15 一人の旅路
やっとお互いの顔が離れると、デオダはハッとして眉を寄せ、狂おしくエドゥアールを見つめると強く掻き抱いた。
「どうかお許しを……」
エドゥアールは強く抱き締められながら、その身体中にじわりと血液が巡っていく感覚を覚えた。
死んでいた体が生き返っていくような。なんだか久しぶりに息ができたような。
逸っていた気持ちが落ち着き、水中のようだった目の前の視界がはっきりと輪郭を取り戻していく。
「分かった。お前を待とう。信じて良いのだろう? いつかまた会えると」
ふいに希望を取り戻したエドゥアールの顔色を見て、デオダは改めて誓う。
「ええ、約束いたします。必ず貴方をお迎えに上がると」
もう一度手の甲にキスを残して、デオダはまた窓から去っていった。
翌朝、バルコニーに立ったエドゥアールは、さりげなく地面を見下ろしたり、伸びをするふりをして屋根を見上げてみたりした。
不思議なやつだ……。あんなに大きい図体をして一体どうやってここへ忍び込んだのだろうか。
下には何も知らない様子の派兵団の頭が見える。
エドゥアールは笑いそうになって、部屋に戻った。
開けた窓から、久々に朝陽が入る。
壁でドライフラワーとなっている花冠が視界に入った。
口の傷は、治そうなどと思わなくとも、刻一刻と治っていく。
—— もう少しだけ、生きてもいいか。
俺の命は然るべき時に神がお召しになるだろう。その時までは、ただ、生きてさえいればいい。
エドゥアールは久しぶりにダンスのステップを踏んだ。頭の中に悠然としたワルツの旋律を浮かべる。前、横、揃え。前、横、揃え。
途中、見張りが来たのでぴたりとやめ、何気なく窓を見てぼんやりと佇んでみせる。男が帰るとまたステップを踏む。
それはほんの小さな、けれど確かに刻んだ、世界と運命に対するエドゥアールの反抗であった。
***
デオダはまず、あのレイピアを売ることにした。
苦渋の決断ではあるが、黒檀の方はまだしもエドゥアールがオーダーした方は旅に出るにはあまりにも目立ち過ぎる。
埋め込まれた宝石を外して剣だけを売ったが、確かな仕事が宿る名品は、品不足の今、安くない価格で引き取られた。
おかげで路銀の心配はさほどない。屋敷を追い出される時、とっさに掴んだ二本のレイピアを見逃されたことは思った以上に幸運だった。
日が暮れるのを待ち、モンセルニュから出ていく馬車の荷台にひっそりと乗せてもらうことに成功した。
一日乗り続けてバグラドールを無事通り抜け、一息つく。ここからさらに小国を三つも通らねばならない。
いつになったら着くのか分からないが、待っている人がいる以上、一歩でも歩み続けるしかもう道はない。もはや迷いも恐れもない。
次の国の中ほどで乗換馬を借り、次の宿場町までを進む。ほとんど休みなく移動を続けたので、ここまで順調に進んでいる。
目的地まであと少しという時、やっとまともな休憩を取ることにした。
どういうわけか腹も減らないし眠くもなかったのだが、そうはいってもそろそろ体力の回復をしておくべきだ。
川の近くの草地を見つけ、辺りに毒草がないことを確認して馬を繋ぐ。
少し離れたところに狼避けの火を焚き、風の来ない斜面に体を預けてみると、気絶するように眠りに落ちた。
デオダは夢を見た。
天からいくつもの星々が落ちてきて、その一つが人型を成してふわりと目の前に降り立ち、手の甲を差し出す。
跪いて口付けしようとすると、金色の人は地面に頽れて苦しんで涙を流し、「俺は、お前を……」と言いかけた。
姿はふうっと消えてしまい、口付けは果たされず、辺りが闇に包まれる。
頬に涙が流れる感触がした。
早く、早く帰らなければ。これ以上あの人を泣かせてはならない。一刻も早く。
ふと違和感を覚えて目を開けると……、首元に短剣が突きつけられている。
「お前、ここで何をしている?」
その間にも別の人物に身体を弄られ持ち物を漁られている。
まずい。
宝石と指輪。それに黒檀のレイピアも。ここで盗られては何もかも台無しだ。あと少しなのに。
賭けに出るしかない。一か八か、本当のことを打ち明けてみるしか。
「……旅人だ。ウラニアへ向かっていた。ここが誰かのテリトリーだと知らなかった」
「嘘だろ……。おい……、見ろよ」
指輪を見つけた男が、短剣の男に報告する。
男は指輪に刻まれた文字とデオダの顔を交互に見比べて、剣を納めた。
「まさか……本物なのか……?」
「ここだ。入れよ」
彼らのアジトはすぐ近くにあった。
細かい場所を教えないための目隠しをはずされ、中にいた男は食事をくれた。肉の串焼き。何の肉か知らないが、久々の食事はとても旨い。ここまでの食糧確保についてはあまり考えていなかった。それよりも、ただ目的地に着くことだけを考えて。
「それで? 話してもらおうか。どうしてさっきは、何もしていないのに泣いていたのかを」
「……えっ?」
涙、しっかり見られていたのか。
「ビビって泣いたんだろ?」
「いいや違う、寝てる時から泣いてたぞ」
男たちはくすくす笑いながら好き勝手話した。
「あれは……、嫌な夢を見ていたんだ……」
全員に腹を抱えて笑われ、デオダは居た堪れず口を引き結んだ。
デオダは全て正直に話した。
一人息子だったデオダがまだ幼い頃に、病で父王が逝去した。
その後、父の弟に当たる叔父が「保護する」と称してデオダを王宮の外れの塔に幽閉したこと。
ほとぼりが冷めた数年後、そのまま秘密裏に毒殺されそうになり、父王に忠義の厚かった従者たちが連れ出してくれたこと。
追っ手がかかってとにかく逃げ惑ううち、従者は一人また一人と別れてしまい、最後は一人きりになった。
辿り着いたモンセルニュで、しばらくは隠れるようにして過ごした。食料は近くの森で調達し、夜は街の空き家で眠った。
数週間後、スリと間違われて捕まりそうになったところを、男が助けてくれた。彼は闘技場を開く夢があるそうで、その手伝いを続けながら訓練を積んだ。開場に漕ぎ着けたあと、通名を使うことと、兜で顔を隠すのを条件に自らも闘士として出るようになった。剣をレイピアに持ち替えた辺りで勝率が上がりだし、その頃にはすっかり成長していたので顔も出すようになった。
そしてその国の第三王子に拾われたが、いま政権が乗っ取られ、その彼が憂き目に遭っている、と。




