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第3話 修復スキル、実は“物の記憶”まで戻せるらしい

 夕食の野菜スープは、思っていたよりずっと美味しかった。


 いや、失礼な言い方かもしれない。


 宿の状態を見る限り、正直なところ、俺はかなり覚悟していた。


 焦げた鍋。

 湿気たパン。

 薄い塩味のスープ。


 そういうものが出てきても、文句を言うつもりはなかった。


 王宮を追い出された身だ。

 屋根のある部屋と、温かい火があるだけで十分すぎる。


 けれど、食堂の丸テーブルに置かれた木の器から立ち上る湯気は、そんな覚悟をあっさり裏切った。


「……うまい」


 ひと口飲んだ瞬間、思わず声が漏れた。


 野菜の甘みが溶け込んでいる。

 塩は控えめなのに、物足りなさがない。

 木の実パンを浸すと、スープがじゅわっと染みて、香ばしさが広がった。


 派手な料理ではない。


 でも、体の芯に届く味だった。


「本当ですか?」


 向かい側で、ミラさんが少し身を乗り出した。


「はい。すごく美味しいです」


「よかったぁ……」


 彼女は胸に手を当てて、心底ほっとしたように息を吐いた。


「最近、誰かに食べてもらうことがほとんどなかったので、味が変になってないか心配で」


「毎日作っているんですか?」


「自分用に少しだけ。あとは、たまに村の子が来た時とか」


「村の子?」


「はい。宿なのに客はいないんですけど、子供たちはたまに勝手に入ってくるんです。雨宿りとか、かくれんぼとか、お腹空いたとか」


「それは宿としていいんですか」


「白狼亭は、昔からそういう場所だったらしいです。困った人が立ち寄る場所というか」


 ミラさんは暖炉の火を見た。


「だから、空っぽになった食堂を見ると、ちょっと寂しくて」


 食堂には、俺とミラさんしかいない。


 丸テーブルは四つ。

 椅子は全部で十六脚。


 その半分以上は壊れているか、壁際に積まれている。


 けれど暖炉の火が灯ったせいか、そこまで寂しくは見えなかった。


 この場所は、まだ客を迎える形を覚えている。


 さっき直した椅子だけが、妙に誇らしげにテーブルの横に立っていた。


「明日、椅子を全部見てもいいですか?」


「えっ」


「テーブルも。あと床板と、厨房と、屋根裏も」


「ルカさん、泊まりに来たんですよね?」


「はい」


「働きに来たみたいになってません?」


「落ち着かなくて」


 俺が正直に言うと、ミラさんは口元を押さえて笑った。


「本当に修繕が好きなんですね」


「たぶん、好きなんだと思います」


「たぶん?」


「王宮では、好きだと思う余裕がありませんでした」


 言ってから、少し暗い話になったことに気づいた。


 だがミラさんは、軽く流さなかった。


「嫌な場所だったんですか?」


「嫌な場所……というより、壊れていることを言えない場所でした」


「壊れていることを?」


「はい。王宮は見た目だけは綺麗なので」


 俺はスープの器を両手で包んだ。


「壁も床も磨かれていて、魔導灯も明るくて、貴族たちは笑っている。でも裏側では、魔導管が詰まっていたり、結界の杭が歪んでいたり、暖炉が煙を逆流させたりしている」


「それを、ルカさんが直していた?」


「はい。でも壊れる前に直すと、誰も気づきません。だから評価されない」


「なるほど……」


「壊れてから直せば目立つんでしょうけど、壊れた時に誰かが怪我をするかもしれない。だから、壊れる前に直すしかない」


 それを続けてきた。


 目立たない場所で。

 誰の名前も残らない記録の中で。


 そして最後には、不必要な干渉と言われた。


「王宮の人たち、馬鹿ですね」


 ミラさんが真顔で言った。


 俺は思わず咳き込んだ。


「かなり直球ですね」


「だって、壊れる前に直してくれる人なんて、一番大事じゃないですか」


「……そう言ってもらえると、救われます」


「本気で言ってますよ」


 ミラさんはスープをひと口飲んでから、少し照れたように笑った。


「私なんて、壊れてから慌ててばかりです。屋根も、井戸も、椅子も、全部。もっと早くどうにかしなきゃって思っていたのに」


「一人では無理があります」


「でも、夫は一人でやっていました」


「旦那さんは、かなり器用な人だったんですね」


「はい」


 ミラさんの声が柔らかくなる。


「何でも直せる人でした。椅子も、鍋も、馬車の車輪も。お客様の靴底まで直して、ついでに夕飯まで食べさせて」


「宿の主人としては完璧ですね」


「私もそう思います」


 微笑みながらも、その目は少しだけ潤んでいた。


「だから、あの人がいなくなってから、何をしていいかわからなくなりました。宿の直し方も、守り方も」


 俺は何か言おうとして、言葉を探した。


 慰めるのは苦手だ。


 壊れた椅子なら、どこが折れているかわかる。

 歪んだ窓枠なら、どこを戻せばいいかわかる。


 でも、人の悲しみは目に見えない。


 俺の修復スキルで、簡単に直せるものではない。


「ミラさん」


「はい」


「旦那さんが使っていた道具はありますか?」


「道具、ですか?」


「修理道具でも、料理道具でも。何か大事にしていたものがあれば」


 ミラさんは少し考えたあと、立ち上がった。


「あります。厨房の奥に」


 食事の途中だったが、彼女は俺を厨房へ案内してくれた。


 厨房は古いが、広かった。


 大きな竈。

 水場。

 吊るされた鍋。

 木製の調理台。


 ただ、どれも傷みが激しい。


 竈の火口には煤が詰まり、水場の桶はひび割れ、調理台の角は欠けている。

 けれど不思議と、汚くはなかった。


 掃除だけは毎日しているのだろう。


 ミラさんは棚の奥から、小さな包みを取り出した。


 布をほどくと、中から古い木べらが出てきた。


 先端が少し焦げ、柄の部分は手の形に馴染んでいる。


「夫がいつも使っていた木べらです」


 ミラさんはそれを両手で持った。


「亡くなってから、使えなくなってしまって。折れたわけじゃないんですけど……なんとなく、怖くて」


「触れても?」


「はい」


 俺は木べらを受け取った。


 軽い。


 けれど、手にした瞬間、驚くほど濃い記憶が流れ込んできた。


 朝の厨房。

 湯気。

 刻まれる野菜。

 鍋をかき混ぜる男の手。


『ミラ、味見してくれ』


『また私?』


『君の舌が一番信用できる』


『そう言えば私が何でも許すと思ってるでしょ』


『許してくれないのか?』


『……一口だけね』


 若いミラさんが、木べらに口を近づける。


 男が笑う。


 厨房の窓から朝日が差している。


 次の記憶。


 雨の日。


 濡れた旅人にスープを出す男。


『金は?』


『後でいい。まず温まれ』


『払えなかったら?』


『その時は薪割りでもしていけ』


 旅人が泣きそうな顔で器を抱える。


 次の記憶。


 夜。


 ミラさんが疲れて椅子に座り込んでいる。


 男が鍋をかき混ぜながら言う。


『この宿は、君が笑っていると一番いい宿になる』


『何それ』


『本当だよ。俺が建物を直す。君が人を迎える。それで白狼亭は続いていく』


『じゃあ、あなたは長生きしなきゃね』


『もちろん』


 記憶がそこで、ふっと途切れた。


 俺は木べらを握ったまま、しばらく動けなかった。


「ルカさん?」


 ミラさんの声で我に返る。


「大丈夫ですか? 顔色が……」


「すみません」


「何か、見えたんですか?」


 俺は迷った。


 物の記憶が見えるなんて、普通は信じられないだろう。


 でもミラさんは、看板と暖炉を見ている。


 それに、この人には知る権利がある気がした。


「旦那さんは、よくスープを作っていましたか?」


 ミラさんの表情が止まった。


「……はい」


「ミラさんに味見を頼んでいた」


「っ」


「君の舌が一番信用できる、と言っていました」


 木べらを持つ俺の手に、ミラさんの視線が落ちる。


 彼女の目が、みるみる潤んでいった。


「どうして……それ……」


「木べらが覚えていました」


「そんな……」


「雨の日、濡れた旅人にスープを出していました。お金は後でいい、払えなかったら薪割りでもしていけ、と」


「……あの人、よく言ってました」


 ミラさんは口元を押さえた。


 涙が一粒、頬を伝う。


「本当に……そんなことまで……」


「それから」


 俺は一度言葉を切った。


 これは言っていいのか。

 思い出させて傷つけるだけではないのか。


 でも、木べらに残った記憶は、悲しみではなかった。


 温かさだった。


「旦那さんは、こう言っていました。この宿は、ミラさんが笑っていると一番いい宿になる、と」


 ミラさんの肩が震えた。


「俺が建物を直す。君が人を迎える。それで白狼亭は続いていく。そう言っていました」


 次の瞬間、ミラさんは静かに泣き出した。


 声を上げるのではなく、ずっと堪えていたものがこぼれるように。


 俺は木べらを両手で持ち、どうしていいかわからなくなった。


「すみません。余計なことを――」


「違います」


 ミラさんは首を振った。


「違うんです。……私、忘れてた」


「忘れていた?」


「あの人がいなくなってから、宿を守らなきゃ、直さなきゃ、続けなきゃって、そればかりで」


 涙を拭いながら、ミラさんは笑った。


「私が笑っていればいいって、あの人は言ってくれてたのに」


 厨房の空気が、少し変わった。


 古い竈が、静かに熱を帯びる。


 吊るされた鍋が、かすかに揺れる。


 木べらが、俺の手の中で淡く光った。


 俺は木べらの柄を撫でる。


 焦げた先端の傷はそのままに。

 長年使い込まれた手触りも残したまま。

 ただ、乾いて弱っていた木の繊維だけを、本来の強さへ戻していく。


「直しました」


 俺は木べらを差し出した。


 ミラさんは、両手でそれを受け取った。


「……使っても、いいんでしょうか」


「道具は、使われるためにあります」


「壊れませんか?」


「ちゃんと手入れすれば、まだ長く使えます」


「そっか」


 ミラさんは木べらを胸に抱いた。


「まだ、使えるんだ」


 その言葉は、木べらに向けたものなのか。

 宿に向けたものなのか。

 それとも、自分自身に向けたものなのか。


 俺にはわからなかった。


 ただ、修復したのは木べらだけではない気がした。


「ルカさん」


「はい」


「明日の朝、ご飯を作ります」


「朝食ですか?」


「はい。この木べらで」


 ミラさんは泣いた後の顔で、けれど確かに笑った。


「白狼亭の朝食です。ちゃんとした、お客様に出す朝食」


「楽しみにしています」


「期待してください。うちは昔、朝食が評判だったんです」


「それはかなり期待します」


「ただし、厨房が途中で爆発しなければ」


「それは今夜のうちに少し見ます」


「本当に働きに来てますよね?」


「落ち着かなくて」


 ミラさんは笑った。


 その笑い声に呼応するように、厨房の竈から、ぽっと小さな火が上がった。


 今度は驚かなかった。


 この宿は、少しずつ目を覚ましている。


 そう感じた。


 その夜。


 俺は食後に厨房の竈と水場だけを簡単に直した。


 竈は煤を払い、火の通り道を戻す。

 水場の桶はひびを塞ぎ、調理台の欠けを整える。


 大きな修復ではない。


 応急処置に近い。


 それでも厨房全体の空気はずいぶん変わった。


「明日、ちゃんと朝食が作れそうです」


 ミラさんは木べらを握りながら、嬉しそうに言った。


「無理はしないでください」


「大丈夫です。久しぶりに、作りたいんです」


 その言葉を聞いて、俺はうなずいた。


 人は、直せと言われても直らない。


 でも、自分で立ち上がろうとした時、少しだけ手を貸すことはできる。


 たぶん修繕士の仕事は、建物でも道具でも人でも、そこは同じだ。


 部屋に戻ると、直したベッドが俺を待っていた。


 窓の隙間風はもうない。

 ランタンの光も安定している。


 俺は工具巻きを机に置き、ベッドに腰を下ろした。


 きしみはない。


 王宮の狭い仮眠室より、ずっと落ち着く。


「……変な日だったな」


 朝は王宮を追放されていた。

 昼には乗合馬車に揺られ、夕方にはボロ宿の看板を直していた。

 夜には、亡くなった宿主の木べらの記憶を見て、女将を泣かせた。


 普通ではない。


 でも、不思議と悪くなかった。


 俺は横になり、目を閉じた。


 眠りに落ちる直前。


 また、遠吠えが聞こえた。


 低く、長く、森の奥から響く声。


 今度は一頭ではなかった。


 二つ、三つ。

 いくつもの気配が、白狼亭の周囲を囲むように動いている。


 俺は目を開けた。


 窓の外に、月明かりが差している。


 その中に、白い影が立っていた。


 大きな狼。


 いや、狼にしては、あまりにも大きい。


 その体には、黒い傷のようなものがいくつも走っている。

 毛並みは汚れ、片脚を引きずっていた。


 白い狼は、窓越しに俺を見た。


 金色の瞳。


 獣の目なのに、どこか人のような知性がある。


「……お前も、壊れているのか」


 思わず呟いた瞬間。


 白い狼は、まるでその言葉を理解したように、ゆっくりと膝を折った。


 そして、白狼亭の庭先に倒れ込んだ。


 俺は跳ね起きた。


 宿の看板が、ぎい、と小さく揺れる。


 白狼亭。


 その名を掲げた宿に、白い狼が帰ってきた。

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