第6話 王都に戻してはいけない令嬢
俺は銀髪の令嬢を抱え、白狼亭へ走った。
見た目より軽い。
軽すぎる。
旅の疲れだけではない。
何日もまともに食べていない人間の軽さだった。
「ミラさん、客室を!」
「はい!」
ミラさんは先に宿へ駆け込み、二階へ続く階段を上がっていく。
俺は令嬢を抱えたまま食堂を抜けた。
暖炉の火が、一瞬だけ強く揺れる。
まるで、また厄介な客が来たな、とでも言うように。
いや、客に厄介も何もない。
宿は、困った人を迎える場所だ。
そうミラさんが言っていた。
俺は階段を上がり、昨日直した客室へ入った。
ベッドはしっかりしている。
窓も閉まる。
ランタンも使える。
この宿で今、一番安全な部屋だ。
「ここへ」
ミラさんが布団を整えた。
俺は令嬢をベッドへ寝かせる。
彼女の銀髪が、枕の上に広がった。
泥に汚れていても、月の糸みたいに綺麗な髪だった。
顔色は悪い。
唇も乾いている。
外套の下には、上等な旅服。
だが袖は裂け、裾には枝で引っかけた跡がいくつもある。
「怪我を見ます」
「お願いします。私はお湯と布を持ってきます」
「あと、薄いスープか湯冷ましを」
「すぐに」
ミラさんが部屋を出ていく。
俺は令嬢の手首に触れた。
脈は弱いが、ある。
頭に小さな擦り傷。
腕に打撲。
足首は少し捻っている。
馬車が横転した衝撃だろう。
致命傷はない。
だが問題は、身体の傷だけではなかった。
俺の指先に、違和感が走る。
「……何か、封じられている?」
彼女の胸元。
外套の内側に、小さな銀の首飾りがあった。
鷹と月桂樹の紋章。
王都の大貴族、レイヴェル公爵家のものだ。
そして首飾りの裏には、細い魔導文字が刻まれていた。
護符に見える。
だが、違う。
これは守るための魔導具ではない。
居場所を知らせるための追跡具だ。
「まずいな」
俺は首飾りに手を伸ばした。
その瞬間、令嬢の目がかすかに開いた。
「……触らないで」
弱々しい声。
けれど、その奥には強い拒絶があった。
「これは追跡具です。外さないと見つかる」
「外せば……爆ぜるわ」
「爆ぜる?」
「私が……無理に外そうとしたら……馬車の御者が……」
令嬢の瞳が揺れた。
何かを思い出している。
恐怖。
罪悪感。
疲労。
「わかりました。無理には外しません」
「王都には……戻さないで」
「戻しません」
俺が即答すると、彼女は一瞬だけ驚いたように俺を見た。
「……あなたは、誰?」
「ルカ。元宮廷修繕士です」
「宮廷……」
令嬢の瞳に警戒が戻る。
「王宮の人間?」
「今朝、追放されました」
「……追放?」
「はい。無能扱いで」
令嬢は、熱に浮かされた顔で俺を見つめた。
そして、なぜか少しだけ笑った。
「なら……私と同じね」
「同じ?」
だが、そこで彼女の意識はまた沈んだ。
ミラさんがお湯と布を持って戻ってくる。
「ルカさん、外が……」
「追っ手ですか?」
「はい。まだ距離はありますけど、馬の音が近づいています」
俺は窓の外を見た。
森の方角。
木々の間に、松明の明かりがちらちらと見える。
白狼が時間を稼いでくれているはずだが、怪我をしている。
長くは無理だ。
「ミラさん、この部屋に結界のようなものはありますか?」
「結界?」
「古い宿なら、客室に魔除けや隠し札が仕込まれていることがあります」
「詳しくは……でも、夫が昔、一番奥の部屋は“訳ありのお客様用”だって冗談で言っていました」
「訳ありのお客様用」
俺は部屋を見回した。
壁。
床。
天井。
窓枠。
古い宿には、ただの建築ではない工夫がある。
旅人を守るため。
追われる者を一晩だけ隠すため。
病人を休ませるため。
この白狼亭が本当に昔から旅人を守ってきた宿なら、何かあるはずだ。
俺は床に膝をつき、手のひらを当てた。
木の記憶を探る。
旅人。
子供。
商人。
負傷兵。
身分を隠した女。
夜中に訪れた騎士。
雨に濡れた吟遊詩人。
そして。
部屋の中央に立つ、先代の宿主。
『この部屋は、見るべき者だけが見ればいい』
男が壁の一部に手を当てる。
木目の奥に、淡い紋様が浮かぶ。
『白狼の灯りに誓って、一夜の客を守る』
記憶が途切れる。
俺は顔を上げた。
「ありました」
「本当ですか?」
「壁に隠し結界がある。ただ、ほとんど壊れています」
「直せますか?」
「直します」
俺は壁に手を当てた。
そこには、古い魔導文字が刻まれていた。
見た目にはただの木目だ。
だが触れればわかる。
追跡を逸らし、気配を薄め、部屋の中にいる者を“宿の客”として隠す結界。
すごい技術だ。
王宮の派手な結界とは違う。
誰かを支配するためでも、威圧するためでもない。
ただ、一晩だけ安心して眠らせるための結界。
「白狼亭、何者なんだ……」
俺は小さく呟き、魔導文字の欠けをなぞった。
淡い光が指先に宿る。
消えかけていた線がつながる。
歪んだ木目が本来の流れに戻る。
古い祈りのような魔力が、部屋全体に広がっていく。
ランタンの火が揺れた。
窓の外の松明の光が、少し遠く感じる。
「ミラさん」
「はい」
「これで部屋の気配は薄くなりました。ただ、宿全体を隠せるほどではありません」
「では、追っ手が来たら……」
「俺が出ます」
「ルカさんが?」
「王宮の人間なら、少しは話ができます」
「追放されたんですよね?」
「されたばかりなので、顔くらいは通じます」
「それ、安心していいんでしょうか」
「わかりません」
ミラさんは不安そうに俺を見る。
俺は令嬢の首飾りを見た。
追跡具の光が少し弱まっている。
結界が効いている証拠だ。
「彼女を頼みます」
「はい。絶対に守ります」
ミラさんの声は震えていなかった。
昨日まで、宿を続けるか迷っていた人とは思えない。
白狼亭の女将として、客を守る顔をしていた。
俺は部屋を出て、一階へ降りた。
食堂の暖炉の火は、赤く燃えている。
外から馬の足音が近づく。
玄関を開けると、ちょうど白狼が森の方から戻ってきたところだった。
脇腹の傷が少し開いている。
「無茶をしたな」
白狼は鼻を鳴らした。
お前に言われたくない、と言っているようだった。
宿の前に、三騎の騎士が現れた。
黒い外套。
王都式の軽鎧。
胸元にはレイヴェル公爵家の紋章ではなく、王宮保安局の印。
つまり、公爵家の私兵ではない。
王宮が動いている。
「そこの宿!」
先頭の騎士が声を張った。
「この付近で銀髪の女を見なかったか!」
俺は玄関前に立った。
「夜分に大声を出すのは、宿の客に迷惑です」
「質問に答えろ。女を見たか」
「ここは宿です。客の情報を簡単に話すわけにはいきません」
騎士の眉が動いた。
「貴様、何者だ」
「ルカ・フェルド。元王宮修繕士です」
「元?」
「今日付で解雇されました」
騎士たちが顔を見合わせる。
どうやら名前くらいは聞いたことがあるらしい。
別に有名人というわけではない。
王宮の裏方として、故障対応であちこちに顔を出していたせいだ。
「修繕士風情が、王宮保安局の捜索を妨げるつもりか」
「妨げてはいません。宿の前で馬を止めているのはそちらです」
「中を改める」
「令状は?」
「緊急捜索だ」
「対象は?」
「王都から逃亡した重罪人だ」
重罪人。
俺は表情を変えないようにした。
「名前は?」
「貴様に教える必要はない」
「なら、こちらも協力のしようがありません」
騎士の目が鋭くなる。
「貴様、何か隠しているな」
「壊れた椅子と雨漏りなら大量に」
「ふざけるな!」
騎士が馬から降り、剣の柄に手をかけた。
その瞬間、白狼が低く唸った。
空気が変わる。
三頭の馬が一斉に後ずさった。
騎士たちの顔色も変わる。
「な、なんだその獣は……」
「白狼亭の客です」
「客だと?」
「朝食も食べました」
「馬鹿なことを――」
騎士が一歩踏み出そうとした。
だが白狼が前脚を地面に置いただけで、彼は動きを止めた。
本能がわかっているのだ。
これ以上進めば、危ないと。
その時、先頭の騎士が懐から小さな魔導盤を取り出した。
追跡具と連動する盤だろう。
淡い光が揺れている。
まずい。
結界で気配は薄めたが、完全に消せてはいない。
騎士は魔導盤を見ながら、顔をしかめた。
「反応が……この辺りで途切れている」
「森で道を外れたのでは?」
「いや、近い。かなり近い」
騎士の視線が宿へ向く。
白狼が唸る。
俺は一歩前に出た。
ここで押し切られれば終わりだ。
だが力で勝てる相手ではない。
必要なのは、時間。
令嬢の体力を戻し、追跡具をどうにかし、事情を聞くための時間。
「王宮保安局の方に確認したいことがあります」
「何だ」
「西塔冷却炉の調整は済みましたか?」
騎士の表情が固まった。
「……何?」
「地下水路の浄化装置も危険域に入っているはずです。俺が今朝、警告しましたが、引き継ぎ記録は破棄されたようなので」
「そんな話は知らん」
「でしょうね」
俺は静かに続けた。
「もし王宮から緊急呼び出しが来たら、急いだ方がいい。西塔が止まると、王都北区の冷却結界まで落ちます」
「脅しか?」
「修繕士の忠告です」
その瞬間、騎士の腰につけた通信石が赤く光った。
ぴりり、と甲高い音が鳴る。
騎士は苛立ったように通信石を取った。
「何だ!」
石の向こうから、慌てた声が漏れる。
『西塔冷却炉に異常! 保安局にも応援要請が出ています! 王宮内で一部区画が封鎖――』
騎士の顔から血の気が引いた。
俺は何も言わなかった。
言ったところで、嫌味になるだけだ。
まあ、少し言いたかったが。
「……撤収する」
騎士は低く命じた。
「隊長、しかし追跡対象が」
「王宮の異常が優先だ。反応はこの一帯で途切れている。周辺村にも見張りを置く。逃げ道はない」
先頭の騎士は俺を睨んだ。
「ルカ・フェルド。貴様の名は覚えたぞ」
「俺も覚えました。夜中に宿へ怒鳴り込んだ騎士として」
「後悔することになる」
「王宮の冷却炉を放置した人たちほどではないと思います」
騎士は舌打ちし、馬に乗った。
三騎は森の道を引き返していく。
松明の光が遠ざかるまで、俺は動かなかった。
完全に見えなくなってから、息を吐く。
「……危なかった」
白狼が隣で鼻を鳴らした。
「わかってる。俺も偉そうに言いすぎたと思う」
白狼はまた鼻を鳴らした。
たぶん、そういう意味ではない。
俺は宿へ戻り、二階の客室へ向かった。
部屋に入ると、ミラさんが令嬢のそばについていた。
令嬢は薄いスープを少し飲んだらしい。
顔色は、わずかに戻っている。
「追っ手は?」
「引き上げました。王宮で故障が起きたようです」
「えっ」
「俺が言っていた西塔です」
「王宮、本当に見る目がなかったんですね」
「たぶん今ごろ大変です」
ミラさんは少しだけ困った顔をした。
「笑ってはいけない気がするのに、ちょっと笑いそうです」
「俺もです」
その時、ベッドの上の令嬢が目を開けた。
意識が少しはっきりしている。
「……あなたたち、私を売らなかったの?」
「宿の客を売る趣味はありません」
俺が答えると、令嬢はゆっくりと瞬きをした。
「私は……追われているのよ」
「見ればわかります」
「王宮に逆らうことになる」
「今日、王宮から追い出されたので」
「……本当に変な人」
令嬢は小さく笑ったあと、苦しそうに咳き込んだ。
ミラさんが背を支える。
「無理しないでください」
「ありがとう……」
彼女はミラさんを見て、それから俺に視線を戻した。
「私は、エリス・レイヴェル」
やはり。
レイヴェル公爵家。
王都でも三本の指に入る大貴族だ。
「父を毒殺した罪で、明後日、王都に連れ戻される予定だった」
ミラさんが息を呑む。
エリスは震える手で、首飾りを握った。
「でも、私は殺していない」
その目には涙があった。
けれど、弱さだけではない。
折れかけても、まだ折れていない人間の目だった。
「お願い。少しだけでいい。私をここに隠して」
俺はミラさんを見た。
ミラさんは迷わなかった。
「白狼亭は、困ったお客様を追い出しません」
エリスの瞳が揺れる。
俺はうなずいた。
「まずは休んでください。首飾りも、俺が必ず安全に外します」
「……できるの?」
「壊れたものを直すのが仕事なので」
「それ、壊すの間違いじゃなくて?」
「修繕士なので、外す時もなるべく丁寧にやります」
エリスは少しだけ笑った。
そして、安心したように目を閉じる。
その直後。
階下で、白狼が低く鳴いた。
敵への警戒ではない。
まるで、新しい客を認めるような声だった。
こうして白狼亭は、二人目の客を迎えた。
傷ついた神狼の次は、冤罪の公爵令嬢。
宿の再開初日としては、どう考えても波乱が過ぎる。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
壊れた宿には、壊れた人生を抱えた客が集まる。
なら、俺の仕事はきっと決まっている。
直せるところから、直していく。




