10 豹
エドゥアール……この国の第三王子、末男。美貌と、芸術支援で国民から人気。王宮にほど近い屋敷に暮らしている。
デオダ……競技場の闘士。突然エドゥアールにスカウトされ専属護衛に。
「明日、少し街の様子を見に行きたい。平民に見えるように装ってくれ」
エドゥアールの指示を受けた従者は顔を険しくする。
これは、街といっても王宮にほど近い高級店のことではなく、下町の飲み屋などに行って平民からの世情視察をするという、定期的に発生するミッションなのであった。デオダが来てからというものその頻度が上がってきていた。
しかし最近は街がどうも騒がしい。
王族と気づかれた時、果たして以前のように温かく迎えられるだろうか。しかしそれこそがエドゥアールがまさに知りたいことだった。
今回はデオダ始め全員が難色を示したが、ほんの短時間だけ、という約束で落ち着いた。
着付けを担当する従者はその難題に今回も焦った。なにしろ、服装をどうこうしたところで、王子の華を消しようがないことは判明済みだった。美しく着付けろという注文の何倍も難しい。経験を積んだ従者もこれには自分のスキルを発揮しきれず、気が重くなる。
それに今回に至っては今までよりもリスクが予想されるのでごまかしも許されない。
従者は悩んだ挙句、今回は髪は結い上げてキャスケットを被り、その上から深くマントを羽織って、姿を極力隠す作戦を選択した。
顔のあちこちにはほんの少し胡桃の殻の煮汁を塗ったり、ココアパウダーを塗してなんとか白皙を隠す。
供するデオダもそれに馴染むよう似たような格好をして、遠方から来た商人風を装った。
夕暮れ時、少し離れて馬車を降りて店へ向かう。そろそろ街灯が点いてもおかしくない時間だが、この日はまだのようだった。
デオダが闘技場近くの馴染みのある居酒屋を提案した。勝手を知っているので護衛もしやすい。念のために他の護衛も少し距離を取って付いて来ている。
店に入るとデオダが目配せし、迎えた店員が二階席を案内する。バルコニーのような造りで、一階を見渡すこともできた。
「はいお待ち、ワイン二つ! それと果実とチーズの盛り、塩漬肉と野菜の煮込みに、黒パンね。ごゆっくり!」
元気な声に緊張が少し解け、二人で乾杯した。
「手を煩わせて悪かったな」
「いえ、視察は楽しみでもありますから」
「お前は少し前まで街中で暮らしていたじゃないか。何が楽しみなんだ? 酒か?」
デオダは職務上、滅多に酒を口にしなかった。
「ええ、まあ。それも楽しみですね」
デオダはテーブルに肘を突いて、時々目を細めながらこちらを眺めている。
「最近、夜中に楽器を弾いて悪いな。寝づらいだろう」
ワインを飲みながら果実とチーズを摘む。
「いくらでもどうぞ。あの音色を聴いているとまるで天国にでもいるかのように心が安らぎます。私こそ、お休みの邪魔をして申し訳ございません」
あれから結局、デオダのために座面の広いソファ兼ベッドを一台搬入し、夜は二人とも主寝室で寝るようになっていた。
「いや寧ろ、そのお陰で安眠できている。屋敷の中で一番安全なのはお前のいる部屋だからな。お前には息苦しい生活をさせてしまっている。いればつい細々とした用事を頼んでしまうし」
俺としてはいつも視界にデオダが入るのは安心でしかなかった。
毎日床に入る頃になると、デオダはタイミング良くそっと部屋に入ってきて、ほとんど音も立てずに読書したり剣を磨いていたりした。眠れない時は話しかければぽつぽつと答えてくれる。
この環境にしていなかったら、きっと眠りに就けていないだろうと思うほどに、最近は疲れている実感がある。いつも心がざわついて、色々と考え込むことが増えてきていた。
「とんでもない、信用いただいて光栄です。それよりせっかくですから楽しい話をいたしましょう」
デオダは自分のことをあまり話さないが、闘技場時代のことなら聞かれれば話す。その時のことはきっと悪くない思い出なのだろう。
「闘士名には他にも候補が色々ございました。雷だとか疾風とか、ナイトブレード、パラディン。直前まで蛇王に決まりかけていました」
デオダが真面目な顔で話すので、余計に笑いを堪えられなかった。
社交の場ではいつも制御している喜怒哀楽を、デオダの前でだけは見せられる。
「はは、面白いな。その時は皆真面目に討論していたのだろう」
「そうなのです。時というものは不思議ですね。今が幸福ならば、どんな思い出も全て可笑しく、愛おしい」
そうか、良かった。デオダさえ今は幸せだと言うなら、それでいい。
「黒豹、はどうだ。お前のイメージに合う」
「ええと、肉食獣の?」
「ああ、異国の大型獣だ。音もなく木に登って身を隠してる。普段闇に紛れているが、光が当たると漆黒の毛並みが見惚れるほど美しいらしい」
デオダは少し黙って、顎の周りを人差し指で撫でながら目線を落とした。
思いついたことを言ったまでなんだが、あまり気に入らなかっただろうか。
「ふぅーっ、やっとビールにありつける」
一番近くの席に、新しい客二人がやってきた。仕事を終えた労働者のようだ。
「これだけ働いてやっと飯が食えるとは、全く世知辛いな」
「違いない。それに比べて、聞いたか? 王宮の屋根、大々的に補修するらしいぜ。いい気なもんだ、本当に必要なのかよ、そんなの」
デオダが咄嗟に目線だけを動かす。
「うちの爺さんは楽しみにしてたな、また我が国の美しい文化を誇れるとか何とか言って」
「そんなもんで腹が膨れりゃ世話ないぜ。王族は今ごろ豪華な宴でも開いているんじゃないか? 芸術だの伝統だの、俺たちの生活にゃ何の関係もないだろ」
俺は居た堪れない気分だったが、キャスケットを目深に被り直すだけに留めた。
デオダはというと黙ってテーブルナイフを握り締めていて物騒なので、そっと手を添えて奪ってやった。




