4.she knows why
4.
警察署を出ると、由稀は「少し海を見ていかないか」と泉さんを誘った。警察署や市役所の並ぶ駅前から五分ほど歩くと、県立美術館まで続く海沿いの遊歩道へ出る。
「竹中さんとか、菊池君とか、芸術系の男の人って、そーゆークサイことをさらっと言うから怖いです」
泉さんは苦笑しながらも、申し出を断りはしなかった。お昼前の遊歩道には、犬の散歩をしているお年寄りや、ジョギングに勤しむおばさん、散歩を楽しむ若いカップルなんかの姿があった。自分から誘っておきながら、ぼんやり海を眺めるばかりで由稀は何もしゃべらなかった。しばらく一緒に黙って歩いていた泉さんが、やがて堪え兼ねたように口を開く。
「こんなデートみたいなことしとると、なんか園村さんに悪いですねぇ」
なかなか鋭いジャブだと思われたけれど、由稀は無反応だった。拍子抜けした様子で肩を落とし、再び言葉を探す泉さん。
「えーっと、そうそう。文化祭の準備は、進んどりますか? なんやったら、一眼レフ、日頃のお礼にお貸ししますけど」
「いい。昔撮り溜めた分で、適当に済ませる」
反応が返ってきたことに安心したらしく、泉さんは明るい、からかうような声で言った。
「せっかくの文化祭やのに、そんないい加減な感じでえぇんですか? 園村さんとか、最近凄まじいですよ」
「凄まじい?」
眉を寄せる由稀に、泉さんは芝居がかった重々しさで頷いてみせる。
「はい。鬼気迫るって言うか、気持ち込もってるって言うか、あぁ、竹中さんとなんかあったんやろな、って言うか」
「別に、何も無いさ」
「無いなら無いで、そこが問題なんちゃいますか?」
これもまた鋭い。けれど由稀は、肩をすくめながら苦い微笑を浮かべるばかりだった。
「そうかもな」
一呼吸おいてから由稀が口にしたのは、まるで他人事のような、さらりとした肯定だった。小さく首をかしげ、嘆息まじりに泉さんが言う。
「竹中さん、なんか感じ変わりましたね」
「あ?」
「いや、その。前までは、園村さんのこと、あんまり突っ込まれると、煩わしそうにしとったじゃないですか。勘弁してくれって、顔にはっきり書いてました。でも、今はなんか、余裕ありますね」
喜ばしい、とでも言いたげに、無邪気な笑みの泉さん。由稀はわざとらしいため息のあと、キッと厳しい顔を作り、低く唸った。
「うちの新聞部は、生徒の色恋沙汰まで記事にするのか?」
「わぁ、お船だぁ、すごぉい!」
驚くほど適当なセリフで強引にその場を誤魔化すと、泉さんは半円状に突き出た欄干の方へ駆けていった。由稀もゆったりと後を追う。水面には、四角いコンテナを山積みにした貨物船の姿があった。
「随分ゆっくり進むもんだな」
「側から見るより、案外速いもんですよ」
律儀に船を目で追う由稀に、のんびり返す泉さん。彼女は欄干から身を乗り出し、腕だけで小さな体を支え、脚をぷらぷらさせていた。
「夏の海って、なんかキラキラしとって気持ちええですよね。四国の故郷、思い出します」
泉さんがつぶやいた瞬間、私は、由稀は私に海を見せようとしたのかもしれないと、自惚れたことを考えた。由稀が以前見せてくれた作品の中には、確か海浜公園で撮ったという海の写真があった。由稀なら、そういう格好つけたサービス精神があってもおかしくない。
そっか、キラキラしてるのか。思った端から諦めていった。今の私の瞳には、もう、そんな綺麗な風景は映らない。代わりに泉さんが喜んでくれていることが、せめてもの救いだった。
また、しばらくの間沈黙が続いた。今度は泉さんの方が、望んで静寂を保っている様子だった。
「犬伏麻耶さんのこと、気になるんですか? 竹中さん」
不意に投げかけられた問いは、多分、警察署での由稀の言動に触れてのことだった。やっぱりこれも鋭かったけれど、由稀は驚いた風もなく、先を促すように泉さんを流し見た。
「当たり前、ですよね。同じ学校なんて、身近なところで、人が一人死んで。親御さんが、たくさんたくさん涙を流されたことも知ってて。それで、気にならないなんて、嘘やと思うんです」
泉さんは欄干から手を離して軽やかに着地すると、どこか救われたような、穏やかな笑みを浮かべて、傍らの由稀を見上げた。
「よかった。竹中さんも同じで。私、本当は、自分でも不安やったんです。こんなん、単なる野次馬根性なんちゃうやろかって。亡くなった人のこと嗅ぎ回って、新聞にまとめて。ひょっとしてそれ、ただ楽しいからやってるだけなんちゃうのん? って」
きっと彼女は、この話がしたくて由稀の誘いを受けたのだろう。あいつなりの誠意は俺が保証する、と、康浩に断言した声を思い出す。彼の信頼は正しかった。
「竹中さん。これ、預かってもらえませんか」
泉さんが取り出したのは小さなUSBメモリだった。
「そん中に、完成した新聞の原稿が入っとります。犬伏さんの記事。あとは、保護者の方のところに持って行って、最終確認をお願いするだけです」
「俺はただの写真部だぞ」
「ご指名なんです、先方の。無理にとは言いませんけど、考えてみてください」
受け取ったUSBを確かめるように握りしめた後、由稀は再び海の方を見遣った。いつの間にか、貨物船はすっかり通り過ぎてしまっていた。
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事故の日のことついて思い出そうとすると、頭に不思議な靄がかかった。そのせいでずっと、自分の抱える最後の未練が何なのか、よくわからなかった。記憶はせいぜい、朝、家を出るところまで。高校卒業後の進路について、少し揉めてしまって。涙を浮かべる母を残し、逃げるように学校へ向かった。
悲しまないで欲しいと、願い続けてきたはずなのに。結局は、酷く親不孝な娘だった。独りになって、母はたくさん泣いただろう。由稀と尋ねた時も、随分泣かせてしまった。せめて、あれが最後であればいい。これっきり、私のことは吹っ切って。私ではない誰かと、新しい幸せを見つけて欲しい。
精一杯、上手にお別れを済ませたはずだった。けれど、どれだけ強く念じても、母との思い出を捨て去ることはできなかった。康浩に悪いな、なんて思いながら、それがまだ、自分が人であることの証に思えて。もどかしくも、愛おしく感じた。
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夜、自室のパソコンで泉さんの新聞をプリントアウトすると、由稀はそれを何分もかけてゆっくりと読んだ。やがて顔を上げた彼は、「麻耶も読むか?」と問うた。私は首を横に振って応える。由稀は少し間を置いてから「あんた、三つ目の未練は、まだ思い出せないんだな」と、念を押すように言った。少し悩んで、再び首を横に振った。すると彼は、喋りづらそうに視線を逸らしながら、独り言のように呟いた。
「麻耶を見てると、自分の反抗期根性が、幼稚で情けなくなる。親に向かって、好きだとか感謝してるだとか。俺にはまだ、思えそうにない」
『ご両親のこと、嫌い?』
「そのつもりだった。が、どうなんだろうな」
座っていたデスクチェアをくるりと回し、自分の部屋を見渡す由稀。
「金儲けのために阿漕な真似をするところを何度も見た。ついこの前まで親しくしていた人たちを、騙したり、見捨てたり。憎まれてる相手を挙げていったら、俺が知ってる分だけでも、両手の指じゃ足りない。でも、騙された客にしろ、見捨てられた画家にしろ、自己責任だと言われてしまえば、それも道理だ。何より、俺は、あの人たちが稼いでくれた金で、自由にさせてもらってる。甲斐性って意味では、尊敬するべきなんだろう。なのに、口を開けばクソオヤジ、だ」
『寂しかった?』
「それだけは、否定したいところだな」
額に手を当て、自嘲気味に笑う。次の話題がなんとなく察せられて、私は身構えた。重い話を振る時は、まず自分から打ち明けて、バランスをとる。それは、由稀なりの不器用な作法だった。
「麻耶が嫌でなければ、泉の頼みを引き受けようと思う」
翳した手が邪魔で、由稀の目元は見えなかった。けれど、表情なんか伺えなくても、彼の考えはわかる。私に残された時間を、なるべく有意義なものにしようとしてくれているんだ。最後の未練が定かでないなら、せめて少しでも長く、母のそばで過ごせばいいと。
「別れは別れとして、あんたが決めた形を、大事にすればいい。それでも」
『ごめん。今回は、やめとこ。泉さんには悪いけど』
もしこれが、今日、警察署に行く前のやりとりだったならば。私はきっと、由稀に甘えて、再び母に会うことを望んだだろう。そういう、未だ断ち切り難い気持ちを、多分彼は見抜いていた。
「どうして?」
『どうしても』
「あんたが本気で、もう母親に会いたくないって思ってるんなら。泉に断りを入れるくらい、何の問題もない。でも、母親や俺に、何か遠慮しているんだとしたら」
続く言葉が上手く見つからなかったらしく、由稀は唇を噛み、私を睨んだ。その鋭い視線を受け止めながら、私は、彼はどうして私にここまでしてくれるのだろうかと、むずかゆい疑問を抱いた。
幽霊になる前は、どんな最期が正しいかなんて考えたこともなかった。寿命を意識するような年頃じゃなかったし、事故や災害に巻き込まれてしまえば、遺言を残す暇もないのだから。なるようになるしかないと、最初から諦めていた。
自分の終わり方を選べる。降って湧いたこの幸運を、迷うことなく上手に活用できる人が、はたしてどれだけいるだろうか。由稀は、私の態度が利他的だって、いつも腹を立てるけれど。私にはもう、喜びを抱えて歩けるような未来は残されていない。生きている、大切な人たちの幸福を願う以外に、どんな望みを選べただろう。
『いいの、いいの。もう十分』
宥めるつもりで、由稀の頬に手を伸ばした。彼は身を引き、半ば透き通った私の指先を、どこか怯えすら含んだ目で見つめた。
「中学の頃、美術部に、怖いくらい大人びた先輩がいたんだ。面倒見がいい人で、俺も色も、随分世話になった。美人で、人格者で、浮世離れしたところはあったが。それでも、遠い人だとは思わなかった」
そこまで言って、由稀はそっと、自分の手を私のそれに重ねた。すり抜けることがないように、丁寧に丁寧に。
「同じ歳上でも、あんたは時々、酷く遠い存在に感じる時がある。それが凄く、むかつく。腹が立つ」
不意に私は、この人は将来、どんな大人になるのだろうかと考えた。辛い時、悲しい時、どうやってそれを乗り越えてゆくのだろう。どんな風に泣いて、どんな風に笑って。
一緒にいたかった。そう、強く思う。
「一度しか言わないぞ」と前置きして、由稀は告げた。
「俺は、あんたに、優しくしたいんだ」
その瞬間、私は、自ら進んで手放した色彩を心の底から惜しんだ。逃げるようにうつむく彼の、頬や耳の色が知りたかった。
『神様は、きっと、すんごく優しい』
「はぁ?」
思わず漏らした私の言葉に、由稀は眉をひそめた。けれど、小さく一度ため息を吐いたっきり、それ以上の追求はなかった。由稀自身、恥ずかしくて早く会話を切り上げたかったのだろう。
こんな風にして終わるなんて、知らなかった。人は。こんなにも優しく、幸福に、引き剥がされて、生きていた頃の日々から心を遠ざけてゆくだなんて。
『わかった。行こっか』
その先で多分、決定的な事実が二人を待っている。でも、だからなんだっていうのだろう。私は今確かに、由稀に恋をしている。
たとえ、私の死が、彼のせいだとしても。
第三章「境界線にて」終
第三章終了。
次章「人でなしの恋」が、最終章になります。




