5 エドゥアール(2)
エドゥアール……この国の第三王子、末男。美貌と、芸術支援で国民から人気。王宮にほど近い屋敷に暮らしている。
デオダ……競技場ので人気の闘士。
屋敷に戻ったのは深夜だった。
王宮からいくらも離れていない距離に自分だけ離れて暮らすのは、いざとなったら将来自立もできるようにという両親の配慮でもある。たかが数年住まいを別にしただけで自立心が培われたとまでは言い難いが、自分の立場を見つめ直すという点においては十分な効果があった。
世の中には血みどろの利権争いをするような一族もある中で、幸い俺の家はみんな優しいし仲の良い方だ。国は平和で、王家に対する支持も厚い。
恵まれているんだ、俺は。
それだけに、自分一人にできること、すべきことが一体何なのかと思う。
公務とか社会貢献とかそういうことではなく、この世に生まれ落ちた一人の人間として、何をして生きるのか。
それは探せばいつか見つかるものなのか、それとも自分にはそんなもの存在しないのか。
一人になった私室で、ガウンを羽織って寝椅子に肘を突きながらぼんやりとそんなことを考えていた。
いつもするように、視線のちょうど先にある壁の絵を見つめる。赤い服を着た男が扉の前に立ち、その先から眩い太陽の光が差し込んでいる。その男が誰なのかは知らない。これを買った店の主すら知らなかったので、きっと誰でもないのかもしれない。その後、城下にあったはずのその店は場所を忘れてしまい、探りようもない。
なぜかふと、絵とは何の関係もない、先日闘技場で見た男のことを思い出した。
踊るように軽やかなステップを踏み、勝利して顔を明かし、朝露を湛えた青草のように笑って。
何の淀みも計算もなく、少し焼けた肌からはにかむように白い歯を見せていた。あんな風に笑う奴は、王宮にはいないかもしれない。
俺は大した価値などないと思っていたその勝利を、男はただまっすぐ素直に喜んでいた。
きっと、俺の知らない生き方をしている奴らが、世の中にはたくさんいるのだ。もしかすると、彼らは生きる意味とか存在意義なんて考えない。あの男はきっと今頃、飯を食って酒でも飲みとっくに寝ている。
そんな勝手な決めつけを心の中でして、遅い時間だというのに側近を呼び出した。
「あの男の身元を調べてくれ」
朝になると大まかな報告が上がった。
現在二十六歳。生まれはここより少し南西にある海浜国。
若い頃に単身でここに移り住んだようで、闘技場で働き、やがて闘士になった。
家族はなし。犯罪歴もなし。
別に本当に経歴自体が知りたいわけではない。一応目は通したが、形式上のことに過ぎなかった。
なぜだかもう一度、あの男に会ってみたい。
話をしてみたい。
手元に置きたい。
王族の俺を見たとき、あいつはどう反応するのか気になった。
媚び諂われるのは嫌だが、怯えられても困る。
もしどうしても相性が合わないようならこの話はなしだ。その時は潔く諦めよう。無理に連れてきては意味がない。
実際会ってみると、心配したどちらでもなく、むしろこちらを牽制するかのような気位の高ささえ感じた。妙なことを持ちかけているのはこちらだから全く正しい反応である。
やはり興味が出てきた。どう誘えば首を縦に振るだろうか。外から圧力を掛けて断れなくするのは簡単だが、それでは意味がない。
誇り高き剣士が欲しがりそうなもの。生活の安定だけでは足りまい。まずは自己研鑽のチャンス。そうだな、他にも贈り物をしようか。
あいつ、喜ぶだろうか。笑うだろうか。
屋敷に住まわせると、早速忠誠を誓ってくれた。
大きな体をして、俺の手にキスをする。
全て良し。デオダ、愛い男だ。
***
「自ら買い物に出られるのですか?」
何のために街に出るのか聞いていなかったデオダが、低い声で尋ねた。
窓からは穏やかな陽射しが差し込んでいる。
「そうだ。何でも使いに行かせるとでも思ったか? 俺にだって意志も、好き嫌いも、気分の高低もある。買い物も行くし、意味なくふらつくこともある」
デオダは膝下まである漆黒のフロックコートを見事に着こなし、高い身長を際立たせている。
ゆっくり歩く度に雄々しい肩や胸筋がわずかに波打ち、しなやかに獲物を狙う大きな黒豹を思わせた。
エドゥアールはその様子に内心感嘆し、機嫌の良さを隠すことをしなかった。
「失礼しました。高貴なご身分の方について、私には見当もつきませんので」
「良い。知りたいことは何でも聞け。しばらくは無礼があっても不問にしよう」
まるで珍獣の生態でも観察するような物言いに笑いを堪える。
「お前、さっきから何を見ているんだ。窓の外に何かあるのか?」
部屋に入ってから、デオダは不自然にもほとんどこちらを見ずに話している。
「いえ、あまり見ては失礼かと」
「……もしかして、着替えのことを言っているのか? この通り従者は間近で見ているのだから問題ないだろう」
着替えを見てはいけないのに部屋に呼ぶものか。
着付けている従者は、クラバットを首へ複雑に巻きつけ始めた。
「お前も見て学んで、手伝えるようになってくれ。それとも、剣士様には従者のような真似はできないか」
「とんでもない。私ができることは全ていたします」
デオダはやっと体をこちらに向け、おずおずと見上げたりまた俯いたりしている。
手慣れた従者が主人にぴたりと纏わりついて慣れた仕草で服の胸や肩にするすると手を差し入れている様子が、デオダにはどうも見てはいけないもののような気がしたのかもしれない。
「よし、これで良いな?」
着替えが終わり、従者に最後の確認をする。
「はい、お美しいです」
従者が答える前にデオダがはっきり答えた。
まっすぐ確信を持って答えるその顔に、もう笑いを堪えるのは無理だった。
従者は苦々しい顔をしてデオダを一瞥した。
「良いんだ。デオダというのはこういう男だから、お前からもよく教えてやってくれ。頼む」
従者の肩を軽く叩き、笑いながら部屋を出る。
デオダは何がおかしいのかピンと来ないまま静かに着いてきた。




