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第4話 傷ついた白狼を、宿の中へ運び込む

 白い狼が、庭先に倒れた。


 俺はベッドから飛び起きた。


 工具巻きも持たず、上着だけ羽織って部屋を出る。


 廊下の床板が、きゅう、と小さく鳴いた。


 いつもなら直したくなる音だ。

 けれど今は、それどころじゃない。


 階段を駆け下りると、食堂の暖炉がまだ赤く燃えていた。


 さっきよりも火が強い。


 まるで、外に倒れている何かを照らそうとしているみたいだった。


「ルカさん?」


 厨房の奥から、ミラさんが顔を出した。


 寝間着の上に薄いショールを羽織っている。

 どうやら、まだ片付けをしていたらしい。


「どうしたんですか?」


「庭に何かいます」


「何か?」


「白い狼です」


 その言葉を聞いた瞬間、ミラさんの表情が変わった。


「白い……狼……?」


「はい。かなり大きい。怪我をしています」


「まさか……」


 ミラさんは慌てて玄関へ向かった。


 俺も後を追う。


 扉を開けると、夜の冷たい空気が流れ込んできた。


 月明かりの下。


 白狼亭の入口から少し離れた場所に、その獣は倒れていた。


 近くで見ると、さらに大きい。


 普通の狼の二倍はある。

 白い毛並みは泥と血で汚れ、脇腹には黒く焦げたような傷が走っていた。


 その傷からは、血ではなく、黒い煙のようなものがにじんでいる。


「……これは」


 俺は膝をついた。


 狼は浅く呼吸している。


 金色の瞳だけが、こちらを見ていた。


 敵意はない。


 ただ、ひどく疲れている。


「ルカさん、危ないです」


 ミラさんが小さく言った。


「この子、たぶん普通の狼じゃありません」


「わかります」


「昔、祖父から聞いたことがあります。白狼亭の白狼は、ただの宿の看板じゃないって」


「どういう意味ですか?」


「この辺りの森には、白い神狼がいたそうです。旅人を守り、迷った人を宿まで導く森の守り神。だからこの宿は白狼亭と名付けられたって」


 神狼。


 俺は倒れている白狼を見た。


 もしそれが本当なら、目の前にいるのは神に近い存在ということになる。


 だが今は、神というよりも、傷つき疲れた一匹の獣にしか見えなかった。


「助けます」


「でも、どうやって……」


「わかりません。でも、このままにはできません」


 俺は白狼の傷へ手を伸ばした。


 その瞬間、白狼が低く唸った。


 地面が震えるような音。


 普通なら、それだけで腰が抜けてもおかしくない。


 ミラさんが息を呑む。


 俺も一瞬、手を止めた。


 だが、白狼は噛みつかなかった。


 ただ、こちらを試すように見ている。


「痛いのはわかる。無理に触られたくないのもわかる」


 俺は静かに声をかけた。


「でも、その傷は放っておけない」


 白狼の瞳が、わずかに揺れた。


「俺は戦えない。獣を従える力もない。できるのは、壊れたものを直すことだけだ」


 夜風が吹いた。


 白狼亭の看板が、ぎい、と小さく揺れる。


 描かれた白い狼が、月明かりの中で淡く光った。


「お前が壊れているなら、直したい」


 俺はもう一度、手を伸ばした。


 今度は、白狼は唸らなかった。


 指先が、汚れた毛並みに触れる。


 その瞬間。


 激しい記憶が流れ込んできた。


 森。

 深い森。

 夜明けの霧。

 木々の間を駆ける白い影。


 旅人が獣に襲われている。


 白狼が飛び込み、魔物を追い払う。


 迷子の子供が泣いている。


 白狼が前を歩き、白狼亭の灯りまで導く。


 雪の夜。


 閉ざされかけた山道で、倒れた馬車のそばに白狼が立っている。


 宿の主人が、ランタンを持って駆けてくる。


『またお前か。今日も客を連れてきてくれたのか』


 若い男の声。


 ミラさんの夫だ。


 白狼は彼の前で尻尾を揺らす。

 男は笑って、白狼の頭を撫でる。


『お前がいる限り、この宿は大丈夫だな』


 記憶が変わる。


 数年前。


 雨の夜。


 宿の裏手で、ミラさんの夫が倒れている。


 白狼が必死に鼻先で彼を押す。

 だが男は起きない。


 ミラさんが泣き叫んでいる。


 白狼の遠吠えが、森に響く。


 そして――黒い影。


 森の奥から、何かが迫ってくる。


 瘴気をまとった黒い獣。

 それは白狼の体に食らいつき、爪を立て、呪いのような傷を刻んだ。


 白狼はそれでも戦った。


 宿に近づけまいとして。


 村に入らせまいとして。


 たった一匹で、ずっと。


「……そうか」


 俺は歯を食いしばった。


 この白狼は、宿から離れたわけじゃない。


 見捨てたわけでもない。


 ずっと森で戦っていた。


 白狼亭が弱っていたのは、主人が亡くなったからだけじゃない。

 守り神まで傷つき、宿を守る力を失っていたからだ。


「ルカさん?」


 ミラさんの声が震えている。


「この子は、ずっと宿を守っていました」


「え……?」


「森の奥で、何かと戦っていたんです。たぶん、何年も」


 ミラさんは両手で口元を覆った。


「そんな……」


 白狼の呼吸が荒くなる。


 黒い傷が脈打つたび、煙のようなものが周囲に広がった。


 これは普通の怪我じゃない。


 肉体の損傷だけなら、木や石より難しくても、形を戻せるかもしれない。

 だがこの傷は、何かが入り込んでいる。


 呪い。

 瘴気。

 腐食。


 王宮の古い結界杭に似ている。


 内側から、存在を歪ませるタイプの壊れ方だ。


「ミラさん」


「はい」


「お湯と布を。できれば綺麗なものを」


「すぐに!」


 ミラさんが宿へ駆け戻る。


 俺は白狼の脇腹に手を当てたまま、呼吸を合わせた。


「焦るな。無理に戻すと、傷ごと体が裂ける」


 これは椅子や木べらとは違う。


 生き物だ。


 しかも、普通の獣ではない。


 修復とは、ただ元の形に押し戻すことではない。

 物が持っている本来の流れを思い出させることだ。


 白狼の体に残る記憶を探る。


 森を駆けていた頃の脚。

 雪を弾いていた毛並み。

 月を見上げて遠吠えしていた喉。

 旅人を導いていた金色の瞳。


 それを、ゆっくり呼び戻す。


「お前はまだ終わっていない」


 指先に淡い光が宿った。


 黒い傷に触れると、じゅっと焼けるような痛みが走る。


「っ……!」


 俺の手の甲に、黒い筋が浮かびかけた。


 呪いが逆流してきたのだ。


 白狼が目を見開く。


 まるで「やめろ」と言っているようだった。


「大丈夫だ」


 大丈夫ではない。


 かなり痛い。


 でも、王宮で腐りかけた魔導管を直していた時も、似たような逆流は何度かあった。


 あの時は誰にも言えなかった。


 言えば、余計なことをするなと怒られるから。


 けれど今は違う。


「ここは、お前が帰ってくる場所なんだろ」


 黒い煙が俺の手に絡みつく。


 俺は歯を食いしばり、白狼の中に残る本来の形を探った。


 毛並み。

 筋肉。

 骨。

 神気の流れ。


 壊れている部分を、ひとつずつ見つける。


 焦げたように断たれた流れを、無理やり繋がず、周囲から支える。

 呪いに侵された肉を切り捨てるのではなく、白狼自身の力で押し返せるように道を作る。


 じわり、と白い光が広がった。


 黒い傷の縁が少しだけ薄くなる。


 白狼が低く呻いた。


「痛いか。すまない。でも、もう少しだけ」


「ルカさん!」


 ミラさんが戻ってきた。


 桶に入れた湯と、清潔な布を抱えている。


「何をすればいいですか?」


「傷の周りの泥を拭いてください。黒い煙には触れないように」


「わかりました」


 ミラさんは震えながらも、迷わず膝をついた。


 普通なら、巨大な狼に近づくだけでも怖いはずだ。


 けれど彼女は白狼の頭にそっと触れた。


「あなた……本当に、白狼亭の白狼なの?」


 白狼の耳がわずかに動いた。


「ずっと、守ってくれていたの?」


 ミラさんの声が涙に濡れる。


「ごめんね。私、何も知らなくて。宿のことばかりで、森のことも、あなたのことも、見えてなかった」


 白狼は目を細めた。


 その表情が、ほんの少しだけ穏やかになる。


 ミラさんは布を湯で濡らし、毛並みの泥を拭き始めた。


 白い毛の下から、古い傷跡がいくつも出てくる。


 新しいものだけじゃない。


 何度も戦い、何度も怪我をして、それでもここへ戻ってきた体だ。


 俺の胸の奥が熱くなった。


「ミラさん、頭の方を支えていてください」


「はい」


「俺が傷を少し抑えます。暴れるかもしれません」


「この子は暴れません」


 ミラさんは即答した。


 俺は少し驚いて彼女を見た。


 ミラさんは白狼の頭を膝に乗せ、涙を浮かべながら笑っていた。


「だって、白狼亭の子ですから」


 その言葉に、白狼の金色の瞳が揺れた。


 俺はうなずき、両手を傷へ当てた。


 深く息を吸う。


 黒い呪いの奥に、白狼本来の光がまだ残っている。


 そこへ向けて、修復の力を流し込む。


「戻れ」


 淡い光が、一気に広がった。


 黒い煙が激しく暴れる。


 白狼の体がびくりと跳ねた。


 ミラさんが必死に頭を抱える。


「大丈夫、大丈夫だから……ここにいるから……」


 白狼が牙を食いしばるように喉を鳴らす。


 俺の手にも激痛が走る。


 黒い筋が手首まで上がってくる。


 だがその直後、暖炉の火が宿の中から強く燃え上がった。


 扉が開いているわけでもないのに、赤い光が外まで届く。


 看板の白狼も、淡く輝いていた。


 宿が、白狼を呼んでいる。


 帰ってこいと。


 お前の場所はここだと。


「っ……戻れ!」


 俺は最後の力を込めた。


 黒い傷の中心から、ぱきん、と何かが砕ける音がした。


 黒煙が空へ吹き上がり、夜風に散っていく。


 同時に、白狼の脇腹を覆っていた焦げ跡が薄れた。


 完全に消えたわけではない。

 深い傷跡は残っている。


 だが、呼吸は明らかに落ち着いた。


 白狼の体から、白く柔らかな光がにじむ。


 汚れていた毛並みも、少しだけ本来の輝きを取り戻していた。


「……これで、今夜は大丈夫だと思います」


 俺は手を離した。


 途端に、力が抜けて尻もちをつく。


「ルカさん!」


 ミラさんが駆け寄ろうとする。


「大丈夫です。少し疲れただけで」


「手が……!」


 見ると、俺の右手には黒い筋が残っていた。


 痛みはあるが、さっきより薄い。


「呪いの残りみたいなものです。たぶん消えます」


「たぶんって」


「経験上、だいたい」


「だいたいで済ませないでください!」


 ミラさんに怒られた。


 王宮では怒られると言えば「余計なことをするな」だった。

 だが、この怒られ方は少し違った。


 心配されている。


 それが妙にくすぐったい。


 その時、白狼がゆっくりと頭を上げた。


 ミラさんは息を止める。


 白狼は俺を見た。

 次にミラさんを見た。

 そして、重そうな体を少しずつ起こした。


「まだ動かない方がいい」


 俺が言うと、白狼は不満そうに鼻を鳴らした。


 ……今、明らかに言葉を理解した気がする。


 白狼はふらつきながら立ち上がり、白狼亭の入口へ向かった。


「中に入りたいんでしょうか」


 ミラさんが呟く。


「たぶん」


「でも、宿の中に狼って……」


 彼女は一瞬悩んだあと、すぐに首を振った。


「いえ。白狼亭ですもんね」


 ミラさんは扉を大きく開けた。


「おかえりなさい」


 その言葉を聞いた白狼は、ほんのわずかに目を細めた。


 そして、静かに宿の中へ入った。


 食堂の暖炉の前まで歩くと、そこで力尽きたように丸くなる。


 大きな体が、火の前に横たわった。


 白い毛並みに暖炉の光が揺れる。


 まるで、昔からそこが定位置だったみたいだった。


「本当に……帰ってきたんですね」


 ミラさんがぽつりと言う。


 俺は食堂の入口に寄りかかりながら、白狼を見た。


 白狼は片目だけ開けて、俺を見ている。


 その目は、まだ警戒しているようで、少しだけ認めてくれたようでもあった。


「名前はあるんですか?」


 俺が尋ねると、ミラさんは困ったように笑った。


「伝承では、白狼様としか」


「白狼様」


 白狼が鼻を鳴らした。


 気に入っていないらしい。


「じゃあ……シロ?」


 今度は尻尾が床を叩いた。


 却下らしい。


「モフ丸?」


 白狼がものすごく嫌そうな顔をした。


 ミラさんが吹き出す。


「ルカさん、神狼にその名前は怒られます」


「でも、かなりモフモフですよ」


「それは否定できませんけど」


 白狼は深いため息のように息を吐き、暖炉の前で目を閉じた。


 どうやら、名前の件は保留らしい。


 俺も椅子に座ろうとして、思い出した。


 まだ直していない椅子だった。


 ぎしり。


「あ」


 次の瞬間、椅子の脚が折れた。


 俺は見事に床へ落ちる。


「ルカさん!?」


 ミラさんが慌てて駆け寄る。


 暖炉の前で白狼が片目を開けた。


 そして、明らかに笑った。


 狼が笑うな。


「……明日は、椅子から直します」


 床に座ったまま俺が言うと、ミラさんはしばらく耐えたあと、声を上げて笑った。


 白狼亭に、久しぶりの笑い声が響いた。


 暖炉の火が、嬉しそうに揺れる。


 壊れた宿。

 傷ついた白狼。

 泣き笑いする女将。

 追放された修繕士。


 どう考えても、まともな組み合わせではない。


 けれど俺は、その夜はじめて思った。


 ここに来てよかった、と。

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