3 返事
エドゥアール……この国の第三王子、末男。美貌と、芸術支援で国民から人気。
デオダ……競技場の闘士。
デオダは考えを巡らせた。
条件は良いが、本当に自分に勤まる仕事なのか見当が付かない。それに長く勤められる仕事なのだろうか。
ひょっとすると今上り調子である闘技場の方がまだ安定や将来性があるかもしれないし、好きなことが続けられるのかもしれない。仮に戻った時、席がある保証もない。
とても良い話ではある。それに今が安定しているかというと別にそうではない。
ともかく、急過ぎて今ここでの即断が難しい。惹かれはするが、少し考える時間をもらうか……。
「それと、その腕が鈍っては勿体無いから、近衛騎士団に話を通して訓練に参加させてもらえるようにしよう。要人警護の基礎と、これを機に正式な剣術を習うと良い。どうだ?」
「明日から参ります。いえ、今日からでも」
闘技場に帰り支配人に話すと、二つ返事で送り出された。
「でかしたな。何としても気に入られて来いよ。お望みのことは何でもしろ。こんなチャンスはそうないんだからな。いやあ、めでたい」
挨拶替わりなのか、既に支配人の元には何やらエドゥアール王子からの贈答品が届いていたらしく、誇らしげにテーブルの真ん中に飾ってあった。美しいガラス製の置物だが、王子の名が記してあるということに価値がある。
「二度とうちの敷居は跨ぐなよ。でも、何かあったらいつでも戻ってこい」
どっちなんだ、と思いつつ、頭を下げた。まるで嫁にでも出すように喜んでいて可笑しい。
後ろ盾もないのに寝る場所とチャンスをくれ、無愛想な自分を可愛がってくれた。
「お世話になりました」
やたらと強く肩を叩かれて部屋を後にする。
私物などは数えるほどしかない。デオダの財産はその身と心だけだ。
軽い鞄一つでエドゥアールの屋敷を再訪した。
再訪問した屋敷は、日が暮れかけて庭に等間隔に灯りがともり、白亜の壁が夕闇に美しく浮かび上がっている。
大きな鉄門を通り、裏口の戸を叩く。
「お待ちしておりました」
燕尾服の小柄な紳士が出迎えてくれた。
彼に連れられて屋敷に入ると、使用人しか通らないであろう廊下でさえ床は清潔に磨かれている。裏階段を上がり、案内された自室のドアを開けると、ベッドと衣装箪笥、テーブルと椅子のある清潔な部屋だ。
ベッドの上には小さなベルボードがあり、これが鳴ればすぐに殿下の部屋へ向かうよう言われた。
「部屋は私一人で使って良いのでしょうか」
「ええ、そうですよ。荷物はそこへ。貴重品は鍵抽斗に」
必要十分な個室をもらい、これだけでも来て良かったとさえ思う。考える時間をもらおうとしたのが恥ずかしいぐらいだ。きっと承諾しておいて正解だった。
衣装箪笥にあった服の中から、飾り気のないシャツを選び着替えた。そこで身だしなみの整え方や、服のメンテナンスと着こなしについて基礎を習う。
屋敷を一通り案内してもらうと、通り過ぎたキッチンから卒倒しそうなほど良い香りがして、思わず視線を奪われた。
「使用人の夕食は九時頃なのですが……」
まだあと数時間あるが、今日は朝から何も口にしていない。競技場の食堂は夕方頃からしか開かないから外出しない限りは一日一食だった。黙って厨房を見つめる姿がよほど飢えて見えたのか、特別に野菜とチキンのスープをもらった。香草やスパイスの複雑な味がして美味い。
「なんだいあんた、新人かい。そんだけ体がでかけりゃ足りないだろう」
食べ過ぎてしまったのか、と焦ったが、厨房服の男はスープのお代わりとパンをくれた。
清潔で安全な住まいと、腹一杯の食事。
デオダはエドゥアールへの好感と忠誠心を既に十分なほど抱いた。
小柄な紳士は執事長であった。彼からエドゥアール自身についてと、使用人の心構えなど基礎的な説明を受けていると使いの侍女がやって来た。
「殿下がお呼びです」
「では今日は着いたばかりですし、キリも良いのでここまでにしましょうか」
「デオダ。来てくれたか、これからよろしく頼む」
温かな灯りのついた室内。
細身の伸びやかな脚を組み、片方の肘掛けに凭れて座るエドゥアールは、嬉しそうに微笑んだ。
白い肌と黄金の髪は、照明に照らされてというよりそれ自体が輝いて見える。
「今日は取り敢えず空き部屋を用意した。悪いがしばらく我慢してくれ」
エドゥアールは他に予定でも終えたところなのか、昼間とは衣装が変わっていた。
白く柔らかな絹のブラウスは、テーブル中央に置かれたキャンドルの揺れる明かりを集めててらてらと輝いている。
「しばらく、と言いますと」
胸元と袖口には緩やかなドレープを豊かに湛え、繊細なカットの入ったグラスを持つ華奢な手を美しく縁取っている。
「お互いに信用が築けたら、俺の部屋の近くに移動してもらう。ずっと最上階に寝泊まりしていては護衛にならないからな」
わずかに小首を傾げると、それに従って絹のように滑らかでまっすぐな髪が、しゃらんと傾れる。
澄んだ瞳は、改めてよく見れば淡いすみれ色だった。
デオダはその圧倒的なほど美しい男を前にして、ただ素直に平伏せるだけの朴直さを持っていた。
というよりは、自分の主人は彼なのだ、とデオダはそのとき感覚的に理解した。
エドゥアールの前に進み出て、半ば操られたように片膝を突く。
「……貴方の盾となり剣となりましょう。何に代えても御身をお守りいたします」
するとエドゥアールはふわりと微笑み、デオダに向かって右手の甲を差し出す。
デオダは緊張を抑え、触れれば壊れてしまいそうな白い手を大事に取って、恭しくキスをした。
途端、エドゥアールへの忠誠と、仕えられることの誉れで心が満たされていく心地がした。
自分の存在する意味を感じ、新たな使命に胸が熱くなる。
「そうか。では明日少し街に出たい。早速だが着いてきてくれるか」
「はい。どこへでも」




