第12話 王都帰りの商人は、白狼亭に投資したい
商人ハーゲンは、白狼亭の前でしばらく頭を下げていた。
王都と西方を行き来する商人。
十年前、吹雪の夜に白狼に導かれ、この宿で命を救われた男。
彼の荷馬車には、木箱がいくつも積まれている。
食器。
布。
保存食。
修理用の金具。
香辛料。
乾燥果実。
そして、なぜか上等な客用スリッパ。
「……用意が良すぎませんか?」
俺が思わず言うと、ハーゲンは少し照れたように笑った。
「商人というのは、必要とされそうな物を積んでおくものです」
「白狼亭が今日動き出すことを知っていたわけではないですよね」
「もちろんです。ただ、この道を通るたびに思っていました。もし、あの宿がもう一度開く日が来たなら、私は何を渡せるだろうかと」
ミラさんは言葉を失っていた。
さっきまで、村人たちの差し入れだけでも胸がいっぱいになっていたのだ。
そこへ十年前の恩人が現れて、荷馬車ごと支援したいと言われている。
普通なら、喜ぶより先に戸惑う。
「でも、こんなにいただくわけには……」
「贈り物ではありません」
ハーゲンは穏やかに言った。
「投資です」
「投資?」
ミラさんが首をかしげる。
その単語に、二階から降りてきたエリスが反応した。
まだ顔色は万全ではないが、スープのおかげか、足取りは昨日よりしっかりしている。
「投資という言葉を使うなら、条件を聞く必要があるわね」
ハーゲンはエリスを見て、一瞬だけ目を細めた。
さすが商人だ。
彼女がただの村娘ではないと、すぐに気づいたらしい。
「お嬢さんは?」
「白狼亭の客よ。今はそれ以上でも以下でもないわ」
「なるほど」
ハーゲンは深く詮索しなかった。
商人として、相手の事情を嗅ぎ取る力がある。
そして同時に、触れてはいけない事情を見抜く力もある。
これは信用できるかもしれない。
「条件は単純です」
ハーゲンは荷馬車の木箱に手を置いた。
「白狼亭が再開したら、私の商隊の定宿にしていただきたい。年に数回、西方との往復でここを通ります。その際、部屋と食事、馬の休憩場所を確保してもらえれば十分です」
「それだけ?」
ミラさんが驚く。
「それだけです」
「でも、それではハーゲンさんの得が少なすぎます」
「いいえ。商人にとって、安全な宿は金貨の袋より価値があります」
ハーゲンは真面目な顔で言った。
「この辺りは、王都と西方をつなぐには悪くない道です。ですが、途中で安心して泊まれる場所が少ない。白狼亭が戻れば、商隊の通行量は増えます。私だけでなく、他の商人も使うでしょう」
エリスがうなずいた。
「宿が整えば、道が生きる。道が生きれば、村に金が落ちる。村に金が落ちれば、さらに宿が強くなる」
「その通りです」
ハーゲンは感心したようにエリスを見た。
「お若いのに、よくおわかりで」
「たまたまよ」
嘘だ。
完全に領地経営の知識だ。
エリスは椅子に腰かけると、ミラさんを見た。
「受けるべきだと思うわ」
「でも、宿としてまだ準備が」
「準備に必要な物を持ってきてくれたのでしょう? なら、断る理由がない」
「けれど、借りを作るのは」
「借りではなく契約にすればいい」
エリスの声に、少し力が戻っていた。
「ハーゲンさんが物資を提供する。白狼亭は再開後、彼の商隊を優先的に受け入れる。宿代は通常通り取る。ただし、最初の一定期間は物資提供分を割引で相殺する」
ハーゲンが目を丸くした。
「お嬢さん、本当にただのお客様ですか?」
「今はね」
「恐れ入りました。私はその条件で構いません」
ミラさんは俺を見た。
俺は首を振った。
「俺に商売の判断はできません。でも、宿を直す材料は必要です」
「ルカさんらしい答えですね」
「王宮では予算申請が苦手でした」
「でしょうね」
なぜ即答なのか。
ミラさんは少し迷ったあと、ハーゲンへ向き直った。
「では、お願いします。ただし、白狼亭はまだ再開準備中です。最初から完璧なおもてなしはできません」
「それでも構いません」
「食事も、客室も、これから整えていきます」
「それが見られるなら、むしろ楽しみです」
ハーゲンは笑った。
「壊れた宿が戻っていく過程ほど、商人にとって面白いものはありませんから」
「商人って変ですね」
ミラさんがぽつりと言う。
「よく言われます」
それは俺の台詞だった。
白狼亭の周りには、変な人間が集まり始めている。
元宮廷修繕士。
未亡人女将。
冤罪令嬢。
人間嫌いの獣人少女。
傷ついた神狼。
恩返しに来た商人。
まともな宿からは、どんどん遠ざかっている気がする。
だが不思議と、宿らしくなっている気もした。
その後、荷下ろしが始まった。
村人たちも手伝い、木箱が次々と食堂へ運び込まれる。
「食器は棚へ。布は二階の空き部屋に。金具は作業場にまとめたい」
エリスが指示を出す。
「作業場?」
ミラさんが聞き返す。
「この宿、修繕用の場所はある?」
「裏手の物置ならありますけど、ほとんど使っていなくて」
「では、そこをルカの作業場にしましょう。修繕士がいる宿なのに、工具を広げる場所がないのは非効率よ」
「俺の作業場?」
急に話が大きくなった。
エリスは当然のように言う。
「必要でしょう?」
「まあ、あると助かりますが」
「なら決まり」
なぜか決定された。
公爵令嬢、病み上がりなのに仕切る力が強い。
ノアは窓の外からその様子をじっと見ていた。
まだ宿の中へ自然に入るほどは慣れていないらしい。
白狼のそばにはいるが、人の輪には入らない。
ミラさんが布に包んだ焼きパンを持って、そっと外へ出た。
「ノアさん、よかったら」
「いらない」
「そうですか。では、ここに置いておきますね」
ミラさんは窓辺にパンを置いて戻ってきた。
ノアはしばらく無視していたが、白狼が鼻先でパンを軽く押すと、渋々手に取った。
ひと口。
耳が立つ。
もうひと口。
尻尾が少し揺れた。
本人は無表情のつもりらしいが、全部出ている。
「美味しそうに食べてますね」
俺が小声で言うと、ミラさんは嬉しそうに笑った。
「いつか食堂で食べてくれるといいですね」
「時間はかかりそうです」
「宿は、待つ場所でもありますから」
いい言葉だった。
その言葉を聞いた暖炉の火が、ぱち、と優しく鳴った。
荷下ろしが一段落すると、俺は裏手の物置を見に行くことになった。
ガランさん、ハーゲン、ミラさん、そしてなぜかエリスもついてくる。
「エリスさんは休んでいてください」
「歩くくらいならできるわ」
「さっきまで倒れていましたよね」
「貴族は倒れてからが本番よ」
「絶対に違います」
ミラさんも苦笑する。
「無理はしないでくださいね」
「わかっているわ。倒れたらルカが修復するでしょう?」
「人間は物より難しいので」
「じゃあ倒れないようにするわ」
どうやら俺の言葉より、実務上の不便の方が効くらしい。
裏手の物置は、湯殿の手前にあった。
外壁は歪み、扉は半分外れ、屋根には穴が空いている。
中には古い工具、割れた桶、折れた椅子の部品、錆びた釘、使えなくなったランタンなどが積まれていた。
「これは……」
ミラさんが申し訳なさそうに眉を下げる。
「物置というより、壊れた物の墓場ですね」
「でも、悪くない」
俺は中へ入り、埃をかぶった作業台に手を触れた。
古い記憶が流れる。
ミラさんの夫が、夜遅くまで椅子を直している。
旅人の靴底を打ち直している。
馬車の車輪を点検している。
幼いトマが覗き込んで、釘を一本なくして怒られている。
ここは墓場ではない。
かつては、壊れたものがもう一度役目を得る場所だった。
「直せます」
俺は言った。
「ここを作業場にします」
ミラさんの顔が明るくなる。
「本当に?」
「はい。ただ、今日は大きな修復はしません」
白狼が遠くからこちらを見ている気がした。
休め、と言われたばかりだ。
俺もさすがに学習している。
「まずは片付けからですね」
ガランさんが腕まくりした。
「使える木材と腐った木材を分けよう。金具も仕分ける。兄ちゃんが直せる物と、作り替えた方が早い物も分けるぞ」
「助かります」
「礼はいい。俺もこの宿の椅子には世話になった」
「椅子に?」
「子供の頃、ここで飯食って、そのまま寝ちまったことがある。先代の旦那に毛布をかけてもらった」
ガランさんは作業台を撫でた。
「俺も、もっと早く来ればよかったんだがな」
ミラさんが静かに首を振る。
「今来てくれたから、十分です」
ガランさんは照れたように鼻をこすった。
物置の片付けは、思ったより盛り上がった。
使えそうな板材。
古いがまだ強い釘。
錆びているが修復すれば使える蝶番。
壊れたランタン。
欠けた食器。
古い宿帳。
「宿帳?」
エリスが反応した。
埃まみれの分厚い帳面を、ミラさんがそっと開く。
そこには、昔の客の名前がびっしりと書かれていた。
商人。
旅人。
騎士。
吟遊詩人。
薬師。
巡礼者。
日付、人数、食事、馬の有無、支払い方法。
丁寧な字だった。
「これは貴重よ」
エリスが真剣な顔になる。
「過去の常連、通行時期、客単価、必要な食材量がわかる。白狼亭を再建するなら、宝の山ね」
「そんな大事なものだったんですね」
「ええ。下手な金貨より価値があるわ」
ハーゲンも頷いた。
「私の名前もあるかもしれません」
皆でページをめくる。
十年前の冬。
吹雪の日。
そこに、ハーゲンの名があった。
備考欄には、短い文字が書かれている。
『白狼が連れてきた商人。凍傷あり。温めたスープ、毛布二枚。支払いは後日でよい』
ハーゲンはその文字を見て、目を伏せた。
「……本当に、私は救われたのです」
ミラさんは宿帳を胸に抱いた。
「この宿、ちゃんと生きていたんですね」
「今も生きています」
俺は作業台に触れながら言った。
「少し眠っていただけです」
ミラさんが微笑む。
その時、外で白狼が低く鳴いた。
警戒の声ではない。
呼んでいる。
俺たちは物置から出た。
白狼は裏庭の奥に立ち、森の方ではなく、宿の屋根を見上げていた。
つられて見ると、屋根の一番高いところに古い風見鶏のようなものがある。
いや、鶏ではない。
白狼の形をした小さな風向計だった。
錆びて動かなくなっている。
「あんなもの、あったんですね」
ミラさんが呟く。
村長がゆっくり近づいてきた。
「あれは白狼亭の風読みだ」
「風読み?」
「昔は、あれの向きで森の異変がわかったと言われておる。西を向けば雨。北を向けば雪。森を向いたまま動かぬ時は、魔物に注意せよ、と」
俺は屋根の白狼を見上げた。
風は南から吹いている。
けれど風読みの白狼は、森の奥を向いたまま固まっていた。
動かない。
ただの錆びか。
それとも。
ノアがいつの間にか隣に立っていた。
「黒牙が動いてる」
短い言葉に、その場の空気が冷えた。
白狼が森へ向かって低く唸る。
宿は再び動き出した。
人も、物も、縁も戻ってきた。
けれど、それは同時に、森の奥の闇もこちらへ意識を向け始めたということだった。
俺は屋根の上の壊れた風読みを見上げた。
「次は、あれを直した方がよさそうですね」
白狼亭の再建は、思っていた以上に忙しくなりそうだった。




