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第14話 宿帳に残っていた、黒い商会の名前

 白狼亭の食堂に、古い宿帳が広げられた。


 分厚い革表紙。

 角は擦り切れ、紙は少し黄ばんでいる。

 だが文字はしっかり残っていた。


 宿泊者名。

 人数。

 馬の有無。

 食事内容。

 支払い。

 そして備考。


 ただの記録ではない。


 白狼亭が、どんな人を迎え、どんな夜を守ってきたのかが詰まっている。


「これは、想像以上に大事な資料よ」


 エリスが言った。


 病み上がりとは思えないほど真剣な顔で、宿帳をめくっている。


「商人の通行時期、旅人の流れ、天候、森の異変。全部、断片的に残っている」


「宿帳って、そんなに情報があるんですか?」


 ミラさんが驚いたように尋ねる。


「あるわ。特に備考欄。ここを書いた人、かなり観察眼がある」


「たぶん、夫です」


「良い宿主だったのね」


 エリスは短くそう言った。


 ミラさんの表情が柔らかくなる。


「はい。すごく」


 食堂には、主要な面々が集まっていた。


 ミラさん。

 エリス。

 ハーゲン。

 ガランさん。

 村長。

 ノアは窓際。

 白狼は暖炉前。


 俺は宿帳の横で、壊れたランタンを直しながら話を聞いていた。


「ルカ」


 エリスがこちらを見る。


「あなたも聞いて」


「聞いています」


「手が動いているわ」


「耳は空いています」


「本当に?」


「ルグラン商会の手がかりを探しているんですよね」


「……聞いていたみたいね」


 エリスは少しだけ呆れた顔をした。


 ただ、手を止めると落ち着かない。


 目の前に壊れたランタンがあるのだから仕方ない。


 ハーゲンが腕を組みながら言った。


「ルグラン商会は、ここ数年で急に伸びた商会です。王都では魔石、薬草、希少素材を扱っています。取引先には貴族も多い」


「ディオンともつながっていたわ」


 エリスの声が冷える。


「父は、ルグラン商会が保護区から素材を違法に持ち出している疑いを調べていた。けれど証拠が足りなかった」


「その証拠が、森にあるかもしれない」


 俺が言うと、ノアの耳がぴくりと動いた。


「森を荒らしたのは、黒い馬車。銀の鳥の紋章」


「銀の鳥……」


 ハーゲンは眉間に皺を寄せた。


「ルグラン商会の紋章は、翼を広げた銀鷲です。ほぼ間違いないでしょう」


 食堂の空気が重くなる。


 村長が杖を握りしめた。


「わしらは、あの時もっと強く止めるべきじゃった」


 ノアが冷たく言う。


「止めた。聞かなかった」


「村も、怖かったのじゃ。王都の商会に逆らえば、村の取引を止められる。税の話まで持ち出されてな」


「だから森を売った」


「……そう言われても仕方がない」


 村長は反論しなかった。


 ノアの表情が、少しだけ揺れる。


 怒りをぶつけても、相手が言い訳しない。

 それはそれで、彼女にとっては扱いづらいのだろう。


「今からでも、できることをしましょう」


 ミラさんが静かに言った。


「白狼亭は、森と村の間にある宿です。なら、どちらも見ないふりはできません」


 ノアはミラさんを見た。


「人間なのに、森のことを言う」


「人間ですけど、白狼亭の女将ですから」


「……変」


「よく言われます」


 あ、それは俺の台詞だ。


 最近、みんな勝手に使い始めている。


 エリスが宿帳をめくる手を止めた。


「待って」


「何かありましたか?」


「三年前の記録」


 エリスはページを指差した。


 そこには、他の記録と少し違う乱れた字があった。


 日付は三年前。


 ミラさんの夫が亡くなった少し後だろう。


『銀鷲の商隊、十二名。森奥の薬草採取を希望。村長より案内拒否。強引に森へ入る。白狼、夜半に遠吠え。井戸水に濁り。湯殿の火、弱る』


 ミラさんの顔色が変わった。


「この字……夫の字じゃありません」


「誰の字?」


「私です」


 彼女は震える指でページに触れた。


「でも、覚えていません。こんなことを書いたなんて」


「当時、相当混乱していたのかもしれないわ」


 エリスが柔らかく言う。


「夫を亡くした後なら、記憶が曖昧でもおかしくない」


 ミラさんは唇を噛んだ。


「銀鷲の商隊……たしかに、来た気がします。黒い馬車で、綺麗な服の人たちが。宿には泊まらず、村長さんと話して……」


 村長も苦しそうにうなずいた。


「覚えておる。あの時、わしは森の奥には入るなと言った。だが連中は、領主筋の許可があると書状を見せた」


「領主筋?」


 エリスの目が鋭くなる。


「その書状、誰の名だったか覚えている?」


「……ディオン・レイヴェル」


 沈黙。


 エリスの指が、宿帳の端を強く握った。


「やっぱり」


 その声は小さかった。


 でも、怒りが滲んでいた。


「ディオンは三年前からルグラン商会とつながっていた。森の違法採取にも関わっていた」


「でも、それだけではエリスさんの冤罪の証拠にはなりませんね」


「ええ」


 エリスはすぐに冷静さを取り戻した。


「でも線はつながった。父は三年前の件を調べ直していた可能性がある。だから殺された」


「証拠を集めるには?」


「まず、ルグラン商会が森に入った記録。次に、ディオンの許可状の写し。さらに、封じ石を壊した痕跡。そして父が調べていた資料」


 ハーゲンがうなずく。


「商会側の噂は、私が探ります。王都へ戻る前に、周辺商人へ聞いてみましょう」


「危険よ」


 エリスが言う。


「承知しています。しかし商人同士の会話なら、保安局より動きやすい」


「なら、直接ルグラン商会へは近づかないで」


「もちろんです。商人は長生きしてこそですから」


 ハーゲンはそう言って笑った。


 だが、その目は真剣だった。


 ノアが小さく言った。


「封じ石なら、私が場所を知ってる」


 全員の視線がノアに集まる。


 ノアは不快そうに耳を伏せた。


「見ないで」


「案内してくれるの?」


 ミラさんが尋ねる。


「まだ嫌」


 即答。


 でも、今までの拒絶とは少し違った。


「でも、白狼様が行くなら……考える」


 白狼が暖炉前で目を開けた。


 俺を見る。


 なぜ俺を見る。


「俺も行くことになるのか?」


 白狼は当然のように鼻を鳴らした。


「いや、俺は森に詳しくないし、戦えないぞ」


 ノアが言う。


「戦わなくていい。壊れてる場所を見るんでしょ」


「見るだけなら」


 ミラさんがすかさず言った。


「無理はしない範囲で、です」


「はい」


「本当に」


「はい」


「白狼様、お願いします」


 白狼がまた監督役の顔をした。


 完全に俺の信用が白狼以下になっている。


 いや、神狼だから当然かもしれない。


 宿帳の調査は続いた。


 三年前以降、白狼亭の記録は急に減っている。


 客数が落ち、井戸水の濁りが増え、湯殿使用停止、暖炉不調、森道危険、魔物出没。


 まるで宿が少しずつ息を失っていくような記録だった。


 ミラさんは何度も手を止めた。


 自分が書いたはずの文字に、自分で傷ついているようだった。


「ミラさん」


 俺は直し終えたランタンをテーブルに置いた。


 柔らかな光が灯る。


「これは、宿が死んでいく記録ではありません」


 ミラさんが顔を上げる。


「助けを求めていた記録です。だから今、役に立っています」


「……助けを求めていた記録」


「はい。残してくれていてよかった」


 ミラさんは宿帳を見下ろした。


 そして、小さく息を吐く。


「そうですね。書いていた私も、たぶん、誰かに気づいてほしかったのかもしれません」


「今、気づきました」


「はい」


 ミラさんは少しだけ笑った。


 その時、食堂の入口でガランさんが声を上げた。


「おい、ルカ。屋根の応急修理、今から始めるぞ」


「もうですか?」


「日があるうちにやらねぇと、夜露が入る。風読みを直す前に屋根が抜けたら笑えん」


「手伝います」


「おう。ただし、倒れるなよ。女将と白狼様が怖いからな」


 白狼が満足そうに目を閉じた。


 俺は工具巻きを取り、立ち上がる。


 エリスが言った。


「ルカ」


「はい」


「この宿帳、私が整理してもいいかしら」


「ミラさんのものです」


 ミラさんはすぐにうなずいた。


「お願いします。私だけでは、きっと読み落としてしまうので」


「任せて」


 エリスは宿帳を丁寧に引き寄せた。


「白狼亭の過去を、証拠に変えるわ」


 公爵令嬢の顔だった。


 逃げてきた令嬢ではなく、戦うために情報を集める者の顔。


 俺は食堂を出て、ガランさんと屋根へ向かった。


 夕方の光が、白狼亭の壁を照らしている。


 まだ古い。

 まだ傷だらけ。

 まだ壊れている。


 でも、昨日とは違う。


 宿帳が開かれた。

 過去の記録が掘り起こされた。

 黒牙と商会とディオンの線が見え始めた。


 壊れた宿を直すことが、いつの間にか森を救い、冤罪を晴らすことにつながっている。


 大きすぎる話だ。


 俺はただの修繕士なのに。


「ルカ」


 窓際からノアの声がした。


 振り返ると、彼女は焼きパンを半分だけ持って立っていた。


「これ」


「パン?」


「……半分あげる」


「いいのか?」


「食べないと倒れる。倒れると森に行けない」


「なるほど。ありがとう」


 俺が受け取ると、ノアはすぐに顔を逸らした。


「勘違いしないで。白狼様のためだから」


「わかってる」


「あと、ミラのスープは……悪くない」


「伝えておく」


「言わなくていい」


「たぶん言います」


「言わなくていい」


 ノアは耳を赤くして、森の方へ歩いていった。


 白狼が暖炉前からこちらを見ている。


 その目は、少しだけ面白がっているようだった。


 俺はパンを口に入れた。


 素朴で、少し甘くて、ちゃんと腹にたまる味だった。


 ガランさんが屋根の上から叫ぶ。


「兄ちゃん! 早くしろ!」


「今行きます!」


 俺は工具巻きを締め直し、屋根へ向かった。


 白狼亭の修復は、まだ始まったばかりだ。

 けれど、確かに進んでいる。


 ひび割れた屋根も。

 濁った井戸も。

 閉じた宿帳も。

 人間を信じない森の番人の心も。


 少しずつ。


 直せるところから、直していく。

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