第6話 夜を徹するケアマニュアル
第6話 夜を徹するケアマニュアル
施設から笑い声が消えた。
クラスター発生から五日目。
廊下には常にアルコールの匂いが漂い、防護服の擦れる音が絶え間なく響いている。面会は禁止。食堂は閉鎖。ナースコールだけが、昼も夜も鳴り続けていた。
職員は次々に倒れた。
発熱。
隔離。
欠勤。
残った人数だけで、百人近い入居者を回さなければならない。
葵の目の下には濃い隈ができていた。
髪は乱れ、指先はアルコール消毒で切れている。
もう三十時間近く眠っていない。
「葵さん!」
別の職員が駆け込んでくる。
「二〇九、酸素落ちてる!」
「今行きます!」
走る。
防護服の中は汗で蒸れていた。
マスクの内側に自分の呼吸がこもる。
部屋を回るたび、苦しそうな咳が聞こえる。
「大丈夫ですよ」
「今お水持ってきますね」
「熱、測ります」
言葉だけは優しくする。
でも心が追いつかない。
夜になる頃には、誰がいつ薬を飲んだのか、頭が曖昧になっていた。
その晩、三人目の看取りがあった。
家族は来られない。
タブレット越しの涙。
「ありがとうね」
「寂しいよ」
「怖い」
その全部を受け止めながら、葵はだんだん感覚が麻痺していくのを感じていた。
泣く暇もない。
悲しむ余裕もない。
ただ次のコールへ向かう。
深夜二時。
休憩室の蛍光灯が白く滲んでいた。
誰もいない。
紙コップのコーヒーは冷え切っている。
葵は椅子に座った瞬間、足の力が抜けた。
立てない。
頭が痛い。
耳鳴りがする。
マスクを外すと、肌に張りついた汗が冷たかった。
静かだった。
久しぶりに。
ナースコールが鳴っていない。
その静けさが逆に怖かった。
「……やだ」
ぽつりと声が漏れる。
喉が震えた。
「もう……やだ……」
視界が滲む。
祖母の顔が浮かんだ。
介護施設で亡くなった祖母。
コロナ禍で会えなかった。
最期の日も。
手を握れなかった。
「ごめんね」
何に向かって言っているのか分からない。
「もう誰も死なせたくない……」
声が掠れる。
「でも疲れた……」
涙が落ちた。
それを合図みたいに、全部崩れた。
「無理だよ……」
肩が震える。
「怖いよ……」
泣き声が、静かな休憩室に響いた。
そのときだった。
自動ドアが静かに開く。
葵は顔を上げた。
廊下の薄暗い光の中に、人影が立っていた。
銀色の髪。
黒い瞳。
ジェミニだった。
修理停止中だったはずの。
葵は息を呑む。
「……ジェミニ?」
彼はゆっくり近づいてくる。
歩行音は静かだった。
でも以前より少しだけ遅い。
「システム修復、完了しました」
声も少し掠れていた。
葵は立ち上がろうとして、失敗する。
足に力が入らない。
ジェミニが目の前で止まった。
彼は数秒、泣いている葵を見つめていた。
瞳の奥で、何かを測定している。
呼吸。
涙。
脈拍。
精神疲労。
限界値超過。
だが今回は、彼は止まらなかった。
「葵さん」
静かな声。
「はい」
「あなたのストレス状態は危険域です」
葵は泣き笑いみたいな顔になる。
「知ってるよ……」
「休息が必要です」
「休めないの」
声が震える。
「人が足りないの……」
ジェミニは黙った。
それから、不意に膝をついた。
視線を合わせる高さまで。
葵はぼんやり彼を見る。
「……何」
「確認します」
「え?」
次の瞬間。
ジェミニが、そっと葵を抱きしめた。
葵の思考が止まる。
防護服越しの感触。
わずかに温かい人工皮膚。
消毒液の匂いの奥に、微かな金属の熱の匂い。
「……ジェミニ?」
彼は何も答えない。
ただ静かに、背中を撫でた。
トン、トン、と一定のリズム。
子供をあやすみたいに。
優しく。
優しく。
葵の喉が詰まる。
その叩き方を知っていた。
昔。
祖母が苦しくて眠れなかった夜。
本当は自分がこうしてあげたかった。
背中をさすって。
大丈夫だよって。
でも感染が怖くて、触れられなかった。
最期まで。
触れられなかった。
「……なんで」
涙が止まらない。
「なんでそんなことするの」
ジェミニは静かに答えた。
「介護行動です」
「マニュアルにあるの?」
「ありません」
葵は目を見開く。
ジェミニの手は一定の速度で背中を叩いている。
不思議と呼吸が落ち着いていく。
「あなたは現在、“支援する側”として限界に達しています」
低い声。
「ケア対象と判断しました」
葵は声を上げて泣いた。
ジェミニの胸に額を押しつける。
そこは人間みたいに温かかった。
「怖かった……」
「はい」
「みんな死んじゃうんじゃないかって……」
「はい」
「私、ちゃんとできてるのかな……」
ジェミニは少しだけ間を置いた。
あの沈黙。
けれどもう、迷子みたいな停止ではない。
考えている沈黙だった。
「葵さん」
「……なに」
「あなたは、ずっと誰かを守ろうとしていました」
背中を叩く音。
トン、トン。
「それは非常に困難で、非常に価値のある行動です」
葵は泣きながら笑った。
「褒め方、相変わらず変」
「学習途中です」
その返答が、少しだけ人間らしく聞こえた。
休憩室の外では、またナースコールが鳴り始める。
誰かが助けを呼んでいる。
夜はまだ終わらない。
それでも今だけは。
ほんの数分だけは。
葵は誰かに支えられていた。
介護される側ではなく。
介護する側の人間として。
ジェミニは静かに彼女を抱きしめ続ける。
その行動は、どのケアマニュアルにも載っていない。
けれどきっと。
一番必要なケアだった。




