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第10話 森の番人ノアは、人間を信じない

「白狼様を利用するなら、許さない」


 獣人の少女――ノアは、そう言って俺たちを睨んだ。


 灰色の髪。

 獣の耳。

 細い手足。

 けれど、その金色に近い瞳だけは鋭い。


 年は若い。


 たぶん、まだ子供と言っていい年齢だ。


 だが、その立ち方には隙がなかった。


 森で生きてきた者の立ち方だ。


 逃げる道を常に意識し、相手の動きから目を離さない。

 爪の代わりに小さな短剣を腰に差し、足元はいつでも跳べるように沈んでいる。


 俺は両手を上げた。


「利用するつもりはない」


「人間は、みんなそう言う」


 即答だった。


 重い。


 かなり深く嫌われている。


「ノアさん、でしたよね」


 ミラさんが濡れたエプロンのまま、ゆっくり前に出た。


「私はミラ。この宿、白狼亭の女将です」


「知ってる」


 ノアは短く答えた。


「人間の宿。昔は森に近づく旅人を集めていた場所」


「森に近づく旅人を、守る場所でもありました」


「守る?」


 ノアの耳がぴくりと動く。


「人間が森を守るなんて、嘘」


「嘘ではありません」


 ミラさんは静かに言った。


「少なくとも、昔の白狼亭はそういう宿だったと聞いています。森で迷った人を迎え、怪我人を休ませ、白狼様が導いた旅人に温かい食事を出す場所だったと」


「でも今は違う」


 ノアの声が低くなる。


「人間は森の木を切った。薬草を根ごと抜いた。罠を置いた。魔物を追い立てて、奥の獣たちを傷つけた」


 彼女の視線が、俺へ向いた。


「王都の匂いがする。あなたも同じ」


 俺は少し驚いた。


「匂いでわかるのか?」


「わかる。鉄と石と、嫌な魔力の匂い」


「それは……否定できないな」


 昨日まで王宮にいた。


 服にも工具にも、王都の魔導設備の匂いが染みついているのかもしれない。


 ノアは白狼の前に立ったまま、警戒を解かない。


 白狼はそんな彼女の背中を、鼻先で軽く押した。


 ノアが振り返る。


「白狼様?」


 白狼は目を細め、もう一度ノアの額に鼻先を寄せた。


 先ほどより優しい仕草だった。


 大丈夫だ。


 そう伝えているように見える。


 ノアの表情が揺れた。


「……でも、白狼様は傷ついてた。ずっと森で戦ってた。宿の人間は気づかなかった」


 その言葉に、ミラさんが息を詰めた。


 俺は胸が痛くなった。


 ノアの言葉は、刃のようだった。


 でも、完全に間違っているわけじゃない。


 白狼が傷ついていたことに、ミラさんは気づけなかった。

 宿が壊れ、自分も壊れかけていて、森を見る余裕がなかった。


 それを責めるのは酷だ。


 だが、ノアにとっては事実なのだ。


 森でずっと白狼を見てきた者にとっては。


「その通りです」


 ミラさんが言った。


 俺は彼女を見る。


 ミラさんは逃げなかった。


 濡れたエプロンの裾を握り、ノアをまっすぐ見ている。


「私は、白狼様が傷ついていることを知りませんでした。森で何が起きているのかも、ちゃんと見ていませんでした」


「……」


「白狼亭の女将なのに、白狼様のことを忘れていました」


 ノアの耳がわずかに伏せた。


 ミラさんの声は震えていた。


 でも、止まらなかった。


「ごめんなさい」


 深く頭を下げる。


 ノアは動揺したように目を見開いた。


「な、何してるの」


「謝っています」


「人間は、獣人に頭を下げない」


「私は下げます」


 ミラさんは頭を上げなかった。


「白狼様を守ってくれて、ありがとうございます。あなたが森で見てくれていたんですよね」


 ノアは唇を噛んだ。


「……別に。私は、森の番人だから」


「それでも、ありがとう」


「やめて」


 ノアは視線を逸らした。


「そういうの、嫌い」


 その言葉は冷たい。


 でも、最初の敵意とは少し違っていた。


 どう受け取ればいいのかわからない。

 そんな戸惑いが混じっている。


 白狼がゆっくりと歩き、ノアの隣を抜けた。


 そのまま湯殿の前から宿の方へ向かう。


 ノアが慌てた。


「白狼様、まだ傷が」


 白狼は振り返りもせず、尻尾だけを揺らした。


 来い、と言っているらしい。


 ノアは俺たちを警戒しながらも、白狼の後を追った。


 俺とミラさんも続く。


 裏庭から宿へ戻ると、村人たちが一斉にこちらを見た。


 まず、洗われて真っ白になった白狼に歓声が上がる。


「おお……!」


「本当に神様みたいだ」


「白狼様、すごい毛並みだな」


「さっきより光ってないか?」


 次に、ノアを見てざわめきが生まれた。


「獣人?」


「森の子か?」


「まだいたのか……」


 その言葉に、ノアの肩がぴくりと跳ねた。


 俺は村人たちの反応を見て、少し引っかかった。


 驚き。

 警戒。

 気まずさ。


 この村と森の獣人たちの間には、何かある。


 少なくとも、仲がいいわけではなさそうだ。


 村長が杖をついて近づいてきた。


「ノア、か」


 ノアは村長を睨んだ。


「まだ生きてたんだ、村長」


「そう簡単には死なんよ」


「森を見捨てたくせに」


 空気が凍った。


 村長は目を伏せた。


「……そのことは、言い訳できん」


「なら何も言わないで」


 ノアは白狼のそばに立った。


 まるで、白狼以外は全員敵だと言うように。


 ミラさんが不安そうに俺を見る。


 俺は小さく首を振った。


 今、無理に仲裁しても逆効果だ。


 まず事情を知らなければ。


「ノア」


 俺はできるだけ穏やかに呼んだ。


 彼女は警戒した目でこちらを見る。


「白狼の傷について、教えてほしい。あの黒い呪いは何だ?」


「……黒牙」


「黒牙?」


「森の奥に出た魔獣。普通の魔物じゃない。木も水も腐らせる。噛まれた獣は、黒い煙を吐いて凶暴になる」


 白狼が低く唸った。


 思い出しているのかもしれない。


「白狼様は、ずっと黒牙を森の奥へ押し戻してた。でも三年前から宿の灯りが弱くなって、白狼様の力も弱くなった」


「宿の灯り?」


「白狼亭の火。あれはただの火じゃない。森と宿をつなぐ火」


 俺は暖炉を見た。


 昨日、誰もつけていないのに灯った火。


 あれは宿の記憶が戻っただけではなく、森とのつながりも少し戻したのかもしれない。


「宿の火が消えたから、白狼が弱った?」


「そう」


 ノアは短く答える。


「人間が宿を忘れた。村も森を忘れた。だから黒牙が奥から来た」


 村人たちが黙り込む。


 誰も反論しない。


 ロザおばさんも、ガランさんも、村長も。


 それだけで、ノアの言葉に重みがあるとわかった。


 ミラさんが震える声で尋ねる。


「黒牙は、まだ森にいるの?」


「いる。白狼様がここに来たから、今は奥で止まってる。でも長くはもたない」


「どうすればいい?」


「宿の火を強くする。森の水を戻す。薬草畑を荒らさない。罠を外す。人間が森を汚さない」


 ノアは一気に言った。


 言い慣れている。


 きっと今まで何度も訴えたのだ。


 でも、聞いてもらえなかったのだろう。


「具体的には?」


 俺が尋ねると、ノアは少しだけ驚いた顔をした。


「……聞くの?」


「聞かなければ直せない」


「森は、人間の道具じゃない」


「道具とは思っていない。でも壊れているなら、どこが壊れているか知りたい」


 ノアは俺をじっと見た。


 疑っている。


 当然だ。


 俺は昨日来たばかりの人間だ。

 王都の匂いがする元宮廷修繕士。


 信用しろという方が無理だ。


 それでも、ノアは小さく言った。


「……井戸」


「井戸?」


「宿の井戸が濁ってる。あれは森の水脈とつながってる。白狼亭の井戸が死ぬと、森の浅い水も弱る」


 ミラさんがはっとした。


「井戸……ずっと濁っていて、飲み水には使えなくなっていたんです」


「いつから?」


「夫が亡くなった少し後から」


「三年前か」


 黒牙が現れた時期と重なる。


 白狼の傷。

 宿の火。

 濁った井戸。

 森の瘴気。


 全部がつながっている。


 俺は工具巻きを握った。


「井戸を見ます」


 ノアが眉をひそめる。


「直せるの?」


「わからない。でも見る」


「また、たぶん?」


「たぶん」


 横でミラさんが咳払いした。


「ルカさん」


「……できるだけ丁寧に見ます」


 ノアが少しだけ首を傾げた。


 白狼は、どこか面白そうに鼻を鳴らした。


 俺たちは宿の裏手にある井戸へ向かった。


 井戸は、湯殿よりさらに奥にあった。


 石組みの古い井戸。

 周囲には雑草が伸び、滑車は錆び、桶の縄は弱っている。


 井戸の中を覗くと、水面が暗く濁っていた。


 嫌な匂いがする。


 腐った水というより、魔力が澱んだ匂いだ。


「これは飲めませんね」


 ミラさんが申し訳なさそうに言う。


「昔は、冷たくて甘い水だったんです。夫がよく、この井戸の水でスープを作ると味が違うって」


 ノアが小さく言った。


「白狼の水」


「白狼の水?」


「森の奥から流れる水。白狼様の通り道を通って、宿に来る」


 俺は井戸の縁に手を当てた。


 石の冷たさ。


 その奥に、古い流れがある。


 澄んだ水。

 木漏れ日。

 白狼が水辺を歩く音。

 宿の主人が桶を引き上げ、笑って水を飲む姿。


 だが、その記憶は途中で黒く濁っていた。


 何かが水脈の途中に詰まっている。


 物理的な土砂ではない。

 瘴気の塊。

 呪いに近い。


「かなり深いところで詰まっています」


「直せそうですか?」


 ミラさんが尋ねる。


「井戸そのものは直せます。でも水脈の奥までは、ここからだと届かない」


「森に入る必要がある」


 ノアが言った。


「水源まで案内できる?」


 俺が尋ねると、ノアは即座に首を振った。


「嫌」


「だろうな」


「人間を森に入れたくない」


「わかった」


 俺は無理に頼まなかった。


 信用されていない相手に、森の大事な場所を教えるはずがない。


「では、まず井戸だけ直します。水源はその後で考えます」


「……それでいいの?」


「全部を一度に直そうとすると、壊すことがあります」


 ノアの耳がぴくりと動いた。


 俺は井戸の縁に両手を置いた。


 まず石組み。


 歪みを戻す。

 隙間を塞ぐ。

 苔や汚れを落としすぎず、必要な呼吸を残す。


 次に滑車。


 錆びを浮かせ、軸を戻す。


 縄と桶は限界だった。

 これは後で交換するしかない。


 最後に、水面へ修復の光を落とす。


 完全には無理だ。


 でも、井戸の中に溜まった澱みだけなら抜ける。


「戻れ」


 淡い光が井戸の内側を照らした。


 黒く濁っていた水面に、小さな波紋が広がる。


 どろりとした瘴気が、井戸の縁から黒い煙となって浮かび上がった。


 白狼が前へ出る。


 金色の瞳が光る。


 その瞬間、黒い煙は白い炎に触れたように消えた。


 井戸の水が、少しだけ澄む。


 完全な透明ではない。


 でも、さっきの腐ったような匂いは消えていた。


「……水が戻った」


 ノアが呟いた。


「まだ飲めるほどじゃない。水源を直さないと」


「でも、井戸が息をした」


 ノアは井戸を見つめていた。


 初めて、敵意以外の表情を見せている。


 驚き。

 戸惑い。

 少しだけ、希望。


 ミラさんは両手を胸の前で握った。


「白狼亭の井戸が……」


「応急処置です」


 俺は汗を拭った。


「明日以降、もう少し――」


 言いかけた時、ぐらりと視界が揺れた。


 昨夜の白狼の呪い。

 今朝の首飾り。

 湯殿。

 井戸。


 さすがに修復を重ねすぎたらしい。


 足元が崩れる。


「ルカさん!」


 ミラさんの声が遠く聞こえた。


 倒れる、と思った瞬間。


 柔らかい何かが俺を受け止めた。


 白狼だった。


 真っ白な毛並みに、体が沈む。


 雲みたいだ。


 トマの感想は本当に正しい。


「……すまない」


 俺が呟くと、白狼は呆れたように鼻を鳴らした。


 ノアが近づいてくる。


 まだ警戒した顔。

 でも、さっきより少しだけ柔らかい。


「人間」


「ルカだ」


「……ルカ」


 初めて名前を呼ばれた。


「森を直すって言うなら、倒れないで」


「努力する」


「たぶん?」


「……たぶん」


 ミラさんが横から言った。


「ルカさん」


「努力します」


 ノアはほんの少しだけ目を細めた。


 笑ったのかもしれない。


 本当にわずかだったけれど。


 こうして、白狼亭に三人目の訳あり客――いや、森の監視役が加わった。


 人間を信じない獣人少女ノア。


 彼女の信頼を得るには、まだ時間がかかるだろう。


 でも、井戸は少し息を吹き返した。


 森と宿をつなぐ水が、ほんの少しだけ戻った。


 なら、最初の一歩としては悪くない。


 白狼の背に支えられながら、俺はそう思った。

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