表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/35

第5話 最初の客は、森で倒れていた訳あり令嬢

 翌朝、俺は鳥の声で目を覚ました。


 王宮の仮眠室では、朝を知らせるのは魔導鐘の無機質な音だった。

 決まった時刻に、決まった大きさで、決まった回数だけ鳴る。


 便利ではある。


 ただ、あれで起きる朝はいつも、胸の奥を誰かに叩かれているような気分だった。


 だが白狼亭の朝は違った。


 窓の外から鳥が鳴き、森の匂いを含んだ風が薄く入り込む。

 階下からは、木の床を歩く音と、何かを煮込む匂い。


 それから。


「……くう」


 部屋の外で、小さな音がした。


 いや、音というより、床が鳴いた。


 きゅう。


 あの廊下の三枚目だ。


「まず、あそこからだな」


 俺は起き上がり、顔を洗ってから廊下へ出た。


 鳴く床板の前にしゃがむ。


 昨日は緊急事態続きで後回しにしたが、こういう小さな歪みこそ放っておくと大きな傷みになる。


 指先で板に触れる。


 木は乾き、釘はわずかに浮き、支えの横木が斜めに沈んでいた。


 けれど、不思議なことに。


 この床板は、自分が鳴くことを少し楽しんでいるように感じた。


 誰かが通るたび、きゅう、と鳴る。

 すると宿の主人が「またお前か」と笑う。

 子供がわざと踏み、女将が「静かに」と叱る。

 酔った客がそれを合図に自分の部屋を探す。


 ここには、ただの劣化ではなく、宿の癖が残っていた。


「……全部消すのは違うな」


 俺は浮いた釘と沈んだ横木だけを直し、床板そのものの鳴き癖は少しだけ残した。


 試しに踏む。


 きゅ。


 昨日よりずっと控えめな音がした。


「よし。健康的な鳴き方だ」


「床板に健康ってあるんですか?」


 背後から声がして振り返ると、ミラさんが階段の下に立っていた。


 栗色の髪を軽くまとめ、エプロン姿。

 昨日より顔色がいい。


 その手には木べらが握られていた。


 亡くなった旦那さんの木べらだ。


「あります。たぶん」


「たぶんで言い切りましたね」


「修繕士の勘です」


「王宮の人たちは、その勘を捨てたんですよね?」


「はい」


「やっぱり馬鹿ですね」


 ミラさんはきっぱり言ってから、少しだけ笑った。


「朝食、できましたよ」


 食堂に降りると、暖炉の前に白狼がいた。


 昨夜より呼吸は落ち着いている。

 脇腹の黒い傷はまだ残っているが、煙のようなものはほとんど出ていない。


 ただ、その存在感は相変わらずだ。


 普通の宿の食堂に、巨大な白い神狼が丸まっている。


 どう考えても普通ではない。


 白狼は俺を見ると、片目だけ開けた。


「おはようございます」


 俺が挨拶すると、白狼は鼻を鳴らした。


 返事なのか、まだ名前の件を怒っているのかはわからない。


「白狼様にも朝食、用意したんです」


 ミラさんが少し誇らしげに言った。


 暖炉の横には、大きな木皿が置いてある。


 中身は、肉と野菜を煮込んだものらしい。


「食べるんですか?」


「わかりません。でも、宿にいるならお客様ですから」


「神狼も客扱い」


「白狼亭なので」


 ミラさんが当然のように言う。


 白狼は木皿をちらりと見て、次にミラさんを見る。


 それから、ゆっくりと顔を近づけ、匂いを嗅いだ。


 ひと口。


 食べた。


「食べた……!」


 ミラさんが小さく声を上げる。


 白狼は二口目を食べ、三口目を食べた。


 そして、何事もなかったように皿を空にした。


「お口に合いましたか?」


 ミラさんが尋ねる。


 白狼は目を閉じたまま、尻尾を一度だけ床に当てた。


 どん。


 食堂の床が少し揺れる。


「気に入ったみたいですね」


「よかった……!」


 ミラさんの顔がぱっと明るくなった。


 それを見ていたら、なぜか俺まで嬉しくなった。


 王宮では、魔導炉が予定通り動いても、結界が安定しても、それは当然だった。


 でもここでは、白狼が朝食を食べただけで、こんなにも空気が温かくなる。


「ルカさんの分もありますよ」


 テーブルに並べられたのは、焼き立ての木の実パン、野菜と豆のスープ、薄く焼いた卵、それから小さな皿に盛られた甘い果実煮だった。


 昨日の夕食より、明らかに手が込んでいる。


「これは……」


「白狼亭の朝食です」


 ミラさんは少し照れながら、けれど胸を張って言った。


「お客様に出す朝食。久しぶりなので、うまくできているかわかりませんけど」


 俺は席につき、まずスープをひと口飲んだ。


 昨日より味が深い。


 豆のほくほくした甘み。

 野菜の香り。

 暖炉の火でゆっくり温めたせいか、口当たりが柔らかい。


「……美味しいです」


 俺が言うと、ミラさんはほっと息を吐いた。


「よかった」


「昨日より、さらに美味しい」


「本当ですか?」


「はい。木べらのおかげでしょうか」


 そう言うと、ミラさんは厨房の方を見た。


「不思議なんです。あの木べらを使うと、手が勝手に思い出すみたいで。火加減とか、混ぜる回数とか、夫が隣にいる時の感覚が少しだけ戻ってきて」


「それは、木べらが覚えていたんだと思います」


「道具ってすごいですね」


「使う人が大事にしたからです」


 ミラさんは少し黙って、それから穏やかに笑った。


「じゃあ、これからまた大事に使います」


 俺はパンを割り、スープに浸して食べた。


 白狼亭の朝食。


 たぶん、これは客を呼べる。


 宿が直れば。

 道が整えば。

 この料理を出せる場所として、もう一度やり直せる。


 そう思った瞬間、食堂の入口で何かが倒れる音がした。


 がたん。


「きゃっ!」


 ミラさんが椅子から立ち上がる。


 俺も振り返った。


 そこにいたのは、小さな男の子だった。


 年は七つか八つくらい。

 寝癖のついた茶色い髪に、泥のついた靴。

 手には籠を持っている。


 倒れたのは、入口横に積んであった壊れ椅子の山だった。


「あ、あの、ごめんなさい!」


 男の子は慌てて頭を下げた。


「トマ!」


 ミラさんが驚いた声を上げる。


「勝手に入ったら危ないって言ったでしょう?」


「だって、看板が直ってたから!」


 トマと呼ばれた少年は、目をきらきらさせて言った。


「あと、煙突から煙出てたし! 白狼亭、また開いたのかなって!」


 ミラさんは一瞬、言葉を失った。


 開いたのかな。


 その言葉が、彼女の胸にどう届いたのかはわからない。


 でも、俺には見えた。


 彼女の手が、エプロンの端をぎゅっと握る。


「……まだ、ちゃんと開いたわけじゃないけど」


 ミラさんは少しだけ声を整えて言った。


「朝食なら、ありますよ」


「ほんと!?」


 トマの顔が明るくなる。


 だが次の瞬間、彼は暖炉の前を見て固まった。


 白狼がいる。


 巨大な白い神狼が、金色の目で少年を見ている。


 普通なら泣いて逃げる。


 俺はそう思った。


 だがトマは、震える声で言った。


「……もふもふだ」


 度胸があるのか、危機感がないのか。


 白狼は少年を見たまま、低く鼻を鳴らした。


 トマはごくりと唾を飲む。


「さ、触ってもいい?」


「やめた方が――」


 俺が止めようとした瞬間、白狼が尻尾を一度だけ床に当てた。


 どん。


 許可なのか。


 トマはおそるおそる近づき、白狼の前で膝をついた。


「こんにちは」


 白狼は目を閉じる。


 トマがそっと毛並みに触れた。


 その瞬間、少年の顔がとろけた。


「すっげぇ……! 雲みたい!」


「怪我をしているから、優しくな」


 俺が言うと、トマは真剣にうなずいた。


「うん。白狼様、痛いの?」


 白狼は答えない。


 けれど、トマの手を振り払うこともしなかった。


 ミラさんはそんな様子を見て、少し泣きそうな顔で笑った。


「昔も、こんな感じだったのかな」


「昔?」


「子供たちが勝手に入ってきて、暖炉の前でパンを食べて、白狼の話を聞いて帰る宿だったって、祖父が言っていました」


「戻ってきてますね」


 俺が言うと、ミラさんは小さくうなずいた。


 その後、トマは朝食を一人前たいらげた。


 支払いは、籠の中に入っていた卵三つ。


「母ちゃんが、ミラ姉ちゃんに持ってけって」


「ありがとう。助かるわ」


「あと、父ちゃんが言ってた。昨日、宿の看板が光ったの見たって。村のみんな、気にしてる」


 トマはパンの最後の一切れを口に放り込みながら言った。


「白狼亭、またやるの?」


 ミラさんはすぐには答えなかった。


 彼女は食堂を見回した。


 壊れた椅子。

 傷んだ床。

 古いテーブル。

 暖炉の火。

 朝食を食べ終えた白狼。

 それから、俺。


 やがてミラさんは、ゆっくりと口を開いた。


「……やりたい」


 小さな声だった。


 でも、はっきりしていた。


「まだ壊れてるところばかりだし、お金もないし、お客様を迎えられる状態じゃないけど」


 彼女は自分に言い聞かせるように続けた。


「でも、やっぱり私は、この宿を開けたい」


 トマはにかっと笑った。


「じゃあ、俺、村で言ってくる!」


「まだ言わなくていいから!」


「でも、言ってくる!」


 少年は勢いよく立ち上がり、入口へ向かって走った。


「あ、トマ。椅子に気をつけて」


「うん!」


 その直後。


 がたん。


 また壊れ椅子の山に引っかかった。


「……明日までには直します」


「今日じゃなくていいんですよ?」


「今日やります」


 俺が真顔で言うと、ミラさんは笑った。


 朝食の後、俺は食堂の椅子を直し始めた。


 一脚ずつ触れ、木の状態を確かめる。


 完全に新品のようにするのではなく、宿の記憶を残したまま、客を支えられる形へ戻す。


 ミラさんは厨房で片付けをし、時々こちらを覗きに来る。


 白狼は暖炉の前で寝ている。


 トマが去った後、村の方からちらちらと視線を感じた。


 窓の外に、子供の頭が二つ。

 次に、洗濯籠を抱えた女性。

 さらに、杖をついた老人。


 みんな遠巻きに白狼亭を見ている。


 看板が直り、煙突から煙が上がり、入口には白い狼の足跡が残っている。


 そりゃ気になるだろう。


「なんだか、落ち着きませんね」


 ミラさんが苦笑した。


「いいことです」


「そうなんでしょうか」


「壊れた宿に誰も関心を持たなくなる方が、ずっと怖いです」


 ミラさんは少し驚いた顔をして、それから静かにうなずいた。


「そうですね」


 昼前までに、食堂の椅子は八脚直った。


 テーブルも二つ。

 床板も危ないところだけ補強した。


 汗を拭っていると、白狼がふいに頭を上げた。


 金色の瞳が、森の方を向く。


「どうした?」


 白狼は低く喉を鳴らした。


 威嚇ではない。


 警告だ。


 次の瞬間、外から馬のいななきが聞こえた。


 続いて、車輪が石に乗り上げる激しい音。


 そして、誰かの悲鳴。


「ミラさん!」


「はい!」


 俺たちは宿の外へ飛び出した。


 村へ続く道の向こう。


 森の入口近くで、一台の小さな馬車が横転していた。


 車輪が折れ、荷台が傾き、馬が怯えて暴れている。


 そのそばに、人影が倒れていた。


 薄い外套。

 泥に汚れた銀色の髪。

 細い手首。


 俺は駆け寄った。


「大丈夫ですか!」


 倒れていたのは、若い女性だった。


 年は十七か十八くらい。

 旅装をしているが、布地も縫製も明らかに上等だ。

 泥まみれでもわかるほど整った顔立ち。

 長い睫毛。

 白い指。


 平民ではない。


 少なくとも、ただの旅人には見えない。


 彼女は意識を失いかけていた。


 唇がかすかに動く。


「……追っ手……」


「追っ手?」


「王都に……戻しては……だめ……」


 そう言って、彼女は俺の腕を弱々しく掴んだ。


 その手は冷たかった。


 俺は彼女の外套の胸元に、小さな紋章が刺繍されているのを見つけた。


 鷹と月桂樹。


 どこかで見たことがある。


 王宮で、貴族の家紋一覧を修繕記録の横に貼っていた時に。


「まさか……公爵家?」


 ミラさんが息を呑む。


 その時、森の奥から馬蹄の音が響いた。


 一つではない。


 複数。


 白狼が宿の前に立ち、低く唸る。


 倒れた女性は、意識を失う直前に、もう一度だけ呟いた。


「お願い……私を……見つけないで……」


 俺は彼女を抱き上げた。


 驚くほど軽かった。


「ミラさん、宿へ」


「はい!」


「白狼」


 呼びかけると、白狼がこちらを見る。


 名前ではないが、通じたらしい。


「追っ手が来る。少しだけ、時間を稼げるか?」


 白狼は金色の瞳を細めた。


 そして、まだ傷の残る体で、森へ向かって一歩踏み出した。


 その姿を見て、俺は確信した。


 この宿は、また客を迎え始めた。


 ただし最初の客は、温泉目当ての旅人でも、飯を求める商人でもない。


 王都から逃げてきた、訳ありの令嬢だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ