第8話 白狼亭、勝手に再開する
玄関の外には、村人たちが集まっていた。
子供が五人。
大人が十数人。
杖をついた老人が二人。
なぜか鶏を抱えたおばさんが一人。
そして、その中心で胸を張っているのは、朝食を食べて走っていったトマだった。
「見ろよ! 言っただろ! 白狼亭、ほんとに開いてるんだって!」
「トマ、あなたまた勝手なことを言って……」
ミラさんが額に手を当てる。
けれど、村人たちの視線はもう宿に釘付けだった。
直った看板。
煙を上げる煙突。
磨かれ始めた窓。
そして暖炉の前に横たわる、巨大な白狼。
「お、おい……あれ、本物か?」
「白狼様じゃ……」
「いやいや、白狼様なんて昔話だろ」
「でも、どう見ても白い狼だぞ」
「でかすぎるだろ。馬より強そうだぞ」
村人たちがざわざわする。
白狼は暖炉の前で片目だけ開け、面倒くさそうにこちらを見た。
完全に「騒がしい」と言っている顔だった。
神狼なのに、表情がわかりやすすぎる。
「皆さん、あの、今日はまだ正式な営業再開ではなくてですね……」
ミラさんが慌てて説明しようとする。
しかし、鶏を抱えたおばさんが一歩前に出た。
「ミラちゃん」
「はい、ロザおばさん」
「宿、またやるのかい?」
直球だった。
ミラさんは一瞬、言葉に詰まった。
村人たちが静かになる。
昨日までの白狼亭は、村の外れにある壊れかけの建物だった。
かつて名宿だったが、今はもう終わった場所。
みんな、そう思っていたのだろう。
だからこそ、看板が直り、暖炉の煙が上がっただけで集まってきた。
期待している。
心配している。
半信半疑で見ている。
その全部が、ミラさんに向けられていた。
ミラさんはエプロンの端を握った。
昨日までなら、きっと曖昧に笑ってごまかしただろう。
でも今朝、彼女は言った。
この宿を開けたい、と。
「……はい」
ミラさんは顔を上げた。
「まだ、全部は直っていません。お部屋も足りません。料理もたくさんは出せません。でも」
暖炉の火が、ぱち、と鳴った。
「私は、白狼亭をもう一度やりたいです」
村人たちは黙っていた。
ミラさんの声は大きくない。
けれど、不思議とよく通った。
「夫が守っていた宿です。祖父の代から続いてきた宿です。私一人では無理だと思っていました。でも……」
彼女はちらりと俺を見る。
続いて暖炉の前の白狼を見る。
「帰ってきてくれた人たちがいます。だから、もう一度だけ頑張りたいんです」
白狼が鼻を鳴らした。
人ではない、と言いたそうだった。
そこに、杖をついた老人が一歩前に出た。
村長だろうか。
白い髭をたくわえた、小柄な老人だった。
「ミラ」
「村長さん」
「わしらは、ずっと見て見ぬふりをしておった」
老人は、白狼亭の屋根を見上げた。
「この宿が傷んでいくのも、お前さんが一人で無理をしておるのも知っていた。だが、手を貸せば余計なお世話かもしれん。もう畳みたいのかもしれん。そう言い訳して、誰も深く踏み込まなんだ」
「そんな……村長さんたちは悪くありません」
「悪いさ」
村長は静かに首を振った。
「白狼亭は、この村の灯りじゃった。旅人が来れば村に金が落ちる。噂が広まれば商人が寄る。冬の夜、森で迷った者が助かったことも一度や二度ではない。わしらは、この宿に世話になっておった」
村人たちが、気まずそうに視線を下げる。
「だから、もう一度やると言うなら、今度は見ておるだけではいかん」
村長は杖を床に、とん、とついた。
「皆、何か持ってきたな?」
その言葉で、村人たちが一斉に動いた。
「うちは卵だよ。今朝産みたて」
「こっちは干し肉を少し」
「古いけど、まだ使える毛布がある」
「大工道具なら貸せるぞ」
「俺、薪割りできる!」
「俺も!」
「トマはまず椅子にぶつからない練習からだね」
「なんでだよ!」
玄関先が、一気に賑やかになった。
ミラさんは目を丸くしていた。
まるで、何が起きているのかわからないという顔で。
ロザおばさんが鶏を抱えたまま、ずいっと近づいてくる。
「ミラちゃん、この子も置いていくよ」
「えっ、鶏をですか?」
「卵が必要だろう?」
「ありがたいですけど、宿で鶏を……?」
「裏庭があるじゃないか」
「ありますけど、あそこは草だらけで」
「草くらい鶏が喜ぶよ」
鶏が、こけ、と鳴いた。
白狼が片目を開ける。
鶏と白狼の目が合った。
数秒の沈黙。
鶏が、すっとロザおばさんの腕の中に顔を隠した。
「……相性は考えた方がいいかもしれません」
俺が言うと、ロザおばさんは豪快に笑った。
「大丈夫だよ。白狼様なら鶏なんて食べないさ」
白狼は不満そうに鼻を鳴らした。
たぶん、食べようと思えば食べる、という顔だった。
「ルカさん」
ミラさんが小声で俺に言う。
「どうしましょう」
「受け取りましょう」
「でも、お返しが」
「宿を直して、料理を出せるようになれば、それがお返しになります」
「……そうですね」
ミラさんは一度深く息を吸った。
そして村人たちに向き直る。
「皆さん、ありがとうございます」
頭を下げる彼女に、村人たちは照れたように笑った。
それから白狼亭は、正式な営業再開前にもかかわらず、完全に作業場になった。
男たちは屋根の状態を見に行き、女性たちは厨房で食材を整理し、子供たちは薪を運ぶ。
村長は食堂の一番奥に座り、なぜか全体の指揮を取り始めた。
ミラさんは厨房と食堂を行ったり来たりしながら、何度も「すみません」「ありがとうございます」を繰り返している。
俺は食堂の椅子を直し続けた。
一脚、また一脚。
ぐらついた脚を戻し、割れた背もたれを繋ぎ、座面の歪みを整える。
村の大工だという男が、横で俺の作業を見ていた。
「兄ちゃん、釘も打たずにどうやって直してるんだ?」
「木が覚えている形に戻しているだけです」
「だけ、って言うには変な光が出てるが」
「よく言われます」
「王都の魔術師か?」
「元宮廷修繕士です」
「宮廷? そんなすごい人がなんでこんな辺境に」
「追放されました」
「王都の連中、目が節穴か?」
この村の人たちは、王宮に対する評価がかなり厳しい。
俺としては少しだけ気分がいい。
いや、かなりいい。
「じゃあ兄ちゃん、屋根も直せるか?」
「状態次第です」
「ひどいぞ」
「なら、見ます」
「いや、先に椅子だな。客が座れなきゃ飯も食えん」
「同感です」
大工の男はにやりと笑い、折れた椅子を運んできた。
「これはいけるか?」
「いけます」
「これは?」
「いけます」
「これは?」
「……これは薪にした方がいいです」
「そこは正直なんだな」
椅子にも限界はある。
完全に腐った木は、元に戻すより別の役目を与えた方がいい。
俺がそう説明すると、大工の男は妙に感心した顔をした。
「修繕ってのは、全部直すことじゃないんだな」
「たぶん、そうです」
「たぶんか」
「ミラさんには禁止されています」
「はっはっは! いい宿になりそうだ」
昼前には、食堂の椅子が十二脚使えるようになった。
テーブルも三つ。
床板も危ない箇所はかなり減った。
厨房からは、野菜スープの匂いが漂ってくる。
ミラさんが朝のスープを増やし、村人たちが持ち寄った野菜や豆を足したらしい。
予定外の炊き出しのようになっていた。
「皆さん、お昼に少しだけスープを出します!」
ミラさんが声を張る。
村人たちから歓声が上がった。
「白狼亭のスープだ!」
「何年ぶりだ?」
「俺、子供の時以来かもしれん」
「ミラちゃんの料理は亡くなった旦那に似てるんだよな」
その言葉に、ミラさんの手が一瞬止まる。
でも、今度は泣かなかった。
彼女は木べらを握り、鍋をゆっくりかき混ぜた。
「似ているだけじゃなくて、ちゃんと私の味にします」
そう言った声は、小さいけれど強かった。
食堂に、村人たちが順番に座る。
さっき直した椅子が、誰かを支えている。
テーブルの上に、木の器が並ぶ。
暖炉の火が揺れ、白狼はその前で丸くなっている。
子供たちは白狼に触りたくて仕方がないようだったが、村長が「一人ずつ、礼をしてから」と謎の決まりを作った。
「白狼様、触ってもいいですか!」
子供たちが順番に頭を下げる。
白狼は面倒そうにしながらも、拒まない。
トマが得意げに言った。
「ほらな! 雲みたいだろ!」
「ほんとだ!」
「すげぇ!」
「白狼様、あったかい!」
白狼の尻尾が少し揺れる。
案外、嫌ではなさそうだった。
食堂にスープが配られる。
村人たちはひと口飲んで、次々に表情を変えた。
「……これだ」
誰かが呟いた。
「白狼亭の味だ」
ミラさんは厨房の入口で立ち尽くしていた。
その顔は、泣きそうで、嬉しそうで、少し怖がっているようでもあった。
俺は近づいて、小さく言った。
「戻ってきていますね」
「はい」
「でも、全部昔のままじゃなくていいと思います」
ミラさんが俺を見る。
「この宿は、今のミラさんの宿です」
彼女は目を伏せた。
そして、木べらを胸の前で握る。
「……はい」
その時、二階から小さな物音がした。
俺は顔を上げた。
エリスの部屋だ。
ミラさんも気づいたらしく、すぐに表情を引き締める。
「見てきます」
「俺も」
村人たちには、二階の客のことをまだ話していない。
公爵令嬢がいるなどと知られれば、大騒ぎになる。
俺とミラさんは二階へ上がった。
客室の扉を軽く叩く。
「エリスさん、入ります」
返事はなかった。
扉を開けると、エリスはベッドから起き上がろうとしていた。
顔色はまだ悪い。
それなのに、窓の外をじっと見ている。
「まだ寝ていてください」
俺が言うと、エリスは振り返った。
「下が賑やかね」
「村人たちが来ています」
「追っ手ではなく?」
「今のところは」
「そう」
エリスは少し安心したように息を吐いた。
だが、その目は鋭い。
ただの病人の目ではない。
「この宿、もう人を集め始めているのね」
「勝手に集まってきました」
「それは強い場所の証拠よ」
「強い場所?」
「人が集まる場所は、守る価値が生まれる。商売も、情報も、信頼も、全部そこに流れる。王都の貴族たちは、そういう場所を欲しがるわ」
さすが公爵令嬢。
寝起きでも視点が政治的だ。
ミラさんは少し困ったように笑った。
「うちは、そんな大層な宿じゃありませんよ」
「今はね」
エリスは窓の外に視線を戻した。
村人たちが、宿の前で薪を積み、屋根を見上げ、笑いながら動き回っている。
「でも、こういう場所は一度火が灯ると早いわ。特に、道と水と食事が整えば」
「道と水……」
俺はその言葉を覚えた。
白狼亭を本当に再開するなら、宿だけ直しても足りない。
村へ続く道。
水場。
井戸。
馬車置き場。
薪小屋。
客室。
直すべきものは山ほどある。
「エリスさんは、宿経営に詳しいんですか?」
「直接は知らないわ。でも領地経営なら少し」
「少し」
「王都基準での少しよ。辺境なら、たぶん役に立つ」
エリスは少しだけ得意げに言った。
昨日まで死にかけていた人とは思えない。
ミラさんがくすっと笑った。
「では、元気になったら相談に乗ってください」
「ええ。その代わり」
「代わり?」
「下のスープを一杯、もらえるかしら」
エリスは真面目な顔で言った。
「匂いだけで、さっきからお腹が鳴りそうなの」
その瞬間。
ぐう、と小さな音がした。
エリスの顔が赤くなる。
「……今のは、ベッドの音よ」
「ベッドは昨日直したので鳴りません」
「ルカ」
「すみません」
ミラさんが耐えきれず笑った。
エリスは恥ずかしそうに睨んできたが、その目には少しだけ元気が戻っていた。
「すぐ持ってきますね」
ミラさんが部屋を出る。
俺も続こうとした時、エリスが小さく呼び止めた。
「ルカ」
「はい」
「下にいる村人たちに、私のことは」
「言いません」
「ありがとう」
エリスは首飾りを握った。
昨日、追跡具から護符へ戻した母の形見。
「でも、隠れているだけでは終わらせないわ」
「ええ」
「父を殺した犯人を見つける。家も取り戻す。そのためには、証拠がいる」
「首飾りの記憶ですね」
「お願いできる?」
「護符が安定したら、試します」
エリスは静かにうなずいた。
「それまでは、私はこの宿の客でいる」
「はい」
「でも、ただの客ではいないわ。役に立てることはする」
「ではまず、休むことから」
「……あなた、意外と頑固ね」
「よく言われます」
俺は部屋を出た。
一階へ戻ると、白狼亭はさらに賑やかになっていた。
村人たちはスープを飲み、子供たちは白狼の毛並みに感動し、大工の男は屋根修理の段取りを話している。
ロザおばさんは裏庭に鶏小屋を作ると言い出している。
村長は当然のように、食堂の隅で次の会議を始めていた。
昨日まで壊れかけていた宿が、今日は人の声で満ちている。
俺はその光景を見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
王宮では、どれだけ直しても誰も気づかなかった。
ここでは、椅子が直れば誰かが座る。
鍋が使えれば誰かが食べる。
暖炉が灯れば、みんなが集まる。
修繕の先に、人の顔が見える。
たぶん俺は、こういう仕事がしたかったのだ。
「ルカさん!」
ミラさんが厨房から呼ぶ。
「はい」
「すみません、鍋の底が少し焦げつきそうで!」
「今行きます」
「あと、トマが白狼様に乗ろうとしています!」
「それは止めます」
白狼の低い唸り声。
トマの「ちょっとだけ!」という声。
村人たちの笑い声。
ミラさんの慌てる声。
エリスの部屋へ運ぶスープの湯気。
そして、白狼亭の看板が風に揺れる音。
白狼亭は、まだ正式には再開していない。
でも、もう動き始めていた。
俺は工具巻きを腰に下げ直し、食堂へ駆けた。
直すものは山ほどある。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少し楽しかった。




