第7話 壊れた首飾りを外したら、令嬢の涙がこぼれた
エリス・レイヴェル。
その名を聞いた瞬間、俺の頭の中に王宮で見た貴族名簿が浮かんだ。
レイヴェル公爵家。
王都の南側に広大な屋敷を持ち、代々、王国の財務と法務に深く関わってきた名家だ。
当主は厳格だが公正。
娘は才女。
王太子妃候補の一人。
そんな噂を、王宮の廊下で何度か耳にしたことがある。
その公爵令嬢が、今は白狼亭の古い客室で、泥に汚れたまま横になっている。
父を毒殺した罪で追われている、と言った。
だが本人は、殺していないと。
そして首には、外せば爆ぜる追跡具。
どう考えても、普通の宿に転がり込む客ではない。
でも白狼亭の女将は、迷わず言った。
困ったお客様を追い出しません、と。
なら俺も、やることは一つだった。
「首飾りを見せてもらいます」
俺がそう言うと、エリスはベッドの上でわずかに身を固くした。
「外せるの?」
「たぶん」
「たぶん、で触るには危険すぎるわ」
「王宮の魔導具も、だいたい“たぶん”から始まります」
「王宮、大丈夫なの?」
「今日、西塔が壊れかけました」
「大丈夫じゃないじゃない」
エリスは疲れた顔で、それでも少し呆れたように言った。
その反応が妙に普通で、少し安心した。
人は本当に追い詰められると、冗談に呆れる余裕すらなくなる。
彼女はまだ、ぎりぎりで踏みとどまっている。
ミラさんが椅子をベッドのそばへ運んだ。
昨日直した椅子だ。
こういう時、きしまずに支えてくれる椅子は頼もしい。
「ルカさん、私は何をすればいいですか?」
「エリスさんの肩を支えていてください。痛みが出るかもしれません」
「わかりました」
「あと、もし俺が急に黙ったり変な顔をしたりしても、慌てないでください」
「それはいつもでは?」
「ミラさん」
「すみません。ちょっと緊張をほぐそうと」
エリスが小さく笑った。
ほんの少しだけ、部屋の空気が柔らかくなる。
俺はベッド脇の椅子に座り、エリスの首元へ目を向けた。
銀の首飾り。
細い鎖に、小さな紋章入りの飾りがついている。
一見すると公爵家の護符だ。
高貴な令嬢が身につけていても不自然ではない。
だが、俺の目には違うものが見えていた。
鎖の継ぎ目に刻まれた追跡式。
飾りの裏に仕込まれた拘束術式。
そして、中心部にある小さな赤い魔石。
この魔石が厄介だ。
無理に外せば、術式が反応する。
追跡信号を強く発し、同時に首飾りの周囲へ魔力衝撃を起こす仕組みになっている。
爆ぜる、とエリスが言ったのは、おそらくそのせいだ。
「誰がこれを?」
「義兄よ」
エリスの声が冷えた。
「父が倒れた夜、私が混乱しているところへ来て、“君を守るためだ”と言ってこれを着けたの」
「義兄?」
「父の弟の子。養子として公爵家に入った人。名はディオン」
ミラさんが眉をひそめる。
「その方が、エリス様を?」
「様はいらないわ。今の私は追われている身だもの」
「では、エリスさん」
「ええ」
エリスは一度目を伏せた。
「ディオンはずっと、父に認められたがっていた。でも父は、家督を私に継がせるつもりだった。女の私に」
「それで、毒殺の罪を?」
「たぶんね。証拠は全部、私に向くように作られていた。父の薬杯に触れたのは私。毒瓶が見つかったのも私の部屋。逃げようとしたとされる馬車も、あらかじめ用意されていた」
「用意周到ですね」
「ええ。悔しいくらいに」
エリスは唇を噛んだ。
「でも私は、父を殺していない。父は厳しい人だったけれど、私を信じてくれていた。家を任せると言ってくれた。そんな父を……私が殺すはずがない」
声が震えていた。
怒りか、悲しみか。
たぶん、両方だ。
俺は首飾りに視線を戻した。
「これをつけられた後、逃げたんですか?」
「正確には、逃がされたの。使用人の一人が、夜中に地下馬車を用意してくれた。だけど途中で追跡具が反応して、保安局に見つかった。御者は私をかばって……」
そこで言葉が途切れた。
馬車の御者。
彼女が首飾りを外そうとした時、爆ぜたと言っていた。
つまり、すでに犠牲が出ている。
この小さな首飾り一つで。
「外します」
俺は静かに言った。
「ただし、壊すのではなく、直します」
エリスが俺を見る。
「追跡具を直すの?」
「正確には、本来の役割へ戻します」
「本来の役割?」
「これ、元は護符です」
俺は首飾りの紋章部分を指先で示した。
「たぶん、レイヴェル家に代々伝わる守護の首飾りだったはずです。そこへ後から追跡と拘束の術式が上書きされている」
エリスの目が見開かれた。
「……それは、母の形見よ」
部屋が静かになった。
ミラさんが息を呑む。
「母が亡くなる前に、私へくれたもの。小さい頃からずっと身につけていた。ディオンに奪われて、術式を刻まれて……」
「だから、壊したくない」
「……ええ」
エリスはかすかに笑った。
痛々しい笑みだった。
「でも、命には代えられないわ。必要なら壊して」
「壊しません」
俺は即答した。
王宮では、効率のために古い魔導具を捨てろと言われることがあった。
新しいものに変えればいい。
古いものは不安定だ。
誰が使ったかもわからない過去の品に価値はない。
そう言われるたび、俺は少しだけ腹が立っていた。
古いものには、古いものが積んできた時間がある。
誰かが触れた跡。
誰かを守った記憶。
誰かが手放せなかった理由。
それを見ずに、壊して捨てるのは違う。
「これは、お母さんの護符に戻します」
エリスの喉が小さく動いた。
「……できるの?」
「やります」
俺は右手を首飾りへ近づけた。
昨夜、白狼の呪いを受けた手には、まだ薄く黒い筋が残っている。
ミラさんがそれに気づき、不安そうな顔をした。
「ルカさん、無理は」
「無理はしません」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん禁止です」
真顔で言われた。
俺は少しだけ笑ってから、首飾りに触れた。
瞬間、鋭い痛みが指先に走る。
術式が反応した。
赤い魔石が淡く光り、鎖全体に細い魔力の棘が走る。
エリスが苦しそうに眉を寄せた。
「痛む?」
「少し……でも大丈夫」
「大丈夫ではない時も、人は大丈夫と言います」
「あなたが言う?」
「よく言われます」
俺は息を整え、首飾りの奥へ意識を沈めた。
物の記憶を探る。
銀細工師の手。
柔らかな布の上に置かれた首飾り。
赤ん坊のエリスを抱く、優しい女性。
『この子を守ってね』
女性の声。
たぶん、エリスの母親。
彼女は首飾りに唇を寄せ、小さな祈りを込めた。
『怖い夜にも、独りだと思わないように』
幼いエリスが泣いている。
母親が首飾りを握らせる。
『大丈夫。これはお母様の代わりに、あなたを守ってくれるわ』
少し成長したエリスが、庭で転んで膝を擦りむいている。
首飾りが淡く光り、小さな傷を和らげる。
さらに記憶が進む。
病床の母親。
少女のエリスが泣いている。
『エリス。あなたは強くなりなさい。でも、強い人ほど、誰かに助けてと言っていいの』
『いやです。お母様も一緒にいて』
『この首飾りは、あなたが本当に困った時、あなたを守る人のところへ導いてくれる』
そこで記憶が濁った。
黒いインクを垂らされたように。
ディオンと思われる男の手。
冷たい指。
魔導針。
赤い魔石への上書き。
守護式の上に、追跡式が刻まれていく。
『君を守るためだよ、エリス』
嘘の声。
首飾りが苦しんでいる。
守りたいのに、縛る道具に変えられている。
導きたいのに、追わせるために使われている。
「……ひどいな」
思わず声が漏れた。
「何が見えたの?」
エリスが尋ねる。
「お母さんの記憶です」
彼女の目が揺れた。
「母の……?」
「この首飾りは、あなたを縛るための物じゃない。あなたが本当に困った時、守ってくれる人のところへ導くための護符です」
「守ってくれる人……」
「だから、ここに来たのかもしれません」
白狼亭へ。
壊れた宿へ。
追放された修繕士と、宿を守る女将と、傷ついた白狼のいる場所へ。
偶然にしては、出来すぎている。
でも物には、時々そういうことがある。
持ち主の願いを、長い時間をかけて覚えていることが。
「これから、上書きされた術式だけを剥がします」
「剥がす?」
「古い壁紙を剥がすようなものです。ただし下地を傷つけると全部崩れます」
「怖い例えね」
「俺も怖いです」
「そこは安心させて」
「なるべく丁寧にやります」
エリスは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく息を吐いた。
「不思議。王都の高名な魔導師より、あなたの“なるべく丁寧”の方が安心する」
「光栄です」
俺は首飾りに集中した。
まず追跡式の外周を止める。
魔力の流れを逆に押し返すのではなく、流れ込む先を別の場所へ逃がす。
赤い魔石が光を強めた。
爆発の前兆。
ミラさんがエリスの肩を支える。
「大丈夫です。ゆっくり息をしてください」
ミラさんの声は穏やかだった。
昨日、亡き夫の記憶に泣いていた人が、今は追われる令嬢を支えている。
宿の女将というのは、強い仕事なのかもしれない。
俺は鎖の継ぎ目をなぞった。
追跡式。
拘束式。
衝撃式。
三つが絡み合っている。
どれか一つを雑に切れば、残りが暴発する。
なら、切るのではなく、ほどく。
「戻れ」
淡い光が指先から広がる。
銀の表面に刻まれた黒い文字が、少しずつ浮き上がった。
まるで汚れが水に溶けるように。
赤い魔石が震える。
エリスの喉から、苦しそうな声が漏れた。
「エリスさん、俺の声を聞いてください」
「……ええ」
「首飾りに残っている、お母さんの言葉を思い出してください」
「母の……」
「怖い夜にも、独りだと思わないように」
エリスの目が大きく開いた。
涙がにじむ。
「それ……母が……」
「この首飾りが覚えています」
「お母様……」
「あなたが本当に困った時、あなたを守る人のところへ導いてくれる。そう言っていました」
その瞬間、首飾りの中心から柔らかな光が広がった。
赤い魔石の色が変わる。
血のような赤から、温かな琥珀色へ。
追跡式の黒い文字が、ぱらぱらと剥がれ落ちるように消えていく。
鎖に走っていた魔力の棘が抜けた。
部屋の空気がふっと軽くなる。
「外します」
俺は金具に手をかけた。
今度は抵抗がない。
かちり、と小さな音を立てて、首飾りが外れた。
エリスはしばらく呆然としていた。
首元に手を当てる。
そこには、長く締めつけられていた跡が赤く残っている。
だが、追跡の光は消えていた。
「……外れた」
ミラさんが息を吐いた。
「外れましたね」
俺は首飾りを手のひらに乗せた。
術式は完全には消えていない。
だが追跡と拘束の部分は剥がせた。
護符本来の守護式だけが、弱く残っている。
これなら、もう彼女を縛らない。
「はい」
俺は首飾りをエリスに差し出した。
「お母さんの護符です」
エリスは震える手でそれを受け取った。
壊れ物を扱うように。
いや、本当に大事なものを取り戻した人の手つきで。
彼女は首飾りを胸に抱いた。
そして、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「……もう、壊されたと思ってた」
声が震えている。
「母の形見なのに。父を殺した証拠みたいに扱われて。首にあるだけで、ずっと苦しくて」
ミラさんがそっと彼女の背に手を添えた。
「もう大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ」
エリスは泣きながら首を振った。
「父は死んだ。私は罪人にされた。家は奪われた。逃げてきた御者も、私のせいで……」
「それでも、今はここにいます」
ミラさんの声は優しかった。
「ここは宿です。まずは温かいものを食べて、眠ってください。泣くのは、その後でもできます」
「……変な宿ね」
「よく言われます」
それは俺の台詞だった。
だがミラさんが先に言ったので、俺は黙っておいた。
エリスは涙を拭い、首飾りを見つめた。
「ルカ」
「はい」
「あなた、本当にただの修繕士なの?」
「たぶん」
「たぶん禁止だそうよ」
「はい。ミラさんに言われました」
エリスは泣いた後の顔で、少しだけ笑った。
「ありがとう」
その一言は、とても静かだった。
でも、王宮で受け取ったどんな褒賞よりも重かった。
俺は少し照れくさくなり、視線を逸らした。
「まだ終わっていません」
「え?」
「首飾りの術式を剥がした時、少しだけ記憶が残っていました」
エリスの表情が変わる。
「記憶?」
「ディオンが術式を刻んだ時の記憶です。もしかすると、そこに冤罪の手がかりがあるかもしれない」
エリスは息を呑んだ。
「見えるの?」
「今は断片だけです。首飾りが弱っているので、これ以上無理に見ると護符が傷む」
「なら、やめて」
エリスは即答した。
「証拠は欲しい。でも、この子をまた傷つけたくない」
この子。
首飾りをそう呼んだ。
俺はうなずいた。
「では、しばらく休ませます。護符として安定すれば、必要な記憶を取り出せるかもしれません」
「そんなことまで……」
「保証はできません」
「でも、可能性はあるのね」
「はい」
エリスは首飾りを握りしめ、静かに目を閉じた。
「なら、私はまだ戦える」
その声には、さっきまでの弱さとは違うものがあった。
折れかけた剣が、もう一度鞘から抜かれるような響き。
公爵令嬢エリス・レイヴェル。
ただ守られるだけの人ではないらしい。
その時、階下から大きな音がした。
どん。
続いて、白狼の低い声。
敵かと思い、俺は身構えた。
だがすぐに、別の声が聞こえた。
「ミラ姉ちゃーん! 村のみんな連れてきたー!」
トマの声だった。
嫌な予感がした。
ミラさんが窓から外を見る。
そして固まる。
「……ルカさん」
「はい」
「村の人たちが、すごくたくさん来ています」
「何人くらい?」
「宿が再開したと思っている人数くらいです」
それはかなり多そうだった。
俺は額に手を当てた。
「椅子、まだ八脚しか直してません」
「厨房も朝食の残りしかありません」
「客室も一部屋しかまともに使えません」
ベッドの上で、エリスが小さく言った。
「本当に大丈夫なの、この宿」
ミラさんと俺は、顔を見合わせた。
そして同時に答えた。
「「たぶん」」
エリスは呆れた顔をしたあと、少しだけ笑った。
白狼亭は、まだ宿としては壊れかけだ。
でも、火は灯った。
看板は戻った。
白狼も帰ってきた。
最初の客も守った。
そして今、村の人たちが玄関の外に集まり始めている。
宿がもう一度開くには、少し早すぎる。
けれど、壊れたものが直る時というのは、だいたい予定通りにはいかない。
俺は工具巻きを手に取った。
「まずは、椅子を全部直します」
ミラさんが木べらを握った。
「私は、スープを増やします」
エリスがベッドの上で、首飾りを胸に抱いたまま言った。
「私は……今は寝るわ。悔しいけど」
「それが一番大事です」
「ええ。でも元気になったら、帳簿くらいは見てあげる」
公爵令嬢が宿の帳簿を見る。
白狼亭は、本当に変な宿になりそうだった。
階下で、白狼がまた低く鳴く。
まるで、早くしろと言っているみたいだった。
俺は部屋を出ながら、少しだけ笑った。
王宮を追放されて、まだ二日目。
なのに俺はもう、退屈とはほど遠い場所にいる。




