3.my gift to you
3.
母子家庭の一人娘としては、男の子がキッチンに立っている姿は何度見ても新鮮だった。由稀は眠たい目をして、ベーコンがカリカリになるのを待っている。テーブルの上には、一足先に焼き上がった六枚切りの薄っぺらいトーストと、皮の剥かれていない林檎が一個。几帳面なことに、彼は自分が作るとき、いつもまったく同じメニューの朝食を採っていた。本人曰く、献立を考えるのが煩わしいのだそうで。包丁が一切使われていなかったりして、洗い物を減らす工夫もなかなか洗練されている。ベーコンエッグが出来上がると、由稀はテーブルに鍋敷きを置き、フライパンをその上に乗せた。
「そう言えば」
冷蔵庫のドアを開きながら、思い出したように呟く由稀。
「あんた、一体なんで、目玉焼きにマヨネーズなんてかけるようになったんだ」
今となっては懐かしい、由稀と初めて言葉を交わした日の話題だった。
『だって美味しいじゃない。由稀も同じでしょ?』
「うちは親の教育が悪かっただけだ」
取り出してきたマヨネーズをベーコンエッグにかけてから、また冷蔵庫に戻すまでの間、由稀は短く昔話をした。まだ由稀が幼かった頃、食事はお父さんが作ってくれていたのだという。家計が苦しかったこともあり、メニューはいつも、いかに安価でエネルギーを得るかを追求した物ばかり。マヨネーズエッグも、そうやって開発された料理の一つらしい。
「親父は筋金入りだからな。おかげでこっちまで貧乏舌」
べ、と小さく舌を出して、顔をしかめてみせる由稀。柄にもなく子供染みた仕草に、自然と頬が緩む。
『お母さんは料理をしなかったの?』
「あの人にそんな生活力はない」
父親について語るときよりは幾分穏やかな表情で、由稀は首を横に振った。
「親父に文句を言うのが、あの人の仕事だよ」
『喧嘩にならないの?』
「さあ。本人達は、そういう関係が好きで一緒になったんだろ」
我関せず、といった風に肩をすくめる。曰く、お嬢様育ちのお母さんは、家事も商売も出来ないけれど、お金持ちに高い買い物をさせることと、人を叱ることだけは、他の誰よりも上手いのだそうで。思春期の息子から「叱るのが上手い」なんて評されるあたり、なんだかんだ言って立派な人物なのだろう。
「麻耶の方はどうなんだ」
『うち?』
一瞬何を問われたのかわからなくて、自分の母のことを考えた。料理が上手で、優しくて、でも、娘を叱るのはあんまり得意じゃなかった。そんな言葉が喉まで出かかったところで、朝食の話をしていたことを思い出す。
『うちは、物心ついたときから私が朝食当番でね。だから、目玉焼きにマヨネーズをかけるのも、私の発案』
遠足や運動会のときの、ちょっと豪華なお弁当が好きだった。日頃質素な暮らしをしていた分、なおさら。そうは言っても、高級な何かが入っていたわけじゃない。一番の好物は、ふわふわのタマゴサンド。特別な材料なんて全然使っていない、ただ、ちょっと手間をかけただけのサンドイッチが、私は大好きだった。
パンと卵さえあれば自分でも毎朝同じ物が作れることは、幼心にわかっていた。でも、特別な物は特別な日にとっておきたかった。せめて、似た味の料理を手軽に楽しめないかと考え出したのが、ただの目玉焼きにマヨネーズをかけて食べる、という一工夫だった。感心したのやら呆れたのやら、「よく考えたね」と、母は笑っていた。その笑顔がくすぐったくて、私は飽きもせず、目玉焼きにはいつもマヨネーズをかけるようになった。
「あんたは昔からそうなんだな」
なぜか不貞腐れたような顔をして、それっきり、由稀は無言で食事に集中した。下手に声をかけたって邪険にされるのはわかり切っていたから、私も黙っていることにした。
考えてみれば、今までの日常を失ってしまってからも、こんな風に誰かと朝食のテーブルを囲むことができているのは、幸福なことだと思う。小さい頃から、母がどんなに早起きの日でも、頑張って朝食だけは共にしてきた。もう、それが当たり前のことになってしまっていて。ごく稀に一人きりの朝を迎えた時は、なんだか落ち着かず、寂しかった。
続く連想を振り払いたくて、首を横に振る。そんな私を、いつの間にか食事を終えた由稀が、じっと見ていた。
『由稀はさ、何か、私にお願いごととかないの?』
「願ったところで、叶うのかよ」
あんたただの幽霊だろうが、と、ジトっとした目で返される。
『そりゃ、もう物には触れないけど。ほら、思春期の男の子なら、おねーさんに訊きたいこととか、色々あるんじゃない? いーのよ坊や、恥ずかしがらなくても!』
由稀はげんなりした顔で溜め息をつくと、手早く洗い物を始めた。流し台に向かったまま、背中越しに彼は言う。
「人の心配なんていいから。麻耶は、最後の未練の晴らし方を、さっさと見つけてくれ」
『早くいなくなれってこと? 由稀ったら、つーれないんだー』
「あのなあ」
由稀が振り返り、今にも怒りださんとした瞬間、インターホンが鳴った。咎めるようにこちらを睨みつけてから、由稀は玄関へ向かった。
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母はあまり、善悪の判断を子どもに押し付けないタイプの人だった。おかげで、叱られた記憶はほとんどない。その代わり、喜怒哀楽に幼いところがあって、怒鳴ったり泣いたりしている姿は、何度も見た。
怒られるのはまだいいけれど、泣かれるのは、子供心にしのびなかった。だから、小さい頃から努めて明るく振舞うようにして。気づけば、それが当たり前になっていた。
写真が苦手になったのも、似たような理由からくることだった。母はしばしば、若い頃の写真を取り出しては、静かに涙を流していた。家族、友人、そして、おそらくは私の父であろう男性。母の隣で微笑む人たちは皆、既に遠く離れてしまった相手ばかりだった。家族は事故で亡くしたのだという。父について母は何も語らなかったけれど、きっと、私のことについて責任を負いかねて、姿を消したのだろう。それでも母は私を産んだ。当時まだ学生だった友人たちとは、自分から距離を置くようになっていった。幼い頃はそんな事情わからなかったけれど、とにかく私にとって、写真とは母をいじめる極悪非道な存在だった。だから自然と、それを厭うようになり。嫌だ嫌だと撮影から逃げ回った幼少期を経て、今は単純に、撮られることに慣れていない気恥ずかしさから、写真を苦手にしている。
思えば、母を泣かせる諸悪の根源は、大抵の場合において私自身だった。私がいなければ、母が若いうちから、たった一人で苦労することもなかった。なのに母は、全然娘を恨んだりはしなくて。きっと、いつも、強く強く愛してくれていた。私にはそれが、時々、ちょっとだけ辛かった。
お小遣いなんてシステムは我が家に存在しなかったから、自由にできるお金を手にする機会も、滅多になかったけれど。陸上部の外部コーチなんかが、たまに雑用のバイト代をくれることがあった。そういうお金をコツコツ貯めておいて、毎年母の日には、慎ましい贈り物するようにしていた。どんなに安っぽいプレゼントでも、母は喜んで、大事にしてくれた。手芸部の友人に道具を借りて、手編みのマフラーを贈った時は、「母さんが死んだら、一緒に棺桶に入れてね」なんて、縁起でもないお礼を言われたりもした。
そういう時、愛の深さを実感して、私は胸が痛かった。それは一生かかっても返しきれない恩だった。あわよくば、私のことなんかほっぽり出して、新しい恋人と、別の人生を歩んで欲しいとすら願うことがあった。実際、そういう内容をやんわりと伝えたこともある。激怒、号泣、阿鼻叫喚だった。「麻耶の幸福が、お母さんの幸せだから」。そんな風に言われてしまったら、こちらはもう、何も言えなくなってしまう。
幸せになるしかなかった。それが私にできる、精一杯の親孝行だった。
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朝早くから由稀を迎えに来たのは、泉さんだった。彼女はひったくり犯のことを即日校内紙にまとめあげると、全部のデータをすぐさま警察に提出した。それから僅か数日後、由稀の撮影した写真が決め手となって、犯人は逮捕された。由稀と泉さんの二人は、今回の件で、県警から感謝状を授与されることになった。由稀は面倒くさがって断ろうとしたけれど、泉さんの馬力に抵抗しきれなかった。
案内された会議室は、新聞やテレビで見るよりも質素な、何もない部屋だった。スーツでびしっと固めた少し偉そうなおじさんは、二人に感謝状を手渡すや否や、せかせかと部屋を出て行ってしまった。脇に控えていた二人の婦警さんは逃げ後れ、泉さんの質問攻めにあっている。
「白昼堂々の犯行だったからねぇ。早めに解決して良かった」
これも仕事と諦めたらしく、腰を据えた調子で婦警さんは語った。
「うちの校区で二件、隣の校区では一件、この一月の間に、被害が出とりますよね。一件は、取り押さえよぉとしたおじさんが刃物で怪我してる」
ジャーナリストさながらにメモをぺらぺらさせて、泉さんが神妙に呟く。よく調べてるのね、と、婦警さんは二人とも目を丸くした。
「実際は、ひったくり以外にも、置き引きとか常習だったみたいだけどね。毎回女子高生が被害者ってあたり、意味深で気持ち悪いよね。やだやだ」
そう言って大袈裟に肩をすくめたのは、まだ二十代に見える若い方の婦警さんだった。年配のもう一人が、小さく肘をぶつけて彼女を諌めた。
「あの」
今まで黙っていた由稀が、思いついたように口を開く。三人の女性陣は、驚いた様子で互いに目を見合わせた。やめておけばよかった、とでも言いたげな渋い顔で、言葉を続ける由稀。
「犬伏麻耶の件に、今回の犯人は関わっていませんか」
突然名前を出され、私はどきりとした。二人の婦警さんは、不思議そうに眉を寄せている。泉さんだけが、訳知り顔で首を横に振った。
「犬伏さんは、ただの交通事故ですよ」
「ああ、あの子、あなたたちと同じ高校だったのね」
若い方の婦警さんは思い出したように声を上げたあと、表情を曇らせて、「花の女子高生が、お気の毒に」と目を伏せた。そんな彼女に、年配の婦警さんが二、三耳打ちをする。納得したように頷いたあと、彼女は由稀に説明した。
「犬伏麻耶さんは、駅前の交差点で車と衝突したの。原因は彼女の信号無視よ。でも、別にひったくりを追いかけるために赤信号を渡っていたわけじゃないわ。何か急いでいるようだったって証言は、目撃者が口を揃えているけどね」
「妙な天気雨が降った日ですよね」
メモの一ページを睨みながら、泉さんが補足する。そうそう、と難しい顔をして頷く婦警さん。
「あの日、確か凄く綺麗な虹が出たのよね。おかげで、前方不注意が続出。小さい衝突事故が、他にも何件かあって、大変だった」
虹、という言葉が出た瞬間、弾かれるように由稀はこちらを振り返った。女性陣は揃って目を丸くして、彼を見つめた。由稀自身、自分の行動に戸惑ったらしく、収まりの悪そうな鈍い動作で正面へ向き直り、僅かに顔を伏せた。
「どないしたんですか、竹中さん」
「いや、なんでもない」
泉さんの問いに首を振り、由稀は頭痛でも抑えるかのように、額へ手を当てた。
「なんだか少し体調も悪そうだし、二人とも今日はもう帰りなさい。今回のことは、本当にどうもありがとう。でも今度からは、事件にあったらその場ですぐに110番しなきゃダメよ」
年配の婦警さんがピシャリと告げ、その場はお開きとなった。




