むことができれば神殿も安泰。この娘は黙っているし、扱いやすい。子でも産ませれば、完全に繋ぎ止められるだろう)
——思い出しただけで吐き気がしてきた。
◇ ◇
幼い頃。まだ聖女候補だったミレイアは、ある夜、神殿の廊下で立ち止まった。どこからか、自分の名前が聞こえたからだ。
「ミレイアは有望ですな」
彼女が最も慕っていた神官の声。彼女は少し嬉しくなった。褒められていると思ったからだ。しかし、その直後に。彼女の耳が、別の声を捉えた。
(顔が良い。器も上々だ。王家に献上すれば、神殿の発言力は増すだろう。もし力が足りなければ修道院にでも送ればいい。あの娘の意思など問題ではない)
まだ八歳だった少女は、部屋に戻って声もなく泣いた。
あの日から、人の笑顔を信じられなくなった。
◇ ◇
「最悪……最悪……!」
嫌な過去を思い出したミレイアは、枕を抱えて唸る。
「何で私が、あんな顔だけ男の道具にされなきゃなんないのよ……!」
セシルはおろおろとしながら、彼女にお茶を差し出した。
「で、ですが、まだ決まったわけでは……」
「決まっていなくても腹が立つの! 勝手に他人の人生を会議で決めるな! その頭かち割って中身をかき回してやりたいわ!」
「お嬢様、お言葉が悪いです!」
「これは元からよ!」
ばん、と机を叩いた、その瞬間だった。がちゃり、と扉が開かれたのだ。
室内に沈黙が落ちる。セシルが顔を真っ青にし、ミレイアも固まったまま、ぎぎぎ、と首を動かした。
扉を開けて入ってきたのは、ルークだった。夕暮れの光を浴びながら、黒髪の騎士が扉に手をかけたまま立ち尽くしている。ミレイアの脳内では警鐘が鳴り響いた。
終わった。全部聞かれた。聖女終了、人生終了。
しかし彼は、机の手をついた状態の彼女を見て——まず驚いた表情を浮かべた。次に、ほっと息をつく。
「……よかった」
「…………は?」
ぽろり、と素で声が出た。セシルが今にも崩れ落ちそうになっている。彼は扉を閉めて、少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「失礼しました。部屋に入られる際にお顔色が悪かったので、倒れていらっしゃるのではないかと心配してしまって」
(先ほどよりも顔色が良くなっていてよかった。本当に苦しそうだったから)
「……」
ミレイアは瞬きを繰り返した。
え、そこ? いや、今はそこじゃないでしょう。普通、もっとあるでしょう。聖女が暴言を吐いていただとか、神々しいイメージが崩れただとか、何だこの女とか。
訝しみながら、彼の本音に意識を向ける。
(思ったよりも元気そうだ。でもかなり怒っている。何か嫌なことがあったのだろう)
ミレイアは言葉を失う。怒りよりも先に、混乱が来た。
この男、何なの。見たでしょう今。完全に、見たでしょう。聖女らしさの一かけらもなかったでしょう。それなのに、そこに何も触れないの?
ルークはしばらく困ったように微笑んでいたが、視線を動かしたことでようやくセシルの顔色の悪さに気が付いたのか、少し眉を寄せた。
「……私、勝手に入るべきではありませんでしたね」
(やってしまったな。彼女の無事を真っ先に確認した方が良いと思ったが、配慮が足りなかった)
彼は、心から反省していた。打算も探りもなく、ただ純粋に失敗したと思っている。その心の声を聞いたせいで、ミレイアの苛立ちが行き場を失った。
猛烈に、目の前の男を殴りたい。しかし殴る理由はない。腹が立つのに、向こうには善意しかない。最悪だ。これでは、彼女の方が悪である。
彼女は素早く筆記板を手に取って乱暴に文字を書き、つかつかと彼に歩み寄ってその胸元に紙を押し付けた。
『勝手に入らないでください』
ルークはそれに目を通し、頷く。
「大変申し訳ありませんでした」
(次から気をつけよう。男が勝手に女性の部屋に入るのは不躾だった)
ミレイアの眉がひきつる。いや、もっと何かあるでしょう!? さっきの暴言を聞いたわよね!?
耐え切れずに、彼女はさらに書きなぐった。
『今の、聞いていましたか』
ルークは少しだけ目を瞬かせ、そして答えた。
「少し」
彼女の背筋が凍った。セシルが「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。しかし彼が続けた言葉は、予想を遥かに超えるものだった。
「聖女様も、人並みに怒ることがあるのだと安心しました」
「…………」
今度こそ、ミレイアの思考は完全に固まった。ルークは困ったように笑っている。
「いつもお静かなので。感情を押し殺しているのではないかと思い、少し心配でした」
(ちゃんと怒れる人でよかった。感情を押し殺しているのは事実かもしれないが、こうして露わにできる場所があるなら少し安心だな)
言葉と本音がほぼ一致している。ミレイアはしばらく無言で彼を見上げることしかできなかった。それから、震える手で筆を持つ。何度書き直しても、綺麗な文字を書くことはできなかった。
結局、書くことができた文字は少しだけ。
『あなた、変です』
ルークはそれを見て、わずかに笑った。
「よく言われます」
(入ってきた時よりも元気になったみたいだ。その元気に、俺も少しは役に立てたのだろうか)
その声が聞こえてきた瞬間、ミレイアには限界が訪れる。真っ赤になった顔を隠すように、勢いよく彼の胸を押した。
「……っ、もう出てって!!」
しまった、声が。そう思った時には遅い。
「お嬢様ぁぁぁ!!」
セシルも我慢できずに絶叫している。二人の様子を見てルークは目を丸くしたが、すぐに綺麗な動作で一礼した。
「承知しました。改めて、勝手に入室してしまったことを謝罪致します」
そして彼は、部屋を出る前に一度だけ振り返る。その瞳には、からかいも打算もなく、ただ穏やかな光だけがあった。
「お大事になさってください」
扉が閉まり、沈黙が落ちた数秒後。ミレイアはその場でしゃがみ込んで、両手で顔を覆った。
「……なんで……」
耳まで熱い。心臓の音がうるさい。あんなに嫌なことがあって腹が立っていたはずなのに、今ではもうそのことすら頭から吹き飛んでいた。
セシルが恐る恐る近づいてくる。
「お、お嬢様……。大丈夫ですか……?」
ミレイアは顔を上げずに呟く。
「……あいつ、本当に気持ち悪い」
その声は、今にも消えてしまいそうに弱々しかった。




