14 侵入者
この夜もエドゥアールは眠れなかった。
じわじわとした精神的疲れだけはあるが、体を横たえても気持ちは安らがず、却って明日への不安だけが募る。
あの頃は良かった。呼べばすぐデオダが来てくれて、最後はいつも同室にいてくれて、小さく寝息の聞こえたこともあった。
デオダだけが心の支えだったと今ならはっきりと分かる。それを無くした今は、もう何もない。いつの間にか、こんなにも頼ってしまっていた。
もう一度、あの日々が戻るなら。
せめて一日でも。
ガサッ……。
天蓋のカーテンをすっかり締めて真っ暗な闇に佇んでいたその時。
何やら物音がする。
恐る恐る部屋を覗くと、窓のある辺りからその音が聞こえているようだ。
屋敷は夜になると行動が取れないよう照明が消されてしまい、部屋も屋外も暗いので確認ができない。
侵入者だろうか。
しかしバグラドールの囲む屋敷に、誰が窓からなど入るのか……?
コンコンと窓を小さく叩く音がする。
思い切って窓のカーテンを少し開けてみると、一体どこをどうやって来たのか、さっきまで想像の中だけにいたデオダが窓の向こうで、人差し指を唇に当てている。
幻覚でも見ているのか?
いや、幻覚でも構わない。
慌ててバルコニーの鍵を開け、音を立てないよう合図して、ベッドの天蓋の中に立て膝をして引き入れた。
この部屋にプライバシーはなく、夜中も見張りが入ってきて異常がないか確認しにくるのだ。
カーテンを閉めて、顔を近づけてごく小さな声で呟きあう。
「ここの見張りも大したことはありませんね」
デオダが片眉を上げて得意げに微笑む。
「お前、無事だったのか……!」
「殿下もよくご無事で。……ああでも、少し疲れておられるようだ」
デオダはエドゥアールの両肩に手を添え、怪我や病気がないかを聞く。
「現在王宮は派兵軍に実質的に制圧されていて、燃料施設や通信網なども押さえられています。報酬の滞った我が国の兵では対抗もできません」
やはり外もそんなことになっていた。
これでは王宮も国民も身動きが取れそうもない。
「……お前、何か武器は持っていないか? 隠し持てるようなものを。この部屋には何もないのだ、自決することも許されない」
「そのような……! それだけはなりません。殿下が生きていて下さらないと、私は……。ああ、なんという、申し訳ありません。私に力がないばかりに……」
デオダが悲しげに首を振ると、エドゥアールは項垂れてベッドにぺたりと座り込んだ。
「そうか。いや、もしもの時の話だ。その手段があるというだけで気持ちの支えになるかと思った」
「私の敬愛する殿下は気高く、強い方です。どうかお気を強く持ってその時を待って下さい。少し時間はかかっても、私が必ず約束を果たします。貴方をお守りするとお誓いしました」
エドゥアールは力なく見上げ、デオダの腕に細い手を添えた。
「そんなこと……俺にできるかどうか。今でさえ情けなくもこんなに弱り果てているというのに。いつ来るか分からぬ希望を待つなど……。デオダ、俺を哀れに思うなら……、俺は生まれてきても良かったんだと思わせてくれないか。……ずっと思っていたんだ。でももう我慢する必要も理由も無くなってしまった。一度でいい、一晩でもいいんだ。俺は、俺はお前を……!」
「殿下、落ち着いて……。それ以上は何も仰らないで下さい。それではまるで今日が最後だと認めるようです……、そんなことは絶対にできません。私たちはまた必ず会えるのです。それまでどうか、どうか」
デオダはエドゥアールの手を取ってキスをした。
しかし、ぐったりとしたエドゥアールの目には力がない。
一人でずっと気を張っていたのに、一目デオダを見たらついにそれが全て崩れてしまった。
感情が、憔悴が、そして落胆が、溢れてきて止められない。
ふとデオダの手を見ると、バルコニーに辿り着くまでに無理でもしたのか、怪我をして指に血を滲ませている。
「お前、怪我を……。そうだ、血盟を交わそう。何もないよりはマシだ。俺と必ずまた会えると、誓ってくれるか?」
デオダは、エドゥアールが混乱状態にあると感じ、少し落ち着かせなければと感じた。
「……お誓いします、殿下」
言うが早いか、エドゥアールはデオダの人差し指を躊躇いなく口に含み、小さく吸った。
その弱々しさが指に直接伝わる。
弱々しい唇と舌があまりにも儚く、今にも消えてしまいそうな気さえした。
「お前も噛んでくれ。さあ」
エドゥアールが自分の人差し指を差し出す。
華奢で白い肌。絵筆を握り、子供を撫で、リュートを清らかに弾くための、美しく柔らかな指だ。これを守ることが自分の使命だったはず。
デオダは手を取り一旦はその指を見つめたが、それを噛むことなど彼には無理だった。
「できません、私には……」
その指を包むようにして握ってしまうと、エドゥアールは息を呑んで、恐怖したかのように目を瞠り、そのすみれ色の瞳はみるみるうちに潤んだ。
「そうか。……そうだな。お前が俺を傷つけるなどできるわけがない。それにできないことを誓える人間じゃないな。無理を言って悪かった、やはり俺は自己本位だ」
悲しく苦笑するエドゥアールが顔を背けると、白い首筋はこの短期間のうちに以前より細くなったようにも見える。
雪崩る黄金の髪も、少し艶を失っただろうか。
自分はこの人を安心させるために来たのであって、絶望を与えるために来たのではない……。
「口の中を……噛ませては頂けませんか。……きっと、すぐ治るはずですから」
エドゥアールははっとして振り向き、悲しく美しい微笑みを向ける。
「……許す」
デオダは手のひらでエドゥアールの後頭部を包み込むと、ゆっくりと口付けた。
そして唇の裏を舌で慎重に探り、やがてごく浅い表面を犬歯でほんの少し噛む。
エドゥアールがわずかに眉根を寄せたのを、目を閉じているデオダは知らない。
目尻から涙が一すじ零れたが、しかしこれは痛みのせいではなかった。
二人の口内に一瞬鉄の味が広がり、再会の誓いを交わす。
ベッドの天蓋が仕切る明かりのない小さな空間が、世界から二人だけを分かつように感じた。
ああ、どうか時よ、止まってくれ、どうか……。




