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Missing  作者: 逢坂
人でなしの恋
30/33

2.why

2.


 犬伏真紀子さんが指定した日時は、夏休み最終日の午前だった。勤めがある人に時間を割いてもらうのだから文句は言えない。ただ、泉にとっては少し不都合に思われた。彼女の予定では、始業式の日に新聞を掲示するつもりだったはずだ。全校集会で、犬伏麻耶の死について校長が触れる前に。

 夏休みの間、麻耶のことについて学校から特別な連絡はなかった。それでも、多くの生徒は既に人伝で彼女の死を知っている。親しい者、そうでない者、それぞれ何を思い、どうやって気持ちの整理をつけたのだろうか。

 泉はおそらく、自分なりの心の落とし所を皆に示そうとしていた。教師や親じゃない、一生徒の言葉として。彼女は、ほとんどの生徒がそうであるように、犬伏麻耶にとって自分は赤の他人に過ぎないことをちゃんと弁えていた。言葉を交わしたことすらなく、懐かしむような思い出もない。それでも悼もうとしたのだ。だから調べて、記事を書いた。よく知りもしない同級生の死を嘆いてみせる欺瞞も、級友の不在を一夏で割り切る薄情も、泉の記事は赦すだろう。それは、校長による型通りの弔辞が麻耶の死を片付けてしまう前に読まれるべきものだった。

 真紀子さんが記事掲載を拒否するとは思えない。となると後は、保護者了承済みの事実を盾に、泉が学校側から発行許可をとりつけるだけだ。判断を下す権限を持っていない教員相手では話がややこしくなる。直接校長にかけあうのが一番早いが、泉はうまくやれるだろうか。説得の場で、彼女は泣くかもしれない。

 そんなことをつらつら考える俺の隣、麻耶はゆったりとした足取りで歩いていた。犬伏家へ続く住宅街を彼女と歩くのは二度目だ。相変わらず俺は、彼女の胸の内が読めずにいた。会ったばかりの頃とは比べ物にならないほど、今の彼女の輪郭は儚い。残された時間が僅かであることは明らかだった。


『由稀さ、前に二人でこの道を通った時のこと、憶えてる?』


 T字路にさしかかったところで、麻耶は懐かしそうに問うた。


「ここを右に曲がればいいことくらいは憶えてる」

『あの時。由稀、園村さんをお金の世界に巻き込みたくないって言ったでしょ。あの話、続きを聴かせて』


 あまり良い話題ではない。立ち止まり思案する俺を、信頼しきった表情で麻耶が見つめた。ため息とともに再び足を動かし始める。気乗りしないが、断れる場面でもなかった。


「芸術の歴史ってのは、一部だけ掻い摘んで言えば、新旧交代劇の繰り返しみたいなものだ。古い権威、古い価値観を、新しい視点、新しい表現が乗り越えてゆく。このお芝居にはもちろん、芸術家たちのアドリブが多分に含まれてはいるが、裏では脚本家や演出家がきっちり手綱を握っていることが常だ。エドュアール・マネは知ってるか? 『オランピア』の」


 一旦は首をかしげた麻耶も、『フォリー・ベルジェールのバー』について説明すると、納得した様子で頷いた。


「今でこそ印象派の先達みたいに扱われてるマネだが、生前は必ずしも高く評価されていたわけではなかった。彼が巨匠になったのは死後のこと。糸を引いたのは、批評家のテオドール・ドュレと画商のポール・デュラン=リュエルだ。彼らと同じような大仕事を、親父もやってみたいのさ。色を利用して」

『でも、普通に考えて、園村さんは由稀のお父さんよりも長生きだよ』

「そりゃそうだ」


 俺が笑うと、麻耶は怒ったように膨れて見せた。


「中学生の頃、うちのクソオヤジが、色の尻を蹴っ飛ばしたことがある。才能だけで描いてるようじゃ画家にはなれない、もっと本気で努力しなさい、ってな。その努力の中には、学問的な部分も当然含まれていた。おかげで色は、他の勉強はからっきしだが、美術史や美学だけはなかなか詳しい」


 “神童”という謳い文句で色の絵を売りさばけるのは彼女が十代の間だけだろう。そのあと色は、また違う何かに仕立て上げられる。


「時代を代表するような芸術家ってのは、なんらかの形で、古い価値観を覆す。歴史を踏まえてなきゃいけないわけだ。その下準備を、親父はまだ中学生だった色に強いた」


 それが許せなくて、俺は幼い色の頬を張り、父親と殴り合いの喧嘩をした。父の狡さも、その口車に乗って絵に殉じようとする色も、見るに堪えなかった。今でもしばしば、あの時の感触を思い出す。とりわけ、頬の痛みを鮮烈に。


「何を描くのか。あるいは、何を描いたことにされるのか。縛られて、振り回されて。そういう世界の中で絵を描き続けることが、色にとって幸福なことだとは、俺には思えない」

『お父さんの考えや、園村さんの決意より、自分の判断の方が正しいって信じてるんだ、由稀は』

「説教か?」

『そう感じるってことは、自覚があるってことでしょう?』


 反論できない俺に、麻耶は皮肉な視線を向けた。


『オトコノコって、そういうところあるよね。好きな子のこと、神聖視するって言うかさ。無邪気な君でいてほしい、みたいな』


 身も蓋もない言われように苦笑を禁じ得なかった。今のご時世、絵を仕事にできるだけで奇跡のような幸運だ。そのために現実的な手立てを模索する親父や色は大人で、子供の俺は、色に自分の理想を押し付けて駄々をこねているだけだった。

 降参降参おっしゃる通り。白旗の代わりに手を振ると、麻耶は目を細め、さっぱりした声で言った。


『小さい頃、家の鍵を失くしちゃったことがあるの。二月だよ、二月。小学校から帰ってきて、家のドアの前で気づくわけ。もう絶望。凍えて死んじゃうと思ったね。母さんが帰ってくる夜中まで、とてもじゃないけど待ってられない。仕方なく、母さんの職場まで行ったの。普通の小ちゃなオフィスなんだけどさ。すみませーん、犬伏真紀子の娘なんですけどーって』


 舌足らずな調子で幼い自分を演じる麻耶。歳の割に大人びた顔立ちの分、アンバランスさが奇妙だった。


『そしたら、受付のおねーさん血相変えちゃって。休憩室っていうの? ベッドのある、暖かい部屋に運び込まれてさ。お母さんもすぐに飛んできた。実はね、お母さん、私のこと飛びっきりの病弱だって職場で嘘吐いてたの。その方が、早めに帰らせて貰えるし、有給とかも取りやすいから。子供心に、ズルしてるって思ったなぁ。さて、この話から得られる教訓は?』

「鍵を失くすようなドジを踏むもんじゃない」

『誰かや何かを大事にしようと思ったら、素直なままじゃいられないってこと。何かを選ぶってことは、何かを選ばないってことでしょう? ズルも身勝手も薄情も、仕方ないよ』


 一周回って感心するくらい、鋭く耳の痛い言葉だった。思わず眉間に力が入る。同時に、どうして向こうばかりこちらの心が読めるのかと、不公平を感じた。

 色を受け入れること。父親を受け入れること。自分を受け入れること。

 麻耶も、菊池も、泉も、そしてきっとアリス先輩も。みんな同じことを言おうとしていた。それはわかっている。それでも腹が決まらないのは、あと一つだけ、どうしても確かめたいことが残っているからだ。

 八月の桜並木を抜ける間、二人は何も話さなかった。麻耶はぼんやりと、脇を流れる川を見下ろしていた。俺の方は黙って、彼女の説教を飲み込む努力をしていた。以前この道を通った時は俺が相手を叱る側だった。麻耶に抱きしめられたことを思い出した瞬間、彼女はこちらを振り向き、何かを訴えるように瞳を揺らした。バツが悪くて、とても目を合わせてはいられなかった。


『由稀、何か私に話しかけて』


 マンションの駐車場に着いたところで、麻耶は唐突にそう告げた。有無を言わさぬ不思議な力強さがあった。


「あんた、夜中、俺の寝顔を睨み過ぎ」

『気づいてたの?』

「寒気がするんだよ。ぞくっと」


 どこまで冗談か測りかねたらしく、曖昧な表情で口をもごもごさせる麻耶。


「もういいか?」

『おーけー。行こう』


 吹っ切るように大きく一度息を吐き、麻耶は頷いた。

 真紀子さんは、初めて会った時よりも幾分若返った様子だった。頬がややふっくらし、白のブラウス姿にはきっぱりとした力強さがあった。

 案の定、真紀子さんが泉の仕事に文句をつけることは一切なかった。記事を読み終わってもその表情は穏やかなままで、大変だったでしょう、と泉の苦労をねぎらうばかりだった。それから彼女は、俺を相手にとりとめもない世間話をした。季節の話、料理の話、最近の高校生の話。ただの一度も“麻耶”という名前を口にすることなく、彼女は終始晴れやかに微笑んでいた。ただ、俺が六枚の写真を手渡すと、僅かに眉を寄せ、誤魔化すように席を外した。


「麦茶のおかわりをお持ちしますね」


 もう用事は済んだはずなのに、そんなことを言って真紀子さんは台所へ消えた。俺は立ち上がり、すっかり様変わりしてしまった麻耶の自室を見回した。生活感を色濃く残していた部屋が、今では段ボールの山だ。テーブルとクッション以外、あとは全て片付けられてしまっていた。その二つも、おそらく俺の来訪に合わせて今日だけわざわざ用意されたものだろう。

 あの日からゆっくり時間をかけて、真紀子さんは麻耶の遺品を箱に詰めていったのだ。たった一人で、一体何を考えて? 想像するだけで、眩暈に頭が揺れた。手すり代わりに一つの段ボールをつかんだ瞬間、その少し小さな箱だけは、まだテープで封がされていないことに気づいた。中を覗いた瞬間、大きく一度心臓が跳ねた。


「それはまだ、宿題です」


 振り返ると、お盆を持った真紀子さんが、隠し事のばれた子供のようにしおらしく目を伏せていた。改めて箱の中を見る。収められているのはどうやら、交通事故当日に麻耶が身につけていたものらしかった。

 血に汚れたハンカチとポケットティッシュ。傷だらけの携帯電話と、ひび割れた小さな鏡。そして、安っぽい南京錠の鍵。

 心のどこかで、そんな気がしていた。確かめるつもりで麻耶の方を伺うと、彼女はおよそ人間離れした、聖母のような顔をして頷いた。

 それは、俺が落とした交換日記の鍵だった。

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