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Missing  作者: 逢坂
境界線にて
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26/33

2.love is over

2.

 

 写真部の部室は、部室というより物置に近い感じだった。狭い空間に、ロッカーと展示用のボードがぎゅうぎゅう詰め。一つだけあるデスクの上に、由稀が次々と写真を並べてゆく。春の桜通り、夏の海岸線、楓、ネオン、そしてまた春。


『これ、全部コンデジで撮ったの?』

「一眼レフなんて、持ってないからな」


 使い方くらいは知ってるが、と頭を掻く由稀。とぼけた顔して、良い腕してる。


「今あるのは、これで全部だ」

『案外少ないね』

「データは沢山あるが、生憎あまり現像をしてない。物足りないか?」

『ううん。十分!』


 わざわざこうやって、由稀が古い写真を引っ張り出してくれているのは、私がそれを強請ねだったからだ。彼は理由すら問わず、作品を保存してある部室につれてきてくれた。夏休みの真っ昼間。部員は他にいない。


「これは、去年の夏に県美の海浜公園から見た海。こっちは、ついこの間、駅前で偶然見つけた虹」


 頼みもしないのに、一枚一枚解説を加えてゆく由稀。これは? と、私が指差して問うと、彼は難しく眉を寄せた。ただひたすら、抜けるような青空を収めた写真。手がかりが少な過ぎて、思い出し辛いのだろう。


「確か、中学の頃、市立の陸上競技場で撮ったやつだ」

『あ、私あそこの常連だよ。陸上の大会、予選はいつも市立競技場だったから』


 だとすればこれは、私が今まで何度も、走り終わる度に見上げてきた空ということになる。ゴールした後に眺める空は、陸上の醍醐味の一つだ。一歩踏み出す度に、段々、余計な部分が剥がれ落ちていって、大事なものだけが残る。すっきりした心で見上げる空は、いつだって笑っちゃうくらい綺麗だった。


「そういうもんか」

『そーゆーもんです』


 感心した様子の由稀に、頷いてみせる。


『懐かしいもの見たら、なんだか満足しちゃった。ありがとね、由稀』

「もういいのか?」

『うん』


 もう十分。もう、いらない。そう心に決めて、少しだけ長い瞬きをする。次の瞬間、視界から一切の色彩が失われていた。白黒映画の俳優みたいになってしまった由稀に、思わず笑みがこぼれる。それをどう受け取ったのやら。由稀は口を斜めにして、小さく溜め息をついた。お世辞にも豊かとは言えない彼の表情から、内に秘めた気持ちを全部読み取るような超能力は、残念ながら持ち合わせていない。サイレント映画まで退化したら困るな、なんて、ぼんやりと考えた。

 こうでもしなければ、私はもう、幽霊としての寿命を保てないところまで来ていた。人としての自分を捨てて、代わりに、僅かばかりの時間を得る。未練を果たすためじゃない。今はただ、由稀との日々が、少しでも長く続いて欲しかった。


「良かった。竹中先輩、いらしてたんですね」


 ちょうど会話が途切れたところで、ノックの音がして、ドアが開いた。立っていたのは康浩だった。だらしないボサボサ頭と、その割にきっちり着こなした制服。


「そろそろ休みも終わるので。文化祭の共同展示について、御相談なんですが」

「俺で良ければ聞こう。あとで部長に伝えておく」

「助かります」


 招き入れられた康浩は、しばらくキョロキョロと辺りを見回した後で、自嘲気味に薄く笑んだ。一連の動作を黙って見届けてから、軽く肩をすくめ、由稀は話を促した。


「展示場所、どこか教室を借りた方がいいでしょうか。生徒会に申請を出さなければならないんですが」

「美術室では駄目なのか?」

「机を全部外に出せるなら、それなりのスペースはあります」

「展示ボードと入れ替えで、うちの部室に机を入れておけばいい」

「では、その案で。絵を運ぶのは手間ですから、ありがたいです」


 由稀はデスクの引き出しからメモ帳を取り出し、決まった内容を手早く書き留めた。出来上がったメモを、適当なマグネットでロッカーに貼付ける。あとで伝える、なんて言っておきながら、無精に済ませるつもりらしかった。

 由稀が作業している間、康浩は興味深そうに、デスクの上の写真を眺めていた。あからさまに嫌な顔の由稀に向かって、良い写真ですね、とにっこり。


「噂どおりのセンスで、驚きました。さすが、あの園村さんが褒めるだけのことはあります」

「上手なことは言わなくていい」


 そっけなくあしらい、さっさと写真を片付けてしまう由稀。苦笑して俯いた康浩は、しばらく黙って頭を掻いた後、思い切ったように告げた。


「先輩、美術部に入りませんか。園村さん、ずっと待ってますよ」


 由稀はまるで何も耳に入らなかったような様子で、無言を貫いていた。真摯な表情を崩さず、じっと返答を待つ康浩。やがて、根負けした由稀が、片手を腰にあて面倒くさそうに言う。


「絵を描く仲間なら、お前がいるだろう。今更俺の出る幕じゃない」

「男の甲斐性の問題を、他人の所為にされちゃ困ります」


 涼しい顔をして、康浩が鋭く返す。


「手厳しいな」

「後悔先に立たずですから」

「考えておく」

「そうしてください」


 後輩に言い負かされた割に、由稀の態度は穏やかだった。きっと、康浩の言葉に納得する部分があったのだろう。

 由稀と園村色さんの関係について考えようとして、すぐにやめた。ろくなことにならないのが目に見えていたからだ。

 二人の交換日記を、こっそり読んだことがある。わざわざ一ページずつ顔を近づけて、透かし読みしていった。一体何が、私をあんな馬鹿で下品な真似に駆り立てたのか。夏夜の無聊だけが原因ではないことくらい、薄々自覚している。

 思うに、由稀は一番新しい園村さんの日記を読んでいない。面倒くさいのか、あるいはわざと避けているのか、とにかく日記の鍵すら開けていなかった。いくら煮え切らない由稀でも、あれを読めば、彼女の気持ちや、彼女に対する自分の気持ちと向き合うに違いない。遠からず訪れるその時、私はなんて声をかけるのだろうか。

 一通り用件は終えたはずなのに、康浩はなかなか部屋を出ようとしなかった。かといって何をするでもなく、気まずそうにしている。珍しく、気遣うような柔らかさで由稀が言った。


「休み明けの始業式で、犬伏麻耶が亡くなったことが周知されるだろう。それに合わせて、今、泉が彼女に関する記事を書いてる」


 康浩は目を見開いた後、表情を曇らせた。


「それは」

「ゴシップとしてじゃない。あくまで追悼のためだ。あいつなりの誠意は、俺が保証する」


 ゆっくり大きく頷いた後、それでもまだ納得がいかない様子で、康浩が問う。


「それにしたって、許可が下りないんじゃないですか、学校の」

「泉は通すよ、必ず」

「……そうかも知れませんね」


 同意した康浩は、観念したようにうなだれた。


「協力する気があるなら、そうしてやってくれ。不満なら、泉と一戦交えればいい」

「考えておきます」


 そう言い残し、康浩は部屋を出て行った。

 彼と会えるのは、これが最後かもしれない。不意に、そんな予感がした。だからといって、できることは何もない。彼とのお別れは、もう、あの夜に済ませてしまったから。

 区切りをつけるために目を閉じる。瞼に浮かぶ光景は、どれもこれも、まるで遠い昔のことのように思えた。


/


 初夏、部活が休みだったとある週末、一人で自主練をしていて、軽く足を捻ったことがある。グラウンドから校舎までは、片足飛びでなんとか移動したけれど、そこで立ち往生してしまった。坂の上という立地の都合からか、うちの高校はやたらと階段が多い。片足だけで、一度も踏み外すことなく保健室に辿り着ける自信がなかった。這っていくか助けを呼ぶか、思案していると、見知らぬ男子生徒に声をかけられた。


「大丈夫ですか? 肩、貸します」


 ボサボサ頭で、少し鼻が高い。とろんとしたたれ目が、いかにも優しそうな人だった。私は安心して、初対面にもかかわらず、彼の厚意に甘えることにした。


「ごめんねー、ありがと。すんごい助かる」


 彼はどこかぎこちなく頷くと、まるで壊れ物を扱うみたいに繊細な所作で、私の腕を肩に担いだ。薄い夏服越しに触れた体温が、妙に熱かったことを、今でも憶えてる。

 応急手当を済ませて、保健室を出るまで、彼はずっと付き添ってくれていた。ありがとう、と、私が感謝を伝えると、彼は思い詰めた、それでいてどこか投げやりな様子で、言った。


「実はずっと、先輩に憧れていたんです。僕と、付き合ってもらえませんか」


 ムードもへったくれもない、唐突な告白だった。休日だったおかげで、廊下のど真ん中でも周囲に誰もいない点だけが、多少なりとも救いだった。しばらく返事が出来なかったのは、驚きというより、単純に呆れてしまったせい。そういう言葉をもらったことは、初めてではなかったし、そういう関係になったことも、何度かあった。けれど、過去の経験をどれだけ思い返してみても、こんな型破りなシチュエーションを上手に乗り切るためのノウハウは、一つも見つからなかった。どうしたものかと悩む最中、ふと、彼の手元に目がいった。固く固く握りしめられ、仄かに震える拳。頭の中では、断るための言葉を探していたはずなのに、私はいつの間にか、その右手に手を伸ばしていた。彼は息をのみ、一層手に力を込めた。私にはそれが、なぜだかとても寂しい仕草に思えて、彼の右手が私の指を受け入れるまで、ただずっと待った。


「いきなり、上手くやっていけるとは、思わないけど。君の男気を買おうかな」


 それから私たちは、ひとまず、すれ違えば言葉をかわすような関係になった。下校時刻が偶然重なれば、お喋りしながら並んで帰った。彼はいつも恐縮した様子だったし、話題も全然合わなかったけれど、歳の割に落ち着いた口調は、聴いていて心地よかった。告白のタイミング以外はいたって常識的な子で、彼と過ごす時間には、体育会系の、日頃親しくしている人たちと接するときにはない、不思議な安心感があった。

 彼に誘われて、美術部の展示を観に行ったこともある。芸術的な教養なんて一切持ち合わせていない私でも、彼の絵が、高校生にしてはとても上手なものだってわかった。そして同時に、そんな彼すら遥かに凌駕する、人間離れした部員がいることも知った。


「園村さんにくらべたら、僕なんてまだまだです」


 苦笑しながら、瞳の奥には強い光が宿っていた。憧れを憧れで終わらせまいとする覚悟が、はっきりと滲んでいた。私を見つめる目にも、同じような熱が宿っていることに、そのとき気がついた。

 デートの記憶は一度だけ。お互い部活を終えた夕方、電車で少しだけ遠出して、離れた町の海辺を歩いた。「あなたに見せたかった」と彼が語った夕日は、目に沁みるほど綺麗で。こういうのも悪くないなって、素直に思った。せっかくのデートなのに、彼は隣を歩こうとせず、一歩下がったところから、指で四角い枠を作ったりしながら、私のことを眺めていた。呆れて手を差し出すと、彼は顔を真っ赤にした。見ているこっちまで恥ずかしくなり、手を繋いでからは、二人とも無言だった。波の音ばっかり大きくて。でも、不思議と息苦しくはない、奇妙な時間だった。

 恋に雄弁な友人たちはみんな、早く振ってあげるべきだと口を揃えた。彼が捧げてくれる強い好意に応えるだけの用意が私にはなかった。だけど、離れがたくて。切り出すべき別れを、先延ばしにしていた。それでも、ずっと、彼は優しかった。焦らずゆっくり、二人で時間を重ねてゆけば、いつかは素敵なカップルになれていたかも知れない。少なくとも私は、きっと、彼との日々の中でたくさんの幸せを感じることができただろう。

 こんな風に、冷静に振り返ることが出来るようになった時点で、もう、恋じゃなくなってしまっているのだと思う。それでいい。全部全部、今となっては、潰えてしまった儚い未来だった。


「康浩」


 最後に一度だけ、胸の内で確かめるように名前を呼んだ。心を占める、大切な記憶。

 だけど、もういい。もう、いらない。愛しい時間も、悩んだ日々も、全部。

 強く念じて、眼を開けた。


/


 デスクの上の写真を片付け終わった由稀は、思い出したようにこちらを振り返り、問うた。


「麻耶、あんた。菊池に告白された時、どう思った?」

『なぁに? 突然』

「本当に自分でいいのかって、思わなかったか?」

『由稀はそう思ったの? 園村さんに告白された時』

「告白なんてされたことはない」

『でも、そういう負い目が彼女に対してある、と』


 否定も肯定もせず、由稀は目を逸らした。真剣なんだなって、思った。この子たちは、単なる青春時代の一時ひとときだけじゃなくて、将来とか、人生とかを懸けて、相手のことを考えようとしているんだ。

 隠しておくのも悪い気がして、観念するような気持ちで、私は逆に問うた。


『ねえ。由稀ってさ、園村さんが書いた一番新しい日記、まだ読んでないんでしょう』


 なぜそんなことがわかるんだ、って追求されるかと思いきや。由稀は叱られた子供のような顔で、言い訳を口にした。


「鍵が無いんだ」

『鍵?』

「南京錠の鍵。交換日記の。どこかに落としたらしくてな。おかげでページが開けない」

『呆れた。だからこの前、園村さんの財布の中、物色してたんだ』


 図星だったらしく、由稀はバツが悪そうに俯いた。大きく一度ため息をついた後、顔を上げ、仕切り直すように問う。


「それで、結局、あんたはどう思ったんだよ」

『忘れちゃった』


 そう、私が答えると、由稀は目を見開き、戸惑うように瞳の奥を揺らした。


「いいのか。あんた、それで」


 なにが? と問おうとして、やめた。由稀は唇を噛み、両手を強く握りしめていた。あまり話すとまた怒らせてしまうかもしれない。


『いいよ』


 驚いたのは、彼への想いを手放した途端、一気に心が軽くなったこと。失われた重みが、自分にとっての、彼の大きさを表していた。

 辛いとは思わなかった。いつか耳にした潮騒のように。ただ、心地よかったという事実だけを、憶えている。

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