1.naturally ours
1.
文化祭前日の午後。校内の喧騒はピークに達していた。体育館やグラウンドからは、ひび割れた楽器音やノイズ混じりのダンスミュージックが絶え間なく響いてくる。段ボールやベニヤ板を抱えて駆け回る生徒もいれば、コスプレ姿のビラ配りや、メガホン片手のサンドイッチマンが宣伝に勤しむ姿も目立った。
食堂前の自動販売機でコーラを買った俺は、美術室のある北棟へ続く渡り廊下で見知った顔に出会した。
「あ、竹中君。ちょうどよかった」
久しぶりに声をかけてきた三上加奈子は、真っ赤なチャイナドレス姿で、紙の束を脇に抱えていた。
「これ、貰ってよ。模擬店のチラシ。配る数にノルマがあって、参ってるの」
一年以上会話のない相手に何の用かと思えば。ドレスはレンタル物のフリーサイズらしく、背の高い三上は踝の辺りまで足を露出していた。廊下を行き交う人たちが、例外なく彼女を一瞥してから通り過ぎてゆく。ビラなんか配らなくても、お前が歩いてるだけで広告塔としては十分なんじゃないか。そんなセリフを飲み込んで、尋ねる。
「ソフトテニス部はなにをやるんだ?」
「チャイニーズカフェ」
三上はスリットから片足をビシッと伸ばし、胸を張って見せた。
「風俗店の隠語か?」
遠慮のない力強さで俺の背中を叩くと、三上はくすくす笑った。
「ばっか! 飲茶を振る舞うの。中国茶、美容に良いらしいよ」
「男に美容云々を言われてもな」
「まぁまぁそう言わず。昔のよしみで、ご贔屓にお願いね。じゃ、色ちゃんにもよろしく!」
ひらひら手を振りながら別れを告げ、三上は食堂の方に歩いて行った。背筋のすっと伸びた彼女の後ろ姿と入れ替わりに、大量のイーゼルを担いだ菊池がふらふらした足取りでこちらにやってきた。
「今の女子、お知り合いですか?」
「まぁな。小学校の頃からの、色の友達だ」
「目のやり場に困る人でしたね」
「お前は本当に歳上趣味だな」
「茶化さないでくださいよ」
菊池は口を斜めにして、持っていたイーゼルの半分を俺に押し付けた。
「こんなに沢山のイーゼル、一体何に使うんだ?」
野郎二人して、美術室への階段をのぼる。息の上がった菊池は、少し後方から、途切れ途切れに答えた。
「“その他大勢”の、作品が。案外、多くて」
菊池と色以外の部員の展示作品が、思ったより多かったということらしい。随分悪意のある口ぶりだった。菊池からすれば、美術室に顔も出さないで楽しくやっている奴らが、まともに絵を描いているとは思えなかったのだろう。
「不満ありげだな」
「僕は、いいです。でも、園村さんは可哀想ですよ。余計なものまで、背負わされてる感じが、します」
俺に対しては不遜な菊池も、色への敬意は本物だった。“その他大勢”の中には、現部長を含む三年生も多い。分裂の原因はもちろん色だ。入部してからこのかた、心労が絶えなかったのは事実に違いない。
「伝統芸能やってる連中にとっては、賭博や不倫すら“芸の肥やし”らしいぞ。あいつが今、感じていることが、いつか何かの形で痛切な作品を生むかもしれない」
「竹中さん。それ、自己弁護って、言うんじゃないですか」
「お前には感謝してるよ」
「そうやってすぐ、聞き分けのいい振りをして」
ようやく階段をのぼり終え、吐き出すように菊池は言った。無視して美術室のドアを開ける。部屋の中には誰もいなかった。机と入れ替わりに運び込まれたプレートには、写真部の作品が飾られている。
「仕事が早いな。うちの部の連中は、もう引き上げたのか?」
「ええ、そそくさと。なんだか居心地悪そうにしてましたよ。あとのことは全部、竹中さんに任すそうです」
写真部の部員は俺以外皆勤勉で、日々熱心に活動していたが、誇れるような受賞歴は誰も持っていない。全校集会の度に表彰される美術部に対して、卑屈な気持ちもあるのだろう。
「自分の作品はちゃんと展示してから帰ったんですから。皆さん、うちの部員よりはご立派ですよ」
イーゼルを並べ終わった菊池は、文句を垂れながらパーティションの奥に消えた。自分の持っていたイーゼルを適当に立ててから、俺は窓際の椅子に陣取り、コーラを開けた。グラウンドでは、何人かの生徒がフォークダンスを踊っていた。文化祭の実行委員が、明日の段取りを確かめているらしい。
「デ・キリコ、カンディンスキー、ポロック、ロスコ。そっちは、ブラックか」
「なんですか?」
奥から出してきた“その他大勢”の絵をイーゼルにかけていた菊池は、指差して呟く俺を訝しげに見つめた。
「真似してる画家だよ。随分、奇を衒うのが好きな連中だな」
「誤魔化しですよ。浅い知識をこねくり回して」
「知識は大事だ。色だって、ああ見えてちゃんと勉強してる」
にわかに真面目な顔になった菊池は、並んだ絵を見回して首をひねった。情熱に素直なところは美点だ。
「ところで、色は今日来ないのか?」
「園村さんなら、この数日お休みです。知恵熱、は違うか。とにかく、作品を仕上げた途端、ぱたっと倒れてしまって。ここしばらくは、お宅で療養中です。熱もかなり出たそうですよ」
「燃え尽きたのか。よくあることだ」
「お見舞いにゆかれますか?」
試すような声に、肩をすくめて返した。
「生憎、お前や泉ほど肝が太くなくてな」
「腹は据わってるように見受けますが」
「そういう生意気な物言いを、肝が太いと言ってるんだ俺は」
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夕方。結局俺は、園村家を訪ねることにした。菊池の挑発に乗るのは癪だったが、ちょうどよい機会であることは事実だった。記憶を辿り、お土産として近くの和菓子店で苺大福を買った。呼び鈴を押すとき、僅かに指が躊躇った。
「あら、由稀君! いらっしゃい。久しぶりねぇ」
緊張を吹き飛ばすような明るさで、春香さんは俺を迎えてくれた。昔と変わらない笑顔に安心し、頭をさげる。
「ご無沙汰しております。色のお加減は、どうですか」
「わざわざお見舞いに来てくれたの? やだ、たった今、薬飲んで寝ちゃったのよ。中々熱が下がらなくってねぇ。どうする? 由稀君なら、こっそり寝顔を見ていっても、あの子怒らないと思うけど」
言われて俺は、寝顔を見られた色がどんな反応を示すか想像してみた。恥じらう姿を期待するのは甘い。かといって、無反応というもの妙だ。少なくとも最初は怒ってみせるだろう。そこまで考えたところで、春香さんがニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべていることに気づいた。頭を掻き、首を横に振る。
「いえ。そういうことなら、今日はもう失礼します。突然すみませんでした。これ、食欲が出てきたら、食べさせてやってください」
土産を差し出す手を掴み、軽やかな力強さで、春香さんは俺を家の中に引っ張り込んだ。
「せっかく来てくれたのに、なーに寂しいこと言ってるの。今日、秋仁さんお仕事お休みの日だから、顔を見せてあげて。きっと喜ぶわよぅ」
気がつくと俺は、二階の書斎で秋仁さんとケーキの皿をつついていた。店の方で急用ができたとのことで、春香さんは男二人を残していなくなってしまった。俺も秋仁さんも、簡単な挨拶を交わしてからしばらく、言葉が出てこなかった。それはどこか懐かしい沈黙だった。秋仁さんは穏やかな目でこちらを見つめていた。
「美味しいです。少し、以前と味が変わりましたね」
ようやく口から出てきたのは、他愛ない、フルーツタルトへの感想だった。オペラを口へ運ぶ途中だった手を止めて、首をかしげる秋仁さん。
「そんなはずはないと思う。他のケーキは、流行に合わせて、色々レシピを変えてるみたいなんだけどね。この二つは、君が好きだったからといって、ずっと昔のままだ。果物だから、日によって微妙に差が出るのかな」
「昔は、もっと苦いものだと思っていました」
タルトの上っ面をフォークで弄ぶ俺に、秋仁さんは一層首をかしげた。
「オレンジピールかい? 君は小さい頃から、平気な顔して食べていたように記憶しているけれど」
「色の手前、見栄を張っていたので」
正直に打ち明けると、秋仁さんは破顔し、びっくりするくらい大きな笑い声をあげた。
「その秘密は、お互い墓まで持っていった方がいいね。真実が知れたら、可愛い娘をがっかりさせる」
余程ツボに入ったらしく、口を閉じてからも、愉快そうに小さく息を漏らしていた。だんだん頬が熱くなってゆくことを自覚した。それに気づいた秋仁さんが、真摯な表情を作り、居住まいを正す。
「いや、申し訳ない。お詫びに一つ、僕も秘密を話そう。……春香さんと結婚した時、僕はまだ美大の学生だった。当然周囲は反対したし、僕自身も、なかなか踏ん切りがつかなかった。社会的な面、金銭的な面、考えるべきことは色々あったけれど、最後まで頭を悩ませたのは、二つの問題だった。自分は彼女の夫にふさわしい大人になれるだろうか、そして、彼女はその時まで、僕を愛しているだろうか」
「……甲斐性の問題ですね」
いつか菊池に言われた言葉を思い出し、俺は呟いていた。一番尊敬している秋仁さん相手に、よりによって最近抜群に無礼な後輩の台詞を借用してしまったのは、なんとも間の悪いことだった。幸い、秋仁さんは菊池流の相槌に満足したらしく、深く頷いて続けた。
「そう。全部大丈夫だと胸を張って彼女の手を取れたなら、さぞ格好がついたに違いない。でも、そんな男の見栄のために、愛する女性の人生を、気安くどうこうできるものだろうか」
この話は一体何年前から用意されていたのだろうかと、俺は考えた。もっと早く聴きに来ていれば、まだ答えの出ていない俺にも、秋仁さんは優しく語ってくれたのだろうか。
「結局僕は、母が背中を押してくれるまで、決断を下すことができなかった」
その迷いも決心も正しかったことは、よく知っている。区切りをつけるようにため息をつき、秋仁さんが問うた。
「男同士の秘密にしてもらえるかい? 特に、娘には」
ただでさえ威厳のない父親だからねと、微笑む姿に頷いて応えた。
「実は、最近また、絵を描き始めたんです。少しずつですが」
秘密を共有する男同士の気安さで告げると、秋仁さんは、嬉しそうに目を細めて言った。
「それはいい。色が喜んだろう?」
「いえ。彼女には、まだなにも。いつかまた、おじさんにお見せできるようなものが描ければよいのですが」
「楽しみだよ。しかし、そうか。由稀君が、また。……何かきっかけがあったのなら、聴かせてもらえるだろうか」
「色々あったんですが。上手く、言葉にできません」
できたとしても、信じてはもらえないだろう。結局それは、俺が一人で抱え込んで、大事にするなり粗末にするなり選んで生きてゆかなければならないことだった。この夏、俺は幽霊に取り憑かれた。そしてたった一つの喪失と引き換えに、今まで先送りにしてきた問題や悩みにようやく答えを出すことができた。それを喜ぶべきか、悲しむべきかは、考えるのが面倒で未だに決めかねているところだった。
第4章「人でなしの恋」




