3.you go your way
3.
麻耶を死なせたのは俺だ。
虹を撮った日のことは、ぼんやりと憶えている。晴れているのに雨が降る不思議な天気で、気持ち悪いくらいくっきりと濃い虹がかかっていた。気付いたのは、交差点で信号を待っていた時のこと。すぐさまポケットからデジカメを取り出し、いい構図を探して走った。通り過ぎた交差点で、騒ぎが起きていることは知っていた。けれど、野次馬じみた真似が嫌いで、努めて意識しないようにしていた。
あの時、ポケットから交換日記の鍵が零れ落ちていて。それを拾った麻耶が、俺を追って事故に遭った。放っておけばよかったんだ、他人の落とし物くらい。見失うかもしれないと、わざわざ信号無視をしてまで追いかけるなんて。どうして、そこまで。
「あんた、お人好しすぎる」
すぐ後ろに真紀子さんがいるとわかっていて、それでも口にせずにはいられなかった。
『だって、鍵を失くしたら困るじゃない』
鍵っ子だったらわかるでしょ、と、麻耶は静かに応えた。
自分も、麻耶も、許せなかった。怒鳴り散らして、愚かな彼女を叱ってやりたかった。なのに、喉の奥が震えるばかりで。力を込めることも気持ちを伝えることもできなかった。
南京錠の鍵を譲って欲しいと、頼んだ俺を真紀子さんは拒まなかった。彼女がどう思ったかはわからない。気にする余裕もなかった。それからすぐにマンションを出た。たくさんのことを考えたはずなのに、その内容は何一つ頭の中に残らなかった。ただ、涙が止め処なく流れたことと、家に帰りつく頃にはそれもすっかり乾いてしまっていたことだけは確かだった。
自室に入るなり、凄まじい疲労感と抗いがたい睡魔に襲われ、ベッドに横たわった。寝ている間に夢を見た。居酒屋のような店のカウンターで、少し大人になった麻耶がめそめそ泣いていた。俺はなぜか、彼女は男に振られたものと確信して、そんなことで泣くなとからかった。うるさいな、と口を尖らせ、麻耶はビールジョッキを俺に押し付けた。それから二人して、だらだらと喋りながら酒を飲んだ。麻耶は失恋についてとか、親への不満とか、女友達に関する愚痴とか、ありふれたことを飽きずに語った。そうこうしているうちに酒が回り、夢の中で酔い潰れると同時に、現実の方で目が覚めた。
時刻はすでに夜中だった。麻耶はベッドの隅で膝を抱え、俺のことを見下ろしていた。声をかけようとしたけれど、うまく言葉が出てこなかった。今にも消えてしまいそうな少女の姿に、泣きながら管を巻く誰かの残像が重なって揺らいだ。窓から差し込む白い光が、薄らとした彼女の輪郭を淡く照らしていた。
「俺を、取り殺すか?」
最後の未練として、そう望まれても仕方ない。麻耶が俺に取り憑いたのは、俺を追う最中事故にあったからだ。
『馬鹿言わないで。背中を押されたわけじゃないの。自分で選んで、追いかけたんだから』
きっぱりと、言い含めるように告げる麻耶。
『自分を責めたり、責任感じて落ち込んだりしたら、それこそ呪い殺すからね』
いっそそうして欲しかったが、油断すると夜へ溶けてゆきそうな麻耶に向かって、望まぬ言葉をかける気にはなれなかった。
明かりをつけ、改めて麻耶を見る。彼女は真っ直ぐデスクを指差した。椅子に座り、交換日記へ手を伸ばしながら、これが別れになるかもしれないと怯えまじりに覚悟した。
色が書いてよこした一番新しい日記の内容は、懐かしくも、どこか今更な話だった。中学時代のあの夏の日は、今でもちゃんと憶えている。画家になるから待っていて欲しいと、やけに晴れやかな表情で胸を張った色。忘れるはずはないし、つい半日前に、当時のことについて説教を食らったばかりだった。
顔を上げると、ベッドの上にはまだ、行儀よく座る麻耶の姿があった。
「いつから気付いてたんだ」
『泉さんと、警察署に行った時』
最初から、と言われないだけ幾分救いがあった。
「消えるのか」
『どうしようかな』
首をかしげ、はぐらかすように微笑む麻耶。
『ちゃんと読んだ? 園村さんの言葉』
「ああ」
『由稀はどうするの?』
何も答えない俺に、彼女は失望の色を隠さなかった。自分が命をかけて届けたメッセージが、ろくに相手を動かさなかったのだから当然だ。皮肉な話、もし麻耶に出会っていなければ、色の綴った日記は俺たちの関係を変えるきっかけになっていただろう。
呆れた様子で肩をすくめたあと、麻耶は切り替えるように問うた。
『由稀。一つだけ、お願いしていい?』
「俺にできることなら」
『また夜の美術室に忍び込みたいの』
「どうして?」
『あれは結構、いい感じだったから』
そう言って麻耶は、エスコートを乞う貴婦人のようにたおやかな仕草で右手を差し出した。
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文化祭が近いこともあり、校内にはまだ生徒の気配があった。幸い、美術室には誰もいなかった。許可も取らずに入った手前、蛍光灯をつけることは憚られた。それでも十分、窓から差す月明かりが部屋を満たしていた。窓辺のイーゼルには完成した菊池と色の絵があった。“鬼気迫る”などと泉が言うものだから、どんな凄まじいことになったのかと思っていたが。色の『八月』は、もともと暖色中心だった画面に青を一筋加える形で全体がまとめあげられていた。ただ、よくよく見てみると、絵の具の厚さに迷いの跡がうかがわれた。
『この絵って、これで完成なの?』
俺の真似をして矯めつ眇めつ絵に顔を寄せる麻耶。
「多分、そうなんじゃないか?」
色がパーティション奥にある自分のスペースから絵を移しているということは、ひとまずこれ以上筆を加えるつもりはないということだ。
『私、昔から気になってたんだけど。絵って、どこで描くのをやめたらいいの? ゴールテープも無いし、終わりが見えなくない?』
「一番綺麗だと思ったところで、やめる」
『そっか。そうだよね』
呟いた瞬間、麻耶の輪郭が月の光に滲んだ気がして、俺は息を飲んだ。何も言えなかった。菊池でも、真紀子さんでもなく、ただ彼女の命を奪っただけの俺が。その身を引き止めるための台詞なんて、吐けるはずもなかった。
『それで、これって、どういう絵なの?』
背筋を伸ばし、細い顎に手を添え、麻耶が尋ねる。
「そうだな……。いや、すまん。上手く説明できない」
そもそも、なんでもかんでも言葉で伝えられるなら抽象画なんてこの世に生まれていない。
『でも、由稀にはわかるの?』
「まあ、それなりには」
『いいね、そういうの。言葉にできないようなことが、ちゃんと由稀には届いてるんだ』
そこまでロマンチックな話じゃないと、否定しそうになってやめた。本当に言いたい言葉を口にだす意気地もないくせに、余計なことばかり喋るのは虚しい。
麻耶はイーゼルの脇を抜け、窓の方に歩み寄ると、サッシに背を預けるようにして体をこちらに向けた。しばらく自分の両手を見つめ、やがてどこか心細そうな表情で顔を上げる。彼女はほとんど透明に近い手のひらを突き出し、何度か揺らして見せた。俺が首を横に振ると、傷ついたように弱々しく眉を寄せた。
『ね、由稀、お願いがあるの』
「一つだけじゃなかったのか?」
『私が消えたら。ちゃんと、園村さんの気持ちを受け止めてあげてね』
此の期に及んでまだそんなことを言うのかと、心の底から腹が立った。遺してしまった恋人を案じ、母親を案じ、最期は、自分を死なせた男の恋路まで案じるのか。そんなことを、あんたに望んだわけじゃない。奪うばかりで、貰うばかりで。そんなの、我慢できない。
「麻耶、あんたなぁ」
『真面目な話! 凄くすごーく真面目な話です、これは』
痛々しいくらい明るい声で、麻耶は俺の言葉を遮った。
『おねーさんは心配だよ。由稀ってば、口は悪いくせに妙に遠慮しぃでさ。難しいことばっかり考えて、自分の気持ちはないがしろで。そんなんじゃ、目の前の幸福を逃しちゃうと思うわけ。ここはビシッと、誰かが叱ってあげなくちゃね』
「あんたが消えるまでは、今のままでいいのか?」
『それは』
言葉に詰まった麻耶は、目を伏せ、何かを振り払うように髪をかきあげた。金砂が舞うような幻想的な光景だった。
『由稀、私ね、最近よく考えるの。私の愛している人や、私のことを愛してくれる人に、自分の人生をぽいっと丸ごと預けてしまえば良かったなって』
ぽいっと、のところで踊るように一歩踏み出し、麻耶はゆっくりこちらに歩み寄ってきた。
『園村さんは凄いね。私が今頃ようやくわかったこと、もう、とっくの昔に答えを出してるんだと思う。いっぱい悩んだんだ、きっと、由稀のことを考えて』
俺の胸に手を当て、そのままふわりと額を寄せる。
『ねぇ、いい加減に観念したらどう?』
それは初めて言葉を交わした日、麻耶が俺に告げた台詞だった。何なんだこの別れは。一体何だったんだ、二人の出会いは。
両手を強く握りしめ、応える。
「俺は、あいつが信じてくれているほど立派な人間じゃない。ただ無精で、不誠実な、人でなしだ」
『誠実不誠実に関しては、私もあんまり強く人のこと言えないけど』
菊池の絵を脇目に苦笑する麻耶。
『由稀、私はもう消えるよ』
「憶えてる。あんたみたいな相手、忘れようがない」
『それも消えるの、全部』
曰く、麻耶が消えれば、幽霊としての麻耶と接した日々の記憶まで一緒に消えてしまうのだという。
『だから本当は、私が今、どんなに頼んだって意味ないんだけど。それでもお願い。最期のお願い』
「……わかった。約束する」
他にどんな手向けが選べただろうか。何かに抗わなくてはならない。そう思って、強く頷いた。麻耶は僅かに身を離すと、安心したように深く息を吐いた。
『ねぇ、由稀。私、死んで良かったかもしれない』
嘘みたいに軽やかな笑顔で、彼女は俺を見上げた。
「馬鹿なことを言うな」
『馬鹿で結構。もう、わかってる? 由稀を大好きになっちゃったってことよ!』
その瞬間、彼女は紛れもなくただの女子高生だった。頬の色も、何もかも。細く美しい足が小さく動き、二人の距離を限りなくゼロに近づける。
「出会えて良かった。由稀で、良かった」
告げる彼女の瞳は濡れていた。そのことに気づいた途端、肩の力が一気に抜けた。同時に、胸を掻き毟るもどかしさの正体が生まれて初めてはっきりわかった。幼い頃からずっと疑問だった、怒りにも似た力強い感情。
泣かないで欲しい。苦しまないで欲しい。他の誰でもなく、自分自身のために生きて欲しい。望むものを掴んで、大事に抱えて、欲張って。幸福だと、曇りなく笑う顔が見たい。
「好きよ、大好き。どうか、幸せに」
「待て。まだ消えるな。俺は、あんたが」
続く言葉は声にならなかった。麻耶の唇が俺の口を塞いだからだ。反射的に閉じてしまった瞳を開くと、そこにはもう、麻耶の姿はなかった。




