第9話 神狼を洗っただけなのに、宿が聖域化した
白狼亭は、午前中だけで別の建物みたいになった。
もちろん、まだ完全に直ったわけじゃない。
屋根は一部沈んでいる。
二階の客室は半分以上使えない。
裏庭は草だらけ。
井戸は濁っている。
階段も、油断すると一段だけ妙に不安な音を立てる。
それでも、昨日までの白狼亭とは明らかに違った。
食堂には人がいる。
厨房から湯気が上がる。
暖炉には火が灯り、椅子には村人が座り、子供たちが床を走るたびにミラさんが「走らない!」と叱る。
宿というのは、建物だけではないらしい。
人の声が入ると、途端に息を吹き返す。
「ルカさん、こっちのテーブルもお願いします!」
「はい」
「ルカ兄ちゃん、この椅子まだ座れる?」
「少し待て。今のままだと尻が床に落ちる」
「それはやだ!」
「私も嫌です」
「なんで兄ちゃんが嫌なんだよ」
「修繕士として」
そんなやり取りをしながら、俺は食堂の家具を直していった。
村の大工、ガランさんは屋根の状態を見てくれている。
ロザおばさんは本当に裏庭へ行き、鶏小屋の候補地を勝手に決め始めた。
村長は「まず道だな。宿までの道が悪い」と言いながら、杖で床を叩いていた。
なぜ宿の床を叩くのかはわからない。
そして白狼は、暖炉の前で寝たふりをしていた。
寝たふりだ。
なぜなら、子供たちが近づくと耳がぴくりと動くし、スープの匂いがすると鼻先が反応するし、トマが背中に乗ろうとすると尻尾で器用に押し返すからだ。
「白狼様、ちょっとだけ!」
「やめなさい、トマ。怪我してるんだぞ」
「でも絶対ふわふわだもん」
「それは否定しない」
白狼が金色の目で俺を見た。
否定しろ、と言っているようだった。
だが事実は事実だ。
昨夜、泥と血を少し拭っただけでもわかった。
この白狼の毛並みは、かなり上質だ。
いや、上質という言い方でいいのかはわからない。
神狼に対して毛布みたいな評価をしていいのか。
そんなことを考えていると、ミラさんが暖炉の前でしゃがみ込んだ。
「白狼様」
白狼が片目を開ける。
「傷はまだ痛みますか?」
白狼は答えない。
けれど、脇腹のあたりを少しだけ庇っている。
黒い呪いの煙は昨夜より薄くなった。
でも毛並みには泥と血が残り、傷の周りには固まった汚れが絡んでいる。
このままではよくない。
「洗った方がいいですね」
俺が言うと、白狼の耳がぴんと立った。
聞こえている。
「傷口の周囲を清潔にしないと、治りが遅くなります」
白狼は、すっと目を逸らした。
露骨に嫌そうだった。
ミラさんが口元を押さえる。
「もしかして、水が嫌いなんでしょうか」
「神狼でも水浴びは嫌なんですかね」
白狼は鼻を鳴らした。
馬鹿にするな、と言っている気がした。
だが立ち上がる気配はない。
嫌なのだ。
かなり嫌なのだ。
そこへトマが勢いよく手を挙げた。
「俺、洗うの手伝う!」
「トマが洗ったら遊びになりそうだから駄目」
「なんでだよ!」
「白狼様に乗ろうとした前科があるから」
「ちょっとだけだし!」
「ちょっとでも駄目」
ミラさんは即座に却下した。
白狼は少しだけ安心したように目を閉じる。
しかし俺は言った。
「どのみち洗います」
白狼の目が開いた。
「傷のためです」
白狼が低く唸る。
俺は正面から見返した。
「昨夜、あの黒い呪いを全部抜ききれませんでした。毛の奥に残った汚れにも、少し瘴気が混じっています。それを落とさないと、また傷に戻るかもしれない」
白狼の唸りが止まった。
ミラさんも真剣な顔になる。
「そんなに危ないんですか?」
「今すぐどうこうではありません。でも放置はできません」
「では、洗いましょう」
ミラさんはきっぱり言った。
「白狼様。嫌かもしれませんけど、これは宿の女将として譲れません」
白狼はミラさんを見た。
ミラさんも負けずに見返す。
「お客様には、きちんと休んでいただきます。怪我をしたお客様なら、なおさらです」
しばらく沈黙があった。
そして白狼は、深くため息のような息を吐いた。
了承したらしい。
「では、裏庭で」
「いや、待ってください」
俺は白狼の大きさを見る。
普通に洗うには、かなりの湯がいる。
厨房の鍋や桶では足りない。
「この宿、風呂場はありますか?」
ミラさんは少し困った顔をした。
「昔は湯殿があったらしいんですけど、今はほとんど使えません。裏手の小屋に古い浴槽が残っていますが、配管も壊れていて」
「見てもいいですか?」
「もちろんです」
俺たちは宿の裏手へ回った。
草をかき分けた先に、小さな木造の湯殿があった。
外壁は苔むし、扉は傾き、屋根は半分落ちかけている。
中を覗くと、石造りの浴槽があった。
広い。
大人が四、五人は入れそうな大きさだ。
ただし、底には落ち葉と土が溜まり、配水口は詰まり、壁の魔導加熱管は完全に沈黙している。
「これは……かなり壊れていますね」
ミラさんが申し訳なさそうに言う。
「直せそうです」
「本当ですか?」
「浴槽自体は生きています。石も割れていない。配管は詰まっていますが、流れを戻せば使えるかもしれません」
俺は浴槽の縁に手を当てた。
冷たい石の奥に、古い記憶が残っている。
旅人たちが湯に浸かる声。
子供が湯を跳ねさせて怒られる声。
湯気の向こうで、ミラさんの夫が薪を運んでいる姿。
『白狼亭は飯と湯だ。これがあれば旅人はまた歩ける』
いい言葉だ。
俺は浴槽をなぞった。
「戻れ」
淡い光が石の表面を走る。
こびりついた汚れが浮き、排水口の詰まりがほどけ、壁の加熱管に細い光が戻る。
ただし、完全ではない。
湯殿全体を直すには、時間がかかる。
今日は応急的に、湯を張れるところまでだ。
村の男たちにも手伝ってもらい、水を運び、薪をくべる。
俺が加熱管の流れを整えると、しばらくして浴槽から湯気が上がり始めた。
「湯が出た……」
ガランさんが呆然と呟く。
「昔の湯殿だ」
「まだぬるいですが、洗うには十分です」
「いや、十分どころじゃないぞ兄ちゃん。これが直ったら、宿の目玉になる」
「温泉ではありませんよ?」
俺が言うと、村長が目を細めた。
「昔、この裏手には温かい水脈があると言われておった。白狼亭の湯は、ただの沸かし湯ではないと聞いたことがある」
「温かい水脈?」
「まあ、今は枯れたとも言われておるが」
気になる話だった。
ただ、今は白狼だ。
俺たちは食堂へ戻り、白狼を裏手へ誘導した。
白狼は本当に嫌そうだった。
一歩進むたびに、金色の目でこちらを睨む。
「大丈夫です。暴れなければすぐ終わります」
俺が言うと、白狼は鼻を鳴らした。
暴れるつもりはないが納得もしていない、という顔だ。
湯殿の前に来ると、子供たちがぞろぞろついてきていた。
トマを筆頭に、全員目を輝かせている。
「見たい!」
「白狼様のお風呂!」
「絶対もふもふになる!」
「駄目です」
ミラさんが仁王立ちした。
「白狼様もお客様です。入浴を覗いてはいけません」
「狼なのに?」
「狼でもです」
子供たちは不満そうだったが、ロザおばさんにまとめて回収された。
白狼は少しだけミラさんを見る。
今のは感謝しているのかもしれない。
湯殿に入った白狼は、浴槽の前で立ち止まった。
でかい。
浴槽に入れるのか、少し不安になる。
「足だけでも」
俺が言うと、白狼はしぶしぶ前脚を湯に入れた。
そして、ぴたりと動きを止めた。
金色の目が少し丸くなる。
「どうしました?」
ミラさんが尋ねる。
白狼は、もう片方の前脚も湯に入れた。
それからゆっくり、全身を浴槽へ沈める。
湯が大きく揺れた。
白い毛がふわりと広がる。
白狼は目を閉じた。
気持ちよさそうだった。
「水は嫌いだけど、お湯は好きなんですね」
俺が言うと、白狼は目を閉じたまま尻尾で湯を叩いた。
ばしゃん、と派手に湯が飛ぶ。
俺の服が濡れた。
「……訂正します。お湯はかなり好きそうです」
ミラさんが笑いをこらえている。
それから俺たちは、白狼の毛並みを洗った。
泥を落とし、血を落とし、傷の周りを丁寧に拭う。
ミラさんは怖がることなく、白狼の首元を洗っている。
「すごい毛並み……本当に雲みたい」
「トマと同じ感想ですね」
「悔しいですけど、あの子の表現は正しかったです」
白狼は目を閉じ、されるがままだった。
時々、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
神狼の威厳はどこへ行ったのか。
だが、洗っているうちに変化が起きた。
白狼の毛並みから、黒い煙のようなものが薄く浮き上がり、湯の中で消えていく。
汚れが落ちるたび、白い光が戻ってくる。
脇腹の傷も、昨夜より明らかに穏やかになっていた。
「瘴気が抜けている……」
俺は傷の周りに手を当てた。
昨夜は黒い呪いに押されていた白狼本来の力が、今は少しずつ流れ始めている。
湯殿の石が、その力に反応していた。
浴槽の底から、淡い光が立ち上る。
「ルカさん、これ……」
「俺は何もしていません」
いや、正確には少し直した。
だが、この光は俺の修復の光ではない。
もっと古い。
もっと柔らかい。
宿そのものに眠っていた力だ。
白狼がゆっくりと目を開けた。
金色の瞳が、浴槽の底を見る。
すると、湯殿の壁に刻まれていた古い紋様が次々と浮かび上がった。
白狼。
炎。
湯気。
旅人の杖。
森の木々。
これは魔除けではない。
癒しの紋様だ。
白狼亭の湯殿は、ただ体を洗う場所ではなかった。
旅人の疲れや、森の瘴気を落とすための聖域だったのだ。
「ミラさん」
「はい」
「この宿、本当に普通の宿じゃありません」
「最近、そればっかりですね」
「でも事実です」
湯気がふわりと広がる。
その湯気が湯殿の隙間から外へ流れ、宿の方へ向かった。
白狼亭の看板が、かすかに光る。
暖炉の火が強くなる気配がした。
遠くで村人たちがざわめく声が聞こえる。
「おい、空気が変わったぞ」
「なんか、森の匂いが薄くなった?」
「体が軽い……」
「腰が、少し楽だわ」
ロザおばさんの声がした。
腰痛にも効いたのか。
聖域すごいな。
湯から上がった白狼は、見違えるようになっていた。
泥と血に汚れていた毛は、月明かりを閉じ込めたような白さを取り戻している。
傷はまだ残るが、黒い煙はほとんど消えた。
ただ問題が一つ。
濡れた白狼は、かなり細く見えた。
「……思ったより細いですね」
俺が呟いた瞬間、白狼が俺を睨んだ。
そして全身を震わせた。
ぶるるるるっ。
大量の水しぶきが飛ぶ。
俺は頭から湯をかぶった。
ミラさんもエプロンまでびしょ濡れになった。
「白狼様!」
ミラさんが叫ぶ。
白狼は、どこか満足そうに湯殿を出ていった。
絶対にわざとだ。
俺は濡れた前髪をかき上げた。
「……元気になったようで何よりです」
「そうですね」
ミラさんは濡れたエプロンを見下ろし、それから吹き出した。
俺もつられて笑った。
その時だった。
湯殿の外から、低い唸り声が響いた。
白狼の声だ。
だが今度は、さっきまでの不満ではない。
警戒。
俺とミラさんは顔を見合わせ、すぐに外へ出た。
裏庭の先。
森へ続く草むらに、一人の少女が立っていた。
灰色の短い髪。
獣の耳。
細い体。
粗末な外套。
獣人の少女だ。
年は十四、五くらいか。
彼女は白狼を見て、金色に近い瞳を見開いていた。
「……白狼様」
その声は震えていた。
白狼が一歩前へ出る。
少女は俺たちを睨んだ。
「人間」
短い言葉。
だが敵意がある。
「白狼様に、何をした」
ミラさんが慌てて言う。
「待って。私たちは傷の手当てを――」
「嘘」
少女は低く唸った。
「人間は森を壊す。白狼様を傷つける。宿も、人間の匂いが強くなった」
白狼が少女へ近づく。
そして、濡れた鼻先を彼女の額に軽く押し当てた。
少女の表情が揺れる。
「白狼様……?」
白狼は静かに目を閉じた。
まるで、大丈夫だと伝えているようだった。
少女はそれでも俺たちを警戒したまま、拳を握った。
「私はノア。森の番人」
彼女は白狼の前に立つようにして言った。
「白狼様を利用するなら、許さない」
白狼亭に、また一人、訳ありの気配をまとった客が現れた。
いや、客というより監視役かもしれない。
どちらにせよ、俺は濡れた服のまま思った。
この宿、本当に退屈する暇がない。




