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第11話 壊れた厨房を直したら、料理の味まで戻った

 白狼の背中は、本当に雲みたいだった。


 ……いや、そんな感想を抱いている場合ではない。


 俺は井戸の前で白狼に支えられながら、しばらく動けずにいた。


 体の奥が空っぽになったような感覚。

 王宮時代にも、魔導炉の緊急修復後に似たような疲労を感じたことがある。


 ただ今回は、白狼の呪い、エリスの首飾り、湯殿、井戸と連続しすぎた。


 完全に使いすぎだ。


「ルカさん、本当に大丈夫ですか?」


 ミラさんが心配そうに膝をつく。


「大丈夫です」


「その大丈夫、信用できません」


「では、少し大丈夫ではありません」


「素直でよろしいです」


 なぜか褒められた。


 ノアは井戸のそばにしゃがみ込み、澄みかけた水面をじっと覗いていた。


「……井戸が息してる」


「飲める水には、まだ遠いぞ」


「わかってる。でも、さっきまで死んでた」


 ノアは指先で井戸の石に触れた。


「白狼亭の水が戻れば、森の浅い水も少し戻る。小さい獣たちが助かる」


 その言葉に、ミラさんの顔が変わった。


「森の獣たちも、水に困っていたの?」


「困ってた。黒牙が出てから、水場が腐る。弱い獣から倒れる」


「そんな……」


 ミラさんは胸元を押さえた。


 宿の井戸が濁った。

 それだけなら、宿の問題だ。


 けれど、それが森の水とつながっているなら話は違う。


 白狼亭が弱ると、森も弱る。

 森が弱ると、白狼も弱る。

 白狼が弱ると、宿を守れなくなる。


 壊れ方が、全部つながっている。


「まずは宿を整える必要がありそうだな」


 俺は白狼の背中から体を起こした。


 足元はまだ少しふらつく。


 すると白狼が、ぐい、と鼻先で俺の背中を押した。


 宿へ戻れ、ということらしい。


「わかってる。休む」


 白狼は疑わしそうな目をした。


 信用がない。


 仕方ない。


 自分でもあまり信用していない。


「ルカさん」


 ミラさんが言った。


「お昼、ちゃんと食べてください。あと、少し横になってください」


「でも、食堂の椅子がまだ」


「椅子は逃げません」


「屋根も」


「屋根も逃げません」


「厨房の竈が」


「それは……」


 ミラさんの表情が揺れた。


 竈。


 厨房の中心。


 昨日応急処置はしたが、まだ完全には直っていない。

 今日、村人たちへスープを振る舞ったことで、負担もかかっている。


 火の通り道が不安定なままでは、料理の味にも影響するし、最悪の場合は煙が逆流する。


 ミラさんは少し迷ってから、小さく言った。


「竈だけ、見てもらえますか?」


「もちろん」


「その後、休んでください」


「はい」


「本当に」


「はい」


「白狼様、見張っていてください」


 ミラさんがそう言うと、白狼は当然のように鼻を鳴らした。


 俺は神狼に監視されることになった。


 王宮にいた頃より、労働環境が厳しいかもしれない。


 宿へ戻ると、食堂はまだ賑やかだった。


 村人たちはスープを飲み終え、食器を片付け、各自できる作業を続けている。


 トマたちは白狼に乗ることを諦め、代わりに白狼の抜け毛を集めようとしていた。


「トマ、それもやめなさい」


「でも白狼様の毛だぞ! お守りになるかも!」


 白狼が低く唸った。


「すみません、今すぐやめます」


 トマは即座に手を引っ込めた。


 学習が早い。


 二階からは、エリスが降りてくる気配はない。


 まだ休んでいるのだろう。


 今はそれでいい。


 俺はミラさんと一緒に厨房へ入った。


 厨房は、昨日見た時よりも生きていた。


 調理台には野菜の皮。

 水場には洗った器。

 竈の周りには灰。

 木べらは鍋の横に置かれている。


 使われている場所の匂いがした。


 けれど、よく見ればあちこちに傷みがある。


 竈の石積みは一部が歪み、火口の奥に煤が固まっている。

 煙突へ抜ける道も詰まりかけている。

 魔導加熱板は半分眠ったままだ。


「昨日より、火の入り方は良くなりました。でも、まだ鍋の底だけ焦げやすくて」


 ミラさんが説明する。


「火が片側に寄っていますね」


「わかるんですか?」


「匂いで少し」


「修繕士って匂いでもわかるんですか」


「壊れた物は、だいたい何か言っています。音とか、匂いとか、熱とかで」


「物がうるさそうですね」


「はい。王宮はかなりうるさかったです」


 ミラさんがくすっと笑う。


 俺は竈の前にしゃがんだ。


 石に手を当てる。


 熱は残っている。

 でも、嫌な熱ではない。


 この竈は、ずっと料理をしたがっていた。


 朝食。

 昼のスープ。

 旅人用の大鍋。

 冬の煮込み。

 祭りの日の焼き菓子。


 記憶が流れ込んでくる。


 ミラさんの夫が、額の汗を拭いながら鍋をかき混ぜている。


『火は強けりゃいいってもんじゃない。相手の機嫌を見ろ』


 若いミラさんがむっとする。


『野菜に機嫌なんてあるの?』


『ある。硬い根菜は最初強め。甘みが出たら弱く。肉は焦らすと固くなる。豆は急がせると怒る』


『豆が怒るの?』


『怒る。腹の中でな』


『やめてよ、そういう言い方』


 厨房に笑い声が響く。


 次の記憶。


 雨の日、客でいっぱいの食堂。


 竈では大鍋が三つ並び、ミラさんと夫が忙しく動いている。


『ミラ、塩はまだだ』


『もう少し?』


『客の顔を見ろ。今日は冷えてる。少し濃い方がいい』


『お客様の顔で味を変えるの?』


『宿の飯は、胃袋じゃなくて旅路に出すんだ』


 いい料理人だったのだろう。


 派手ではない。


 でも、客がどこから来て、どれだけ疲れていて、明日どこへ行くのかまで考えている。


 竈は、その手順を覚えていた。


「……すごいな」


「何か見えました?」


 ミラさんがそっと尋ねる。


「旦那さんは、料理を火だけで見ていなかったんですね」


「え?」


「客の顔を見て味を変えていた。冷えた旅人には少し濃く。疲れた人には柔らかく。子供には甘く」


 ミラさんの目が見開かれた。


「それ……夫がよく言っていました」


「宿の飯は、胃袋じゃなくて旅路に出す」


 ミラさんは口元を押さえた。


 泣きそうになったが、今度は涙をこぼさなかった。


 代わりに、ゆっくり息を吸う。


「……思い出しました」


「ミラさん?」


「私、いつの間にか“食べられるもの”を作るだけになっていました。焦がさないように。失敗しないように。少ない食材で何とかするように」


 彼女は竈を見つめる。


「でも、昔は違った。お客様が寒そうなら生姜を入れて、子供がいたら果実煮を添えて、商人さんが疲れていたら豆を多めにして」


 木べらを手に取る。


「白狼亭の料理って、そういうものだったんだ」


 竈の奥で、小さな火が揺れた。


 俺は竈に手を当てたまま、ゆっくり魔力を流した。


「戻れ」


 石の歪みを整える。

 詰まった煤を浮かせる。

 火の通り道を開く。

 眠っていた魔導加熱板を、完全に起こすのではなく、料理に必要な分だけ目覚めさせる。


 強すぎる火は、料理を壊す。


 竈が覚えているのは、客を急かす火ではない。


 待つ火だ。


 煮込む火。

 温める火。

 帰ってきた人を迎える火。


 淡い光が、竈の石目を走った。


 火口の奥で、赤い火がふわりと丸くなる。


 今まで片側に偏っていた熱が、鍋を包むように整っていく。


「これで、かなり安定するはずです」


 俺が手を離すと、ミラさんは鍋に残っていたスープを少し温め直した。


 木べらでゆっくりかき混ぜる。


 香りが変わった。


 さっきまでのスープも十分美味かったが、今はさらに深い。


 野菜の甘みが立っている。

 豆の香りも柔らかい。

 干し肉の旨味が、全体に丸く広がっていた。


 ミラさんは小皿に少し取り、味見をした。


 その瞬間、目を見開いた。


「……味が、戻った」


「戻りましたか?」


「はい」


 彼女はもう一口、確かめるように味わった。


「夫の味そのものじゃありません。でも、白狼亭の味です」


「ミラさんの味ですね」


 ミラさんは頬を赤くした。


「そう言われると、なんだか照れます」


 そこへ、厨房の入口から声がした。


「その照れているところ悪いのだけれど」


 振り返ると、エリスが立っていた。


 まだ顔色は少し悪い。

 だが身なりは整えられている。


 泥だらけだった銀髪も、ミラさんが拭いたのか、かなり綺麗になっていた。


 高貴な雰囲気は隠しきれていない。


 ただ、今は借り物の簡素な服を着ているせいで、どこか不思議な親しみもあった。


「すごくいい匂いがするわ」


「エリスさん、まだ寝ていないと」


「寝ていたわ。十分」


「十分?」


「貴族の十分と平民の十分は違うの」


「それは嘘ですね」


「ええ、嘘よ」


 エリスは平然と言い、厨房の椅子に座った。


 思ったより図太い。


 ミラさんが慌てて器を用意する。


「すぐにスープを」


「ありがとう。……あら?」


 エリスは厨房を見回し、竈に視線を止めた。


「この竈、古いけれど良いものね」


「わかるんですか?」


「公爵家にも似た形式の調理炉があったわ。もっと派手で高価だったけれど、こちらの方が火の流れが素直」


「火の流れ?」


「料理人がよく言っていたの。高い魔導炉ほど偉いわけではない。素直な火が一番だって」


 ミラさんが嬉しそうに笑った。


「この竈、今直してもらったんです」


「でしょうね。さっきから厨房全体の空気が変わっているもの」


 エリスは差し出されたスープを受け取り、スプーンで一口飲んだ。


 次の瞬間、動きが止まった。


「……何これ」


 ミラさんの顔が強張る。


「お口に合いませんか?」


「逆よ」


 エリスは真剣な顔でスープを見た。


「王都の高級宿で出る料理より、体に入ってくる感じがする」


「体に?」


「ええ。無駄に飾っていない。疲れている人間が、明日も歩くための味」


 俺は少し驚いた。


 旦那さんの言葉と同じ本質を、エリスは一口で見抜いた。


 公爵令嬢というのは、味覚まで政治的なのかもしれない。


 ミラさんは胸元を押さえた。


「白狼亭の料理は、そういう味だったみたいです」


「だった?」


「今、思い出したところです」


「なら、忘れない方がいいわ」


 エリスは二口目を飲んだ。


「この味は武器になる」


「武器?」


「宿を再建するなら、目玉が必要。白狼様、湯殿、聖域化した空気、そして料理。揃ってきている」


「まだ壊れた宿ですよ」


「壊れているからこそ物語になるのよ」


 エリスはさらりと言った。


「王都の貴族は完成されたものを好む。でも旅人や商人は、“これから伸びる場所”の匂いに敏感よ。白狼亭は、その匂いがする」


「匂いなら森の方がわかる」


 いつの間にか、厨房の窓の外にノアがいた。


 入ってこない。

 外から覗いている。


 エリスは少し目を細めた。


「あなたが森の番人?」


「そう。あなたは王都の匂いが濃い」


「昨日まで王都にいたもの」


「弱そう」


「今はね」


 エリスはにこりともせず答えた。


「でも、弱いままでいるつもりはないわ」


 ノアは少しだけ目を細めた。


 警戒しているが、興味も持ったようだった。


 ミラさんが小皿にスープを入れ、窓辺へ持っていく。


「ノアさんも、よかったら」


「いらない」


 即答。


 だがノアの鼻がぴくりと動いた。


「無理にとは言いません。でも、味見だけでも」


「……毒?」


「入っていません」


「人間はそう言う」


 ノアは疑いながらも、小皿を受け取った。


 匂いを嗅ぐ。


 白狼が厨房の入口に現れ、じっと見ている。


 ノアは白狼を見た。


 白狼は鼻を鳴らした。


 食べろ、ということらしい。


 ノアは渋々スープを口にした。


 耳がぴくんと立つ。


「……森の根菜の味がする」


「ロザおばさんが持ってきてくれたものです」


「切り方が下手」


「すみません」


「でも、火はいい」


 ノアは小皿を見つめた。


「白狼様の火の匂いがする」


 その言葉を聞いて、白狼が満足そうに目を細めた。


 ミラさんは嬉しそうに笑う。


「おかわりしますか?」


「……少しだけ」


 ノアは視線を逸らしながら言った。


 少しだけ。


 だが小皿ではなく、普通の器を差し出すあたり、かなり正直ではない。


 エリスが小さく笑った。


「いい宿ね」


「まだ壊れていますけど」


 俺が言うと、エリスはスープを飲みながら答えた。


「直せるのでしょう?」


「はい」


「なら問題ないわ」


 なんとも簡単に言う。


 だが、その簡単さに少し救われた。


 王宮では、直せると言っても信じてもらえなかった。


 ここでは、直せるなら問題ないと言われる。


 同じ言葉なのに、重さがまるで違う。


 その時、食堂の方からガランさんの声が響いた。


「ミラ! ルカ! ちょっと来てくれ!」


 慌てた声だった。


 俺は厨房を出て、食堂へ向かった。


 ガランさんは玄関の外に立ち、屋根を見上げていた。


「屋根ですか?」


「いや、屋根もひどいが、それよりあれだ」


 彼が指差したのは、宿の前に続く道だった。


 村へ続く細い土道。


 その向こうから、一台の荷馬車が近づいてくる。


 見慣れない商人風の男が御者台に座っていた。


 そして荷台には、いくつもの木箱。


「商人?」


 ミラさんが呟く。


 村人たちもざわめき始める。


 荷馬車は白狼亭の前で止まった。


 商人の男は宿の看板を見上げ、驚いたように目を丸くする。


「まさか……白狼亭が開いているのか?」


 ミラさんが一歩前に出る。


「まだ正式には再開準備中ですが」


 男は食堂から漂うスープの匂いを嗅ぎ、次に暖炉の前の白狼を見て、完全に固まった。


「白狼……本当に……?」


 白狼が片目を開ける。


 商人は慌てて帽子を取り、深々と頭を下げた。


「私は王都と西方を行き来する商人、ハーゲンと申します。昔、この宿に命を救われた者です」


 ミラさんの表情が変わった。


「白狼亭に?」


「はい。十年前、吹雪の夜に」


 ハーゲンは懐かしそうに宿を見た。


「あの時、白い狼に導かれて、私はこの宿へ辿り着いた。ここの主人に温かいスープを出してもらい、命を拾いました」


 厨房から、スープの香りが流れてくる。


 ハーゲンの目が潤んだ。


「この匂いだ」


 彼は震える声で言った。


「白狼亭のスープの匂いだ」


 ミラさんは何も言えずに立ち尽くしていた。


 ハーゲンは荷馬車の木箱を指差した。


「もし再開するなら、私に手伝わせてください。食材、布、食器、修理用の金具。西方から運んできたものがあります」


「そんな、急に」


「急ではありません」


 商人は笑った。


「私は十年間、この宿に礼を言いたかった。だが、訪れるたびに宿は閉じていた。今日、看板が見え、煙突から煙が上がっているのを見て……寄らずにはいられなかった」


 白狼亭に、また一つ縁が戻ってきた。


 椅子が直れば、人が座る。

 竈が直れば、味が戻る。

 味が戻れば、記憶を持つ客が帰ってくる。


 修復とは、物だけを直すことではない。


 壊れて途切れていた縁を、もう一度つなぐことなのかもしれない。


 俺はミラさんを見た。


 彼女は目に涙を浮かべながら、それでも女将として微笑んだ。


「白狼亭へようこそ」


 ハーゲンは、深く頭を下げた。


 暖炉の火が、嬉しそうに揺れた。

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