9 望み
エドゥアール……この国の第三王子、末男。美貌と、芸術支援で国民から人気。王宮にほど近い屋敷に暮らしている。
デオダ……競技場の闘士。突然エドゥアールにスカウトされ専属護衛に。
デオダの突然の吐露に、内心はっとしていた。
そんなことを、一人でずっと抱えていたのか。
俺はそういうことは全く気にせず、求めるばかりだった。……不遜だった。
漠然としたままの不甲斐なさを感じ、詩集に視線を落としたままで、思いつくまま言った。
「お前は与えられた環境で精一杯生きただけだろう。俺だって立場が違えばきっとそうした。そこで腐らずによく真っ直ぐ生きてくれた。お陰で俺はお前を見つけられた」
「そのような……。私は決して清廉な人間ではありません。本来ならこのような場所には—— 」
「もう良い。お前の後生大事にしている小さな咎の数々は俺が許してやる。余計な荷物は下ろせ。それに感謝こそすれ、別に俺はお前から罪滅ぼしされるような謂れはない」
「殿下……、ありがとうございます……」
「っ……」
体勢を変えようとしてデオダの腰の上辺りに肘が乗った瞬間、小さく呻いた。
「なんだ、怪我でもしているのか?」
「昼間、あの空き瓶が当たって痣になったようです。あの時は全く痛くなかったのですが。私もさっき気付きました」
「おお、なんと。俺のために怪我をしたのか。大変だ。忠実なる家臣よ、手当てをしてやろう。ここか?」
そう言って腰をぎゅうと揉んでやったら、デオダは体を捩りながら笑った。
「殿下、お許しください、ふふっ」
結局一ページも進まなかった本はもう閉じた。読んでいないことが見ていて確実に分かったからこそ、デオダは話しかけたはずだ。もう読書は諦める。
「そうだな。本当にお前には褒美をやってもいいな。何か望みはないか? この先また俺の命を助けられるチャンスなどそうそうないぞ。最後かもしれないから何でも言え」
「望みですか……」
デオダは天井を見上げながらしばらく考えたあと言った。
「でしたら、殿下……」
「なんだ? 言え」
「……髪に……少しだけ触れてみたいのですが……なりませんでしょうか」
護衛の過程でたまたま触れたことなら何度かあるかもしれないが、多分それとは違うんだろう。
ベッドに両手を突いてデオダに近づいた。
「ふはっ、本当にそんなことで良いのか? お前がそれで良いなら構わない。ほら」
頭を差し出してやると、そっと人差し指の背で毛先をしゃらりと揺らした。
デオダはそれをじっと見つめると、ゆっくりと目を閉じた。
「ああ、本当に美しいですね。……殿下は、時々小首を傾げる癖がおありなのをお気づきですか?」
「俺がか」
「初めてお会いした日も、私に向かってされていました。はらりと髪が落ちる様子がとても綺麗で。実は一緒に歩く時も、髪の揺れる様子に時々目を奪われます。今日、一つ願いが叶いました。もう他に、望むものは何もない」
デオダは幸せそうに微笑んだ。
「……何も、か」
それだけなのか。
俺の瞳の奥には、戸惑いと、恐れ、そしてもう一つ、生まれかけの感情を隠しているのを、お前には見えないのか?
或いは、俺が今はっきりと口にしたら、何か変わるか?
手を伸ばせば届く距離。
微動だにせず黙ってただじっと見つめ合う時間が、何時間にも感じられた。
やがて、デオダは大きく一度肩で息をして、まるで宣誓でもするかのように繰り返す。
「はい……。私は、これ以上、何も望みません」
デオダは口元に弧を描いたまま、また深く目を閉じた。
それはまるで、門戸を閉ざして会話を拒否するかのようだった。
そうか。
何も望まないか、俺には。
そうか。そうだよな。そうに決まっている。デオダからすれば、俺は金で引っ張っただけの、ただの雇い主だ。
馬鹿だな、俺は何を考えていたんだろうか。
金で人の心が買えるとでも?
ただの忠誠心を、都合よく勘違いしたのか?
なんて恥知らずな主人なんだ、俺は。
ぐっと口を引き結んで立ち上がる。
「……夜中に悪かった。もう良い、邪魔したな」
ひとつも読まなかった詩集を掴み、主寝室の扉を開ける。
「あの、もう一つだけ」
反射的にぴたりと立ち止まってしまったが、振り返らずに答えた。
「なんだ。もう望みはないはずだ」
デオダが体を起こして聞く。
「しばらくの間、警備を強化したいのです。より確実にお守りできるよう、明日から殿下の部屋の長椅子で寝るのをお許しいただけませんか?」
「……許す。そうしろ」
デオダの方は見ず、パタンと扉を閉める。今は顔を見られたくない。
部屋に置いてあるアルマニャックをグラスに注ぎ、何口かで飲み干した。
俺は今、何を望んでいる?
……あいつは望まないと言っているのにか?
馬鹿なことを考えるな。
そんな暇があったら、明日の公務のことと、全ての国民生活のことと……。俺には立場があり、すべきことがあり……、国民の規範となって……。
頭が混乱する。しっかりしろ。
一体何だと言うんだ、この苦しさは。
やめろ。いけない。落ち着け。俺らしくもない。
しかしそう思うほど裏腹に、どうしようもない気持ちの渇きに気付く。
……いつからだ。どうしてこんなことに。こんなはずではなかった。
胸が詰まって息が苦しい。
視界がぼやけてそうになるのを認めたくなくて、強く目を閉じた。
***
「殿下、そろそろ身支度を……」
「……」
翌朝、デオダの心配の通り、エドゥアールは起きるのに倍に近い時間を要した。
「お水をお飲みになりますか? 紅茶がよろしいですか?」
「……んむ」




