第13話 壊れた風読みを直したら、森の異変が見えた
白狼亭の屋根の上にある、白狼の形をした風読み。
それは、長いあいだ錆びついたまま、森の奥を向いていた。
南から風が吹いているのに。
村の旗は南風に揺れているのに。
その小さな白狼だけは、まるで何かを睨みつけるように、深い森の方角から動かない。
「黒牙が動いてる」
ノアの言葉に、場の空気が一気に冷えた。
ミラさんは胸元で両手を握り、ハーゲンは商人らしい笑みを消した。
ガランさんは屋根を見上げたまま、低く唸る。
「黒牙ってのは、そんなに危ねぇのか?」
「危ない」
ノアは短く答えた。
「噛まれた獣は狂う。水は濁る。木は腐る。森の道も変わる」
「道も?」
「黒牙が通った場所は、森が嫌がる。だから道がねじれる」
ガランさんは困ったように頭をかいた。
「森の道がねじれるってのは、職人にはよくわからんな」
「俺にもわかりません」
俺が正直に言うと、ノアがじろりと見た。
「でも、直すんでしょ」
「まずは見ます」
「またそれ」
「見るのは大事です」
白狼が、屋根の風読みを見上げて低く鳴いた。
その声は、今までより少し重かった。
急げ。
そう言われている気がした。
「ルカさん」
ミラさんが俺を見る。
「体は大丈夫ですか?」
「少し休みました」
「少し、ですよね」
「はい」
「本当は、もっと休んでほしいです」
ミラさんの声には心配が混じっていた。
俺は返事に詰まる。
正直、体はまだ重い。
井戸の修復でかなり力を使ったし、昨夜から無茶の連続だ。
それでも、屋根の風読みが森の異変を示しているなら、放っておくわけにはいかない。
ここで見ないふりをしたら、王宮にいた頃と同じだ。
壊れているとわかっているものを、誰かが気づくまで放置する。
それだけはしたくない。
「風読みだけ見ます。大きな修復が必要なら、段取りを組みます」
「……約束ですよ」
「はい」
ミラさんが白狼の方を見る。
「白狼様、見張っていてください」
白狼は当然のように鼻を鳴らした。
完全に監督役になっている。
俺はガランさんと一緒に屋根へ上がることになった。
白狼亭の屋根は、下から見た以上に傷んでいた。
瓦はずれ、木の下地は湿気を含み、一部は踏むと沈む。
ガランさんが先に上がり、安全な場所を確認しながら足場を作ってくれる。
「兄ちゃん、そこは踏むな。抜ける」
「わかりました」
「そこも駄目だ」
「ここは?」
「そこはもっと駄目だ」
「屋根、ほとんど駄目ですね」
「正直に言うと、よく今まで落ちなかったなって状態だ」
ガランさんは顔をしかめた。
「ミラには言えんが、これはかなり急いだ方がいい」
「言った方がいいです」
「そりゃそうだが、あの子、また無理するだろ」
「なら、無理しない方法で直しましょう」
ガランさんは少しだけ笑った。
「兄ちゃん、変なところで頼もしいな」
「よく言われます」
「言われてそうだ」
屋根の頂点に近づくと、風読みの白狼が見えた。
鉄と銀を混ぜたような金属で作られている。
全体に錆が浮き、軸は固まり、尾の部分が割れていた。
だが、ただの飾りではない。
近づくほど、微かな魔力の流れを感じる。
風。
森の気配。
水脈。
暖炉の火。
井戸。
白狼。
いくつもの流れが、この小さな風読みに集まっていた。
「これは……かなり古い魔導具ですね」
「魔導具なのか?」
「はい。王宮のものとは全然違いますが」
「使えそうか?」
「壊れています。でも、まだ完全には死んでいません」
俺は風読みの台座に手を触れた。
冷たい金属の奥から、記憶が流れてくる。
まだ白狼亭が賑わっていた頃。
先々代の宿主が屋根に上がり、風読みを磨いている。
『お前が森を見てくれるから、俺たちは客を迎えられる』
風読みの白狼が、風に合わせてゆっくり向きを変える。
西。
雨。
北。
雪。
南。
商隊の風。
東。
王都からの客。
そして森の奥。
危険。
風読みは、ただ風向きを見る道具ではなかった。
森と宿の間に流れる気配を読み、異変の方向を示すものだった。
白狼亭は、旅人を泊めるだけの宿ではない。
森の変化を見張り、人に知らせる境界の宿だったのだ。
「見えました」
俺は呟いた。
「何がだ?」
「この風読みは、森の異変を示す道具です。壊れているから森の方を向いたままなのかと思いましたが……違います」
ガランさんの顔が険しくなる。
「本当に、森に何かあるってことか」
「はい」
俺は風読みの白狼に手を当てた。
修復の光を流す。
だが、その瞬間、指先に嫌な冷たさが走った。
黒い。
水脈に詰まっていた瘴気と同じものが、軸の奥に絡んでいる。
「っ……」
「兄ちゃん?」
「大丈夫です。少しだけ瘴気が入っている」
「少しだけでその顔かよ」
ガランさんが焦った声を出す。
下からミラさんの声が飛んだ。
「ルカさん! 無理してませんか!」
「してません!」
即答したが、白狼が下で低く唸った。
嘘を見抜かれたらしい。
「……少しだけしています!」
「降りてください!」
「あと少しだけ!」
「その“あと少し”が一番信用できません!」
ミラさんの声はかなり本気だった。
俺は苦笑しながら、力を流しすぎないように調整する。
完全に直す必要はない。
今は、風読みが何を見ているのか確認できればいい。
軸の錆を少し戻す。
尾の割れをつなぐ。
瘴気を無理に剥がさず、風の通り道だけを開く。
「戻れ。ただし、少しだけ」
風読みの白狼が、ぎぎ、と音を立てた。
何年も動かなかった軸が、ほんのわずかに震える。
風が吹いた。
南から。
村の旗が揺れる。
風読みの白狼も、一瞬だけ南を向いた。
だが次の瞬間、ぐるりと森の奥へ向き直った。
そして、尾の先にある小さな宝珠が黒く曇る。
俺の頭の中に、景色が流れ込んできた。
森の奥。
腐った水場。
黒く変色した木の根。
倒れた鹿。
その鹿の首筋に、黒い牙の跡。
さらに奥。
古い石碑のようなものが割れている。
そこから黒い霧が漏れ出している。
霧の中で、何かが動いた。
巨大な獣。
狼に似ているが、白狼とはまるで違う。
骨ばった体。
黒い毛。
赤く濁った目。
口元から伸びる、異様に長い二本の牙。
黒牙。
その名が、自然と頭に浮かんだ。
黒牙は森の奥で、こちらを向いた。
あり得ない。
これは風読みが見ている記憶か、気配のはずだ。
向こうがこちらを見ることなどできない。
だが、その赤い目は、確かに俺を見た。
そして、口元を歪めた。
笑ったように見えた。
「――っ!」
俺は反射的に手を離した。
風読みが、がたん、と大きく揺れる。
「兄ちゃん!」
ガランさんが俺の肩を掴んだ。
足場が少し崩れ、屋根瓦が一枚落ちる。
下で村人たちが悲鳴を上げた。
「大丈夫です」
「大丈夫な奴は今みたいな顔しねぇよ!」
ガランさんの言う通りだった。
背中に冷たい汗が流れている。
黒牙は、ただの魔獣ではない。
森を腐らせるだけでもない。
こちらを見返してきた。
つまり、白狼亭が動き出したことに気づいている。
「降ります」
「そうしろ。今すぐだ」
俺たちは慎重に屋根から降りた。
地面に足をつけた瞬間、ミラさんが駆け寄ってくる。
「ルカさん!」
「大丈夫です」
「その言葉、今日はもう禁止です」
「……はい」
白狼も近づいてきた。
金色の瞳が、俺の手を見る。
指先に、黒い霜のようなものがついていた。
風読みから流れ込んだ瘴気の残りだ。
白狼は俺の手に鼻先を近づけ、ふっと息を吹いた。
白い光が触れ、黒い霜が消える。
「助かった」
白狼は鼻を鳴らした。
だから無理をするな、と言っている気がした。
ノアが近づいてくる。
「見たの?」
「ああ」
「黒牙?」
「森の奥にいた。古い石碑みたいなものが割れていて、そこから黒い霧が出ていた」
ノアの表情が変わった。
「封じ石」
「知っているのか?」
「森の奥にある。昔、白狼様が黒い獣を封じた場所。獣人の村が守ってた。でも……」
ノアはそこで言葉を止めた。
ミラさんが静かに尋ねる。
「でも?」
「三年前、人間の商会が森に入った。珍しい薬草を根ごと取った。封じ石の近くまで掘った。止めたけど、聞かなかった」
村人たちの間に動揺が走る。
ハーゲンが表情を険しくした。
「どこの商会です?」
「知らない。王都の紋章。黒い馬車。銀の鳥」
エリスが、食堂の入口で息を呑んだ。
いつの間にか外へ出てきていたらしい。
「銀の鳥……まさか、ルグラン商会?」
ハーゲンも顔色を変えた。
「王都でも大きな商会です。貴族とのつながりも深い。薬草、魔石、希少素材の扱いで急成長した……」
エリスの表情が冷たくなる。
「ディオンと取引していた商会よ」
場が静まり返った。
エリスを陥れた義兄ディオン。
彼とつながる商会が、三年前に森を荒らし、封じ石を壊した可能性がある。
偶然にしては、線がつながりすぎている。
「黒牙と、エリスさんの冤罪が関係しているかもしれない」
俺が言うと、エリスは首飾りを握った。
「父は、ルグラン商会の不正を調べていたわ」
「不正?」
「禁制素材の密売。出所不明の魔石。森の保護区から持ち出された薬草。証拠は不十分だったけれど、父はかなり核心に近づいていた」
「それで殺された?」
「可能性はある」
エリスの声は震えていなかった。
むしろ、昨日よりずっと強い。
「父の死、私の冤罪、白狼様の傷、森の黒牙。全部がルグラン商会とディオンにつながるなら、白狼亭はただの逃げ場所ではなくなるわ」
「どういう意味ですか?」
ミラさんが尋ねる。
エリスは白狼亭の看板を見上げた。
「ここは証拠の集まる場所になる」
宿の前に風が吹いた。
直りかけの風読みが、屋根の上でぎい、と音を立てる。
まだ完全ではない。
けれど、森の奥を指している。
ハーゲンが静かに言った。
「ルグラン商会なら、私も調べられます。同業者として、噂はいくつか聞いている」
「危険ですよ」
ミラさんが心配そうに言う。
「承知しています。ですが、白狼亭に恩がある私が、ここで黙っているわけにはいきません」
ガランさんも腕を組んだ。
「俺は難しいことはわからん。だが、宿の屋根と道なら直せる。黒牙が来るってんなら、まず人が逃げ込める場所にしねぇとな」
村長が杖をつく。
「村としても協力する。森を見捨てた借りを返す時じゃ」
ノアは村長を睨んだ。
「遅い」
「ああ。遅い」
「でも、何もしないよりはまし」
「そう言ってもらえるだけで十分じゃ」
ノアはぷいと顔を逸らした。
だが、拒絶はしなかった。
ミラさんは白狼亭を見上げた。
壊れた屋根。
古い壁。
直りかけの看板。
煙の上がる煙突。
「白狼亭は、宿です」
彼女は静かに言った。
「戦う場所ではありません。誰かを泊めて、食べさせて、休ませる場所です」
その声に、皆が耳を傾ける。
「でも、宿だからこそ、守りたいです。ここに逃げてきた人を。森で傷ついた白狼様を。帰る場所を失った人を」
ミラさんは俺を見た。
「ルカさん。私は、白狼亭を直したいです」
「はい」
「ただ昔に戻すんじゃなくて、今ここにいる人たちが帰ってこられる宿にしたい」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
俺は工具巻きを握る。
「直しましょう」
白狼が静かに立ち上がった。
ノアがその隣に並ぶ。
エリスは首飾りを握りしめ、ハーゲンは荷馬車の木箱を見た。
ガランさんは屋根を見上げ、村長は村人たちへ振り返る。
やることは山ほどある。
屋根。
井戸。
湯殿。
風読み。
道。
客室。
森の水源。
そして、エリスの冤罪の証拠。
白狼亭は、ただの宿ではなかった。
森と村と旅人をつなぐ、境界の灯りだった。
その灯りが戻ったからこそ、森の闇もこちらを向いた。
なら、もう一度灯すしかない。
もっと強く。
黒牙が近づけないくらいに。
俺は屋根の上の風読みを見上げた。
錆びついた白狼は、森の奥を向いたまま動かない。
けれど、その尾の先には、ほんの少しだけ白い光が戻っていた。




