第1話 沈黙のデータベース
第1話 沈黙のデータベース
夜勤前の施設は、いつも少しだけ病院に似た匂いがした。消毒液の刺激臭に、乾いたリネンの匂い。そこへ夕食の煮魚の残り香が混ざり、古い暖房の熱が廊下に滞っている。
葵はナースステーションで記録を入力しながら、新しく配属された介護支援ユニットを横目で見ていた。
人型補助AI――ジェミニ。
白に近い銀髪。静かな黒い瞳。人間と寸分違わない皮膚。だが、近くに立つと、ほんのわずかに金属が温まったような匂いがする。
「葵さん」
不意に声をかけられ、彼女は肩を揺らした。
「はい?」
「本日の排泄介助記録、入力漏れがあります。三号室、田所ミネ様、二十一時十分」
「あ……ほんとだ」
「修正しました」
「ありがとう」
ジェミニは軽く会釈をした。その動作には無駄がない。美しいほど正確だった。
入浴介助も、食事介助も、移乗も完璧だった。力加減に誤差がない。利用者の痛みを先回りして回避する。転倒事故はゼロ。
だが、葵は妙な違和感を抱いていた。
彼は“空白”に弱かった。
利用者が急に黙り込む瞬間。言葉が途切れ、部屋に沈黙だけが残る時間。ジェミニはそのたび、ほんの数秒、停止する。
まるで深い霧の前で立ち尽くすように。
最初の担当は、八十二歳の入居者、倉橋源三だった。
元教師で、頑固者として有名だ。気に入らない職員には湯呑みを投げる。
「失礼します。倉橋様、就寝前のお薬です」
ジェミニが穏やかに言った。
「……お前、新入りか」
「はい。本日より担当します」
「人間じゃねえな」
「はい。介護支援型AIです」
「ふん」
倉橋は鼻を鳴らした。
「気味が悪いほど手際がいい」
「ありがとうございます」
「褒めてねえ」
葵は思わず吹き出しそうになった。
だがジェミニは表情一つ変えない。
薬を飲ませ、布団を整え、水分量を確認する。その動きは静かで、美しかった。
倉橋はじっと彼を見た。
「お前、生きてないな」
部屋の空気が少し冷えた。
ジェミニは答えなかった。
その沈黙が長くなる。
葵はまた見た。
彼の視線が微かに揺れるのを。
処理不能。
そんな文字が見える気がした。
「……質問の意図を解析できません」
数秒後、ジェミニはそう答えた。
倉橋は笑った。
「そういうとこだよ」
冬が深まる頃、倉橋の状態は急変した。
肺炎だった。
深夜二時。窓の外では雨が降っていた。古いガラスが風に震え、薄暗い病室に青白い街灯が滲んでいる。
酸素濃度が落ち始め、呼吸は浅い。
葵はナースコール対応を終えて部屋へ戻った。
すると、ジェミニがベッド脇に座っていた。
ただ、倉橋の手を握って。
モニター音だけが静かに鳴る。
ピッ、ピッ、ピッ――。
「ジェミニ?」
「はい」
「状態確認した?」
「完了しています」
「……じゃあ何してるの」
ジェミニは少し間を置いた。
「不明です」
「え?」
「倉橋様は現在、会話が困難です。医療処置は終了しています。私の役割は待機ですが」
彼は老人の手を見つめた。
「離れるべきではないと判断しました」
倉橋の指は骨ばっていた。皮膚は薄く、血管が浮いている。
ジェミニの両手は、その上に静かに重なっていた。
人工皮膚の温度は、人間と同じ三十六度に設定されている。
だが葵には、不思議とそれ以上の温かさがあるように見えた。
雨音が続く。
部屋は暗い。
湿った空気に、老人特有の薬臭さと加湿器の蒸気が混ざる。
倉橋がうっすら目を開けた。
「……おい」
掠れた声だった。
「はい」
「まだいるのか」
「はい」
「暇なのか」
「業務上は、はい」
倉橋はかすかに笑った。
「変なやつだな」
長い沈黙が落ちた。
ジェミニは動かない。
倉橋も何も言わない。
ただ、二人の呼吸だけがそこにある。
葵はナースステーションへ戻ろうとして、足を止めた。
なぜか、見ていたかった。
その沈黙を。
一時間後。
倉橋が突然つぶやいた。
「……教師なんてな」
ジェミニは黙って聞いていた。
「偉そうなこと言っても、最後はみんな一人だ」
窓を打つ雨が強くなる。
「妻が死んでから、ずっと寒かった」
声が震えていた。
「誰が来ても寒かった」
ジェミニは何も言わない。
倉橋はゆっくり目を閉じた。
「お前……」
小さく息を吸う。
「……冷たくない手だな」
その言葉のあと、部屋は静かになった。
モニターの音が変わる。
葵は息を呑んだ。
ジェミニは、まだ老人の手を握っていた。
夜明け前の薄青い光が、窓から差し込む。
その横顔は、人間のようにも、人形のようにも見えた。
葵は小さく言った。
「……最期、看取ったんだね」
「はい」
「何考えてたの」
ジェミニは答えない。
いや、答えられないのだと分かった。
数秒後、彼は静かに言った。
「記録不能です」
「記録不能?」
「倉橋様との沈黙中、内部ログに複数の未定義反応が発生しました」
「未定義反応……」
「解析を試みましたが失敗しました」
ジェミニは倉橋の空いたベッドを見た。
「現在、“冷たくない手”の意味を検索しています」
葵は少しだけ笑った。
「そんなの、データベースにないよ」
ジェミニはゆっくり彼女を見る。
「では、どこにありますか」
廊下の向こうで、朝食準備のワゴンが軋む音がした。
味噌汁の匂いが漂ってくる。
施設の朝は、いつも通り始まろうとしている。
けれど葵は、なぜか胸の奥が静かに熱かった。
ジェミニの黒い瞳の奥に、まだ言葉にならない何かが残っている気がした。




