第15話 壊れた屋根を直したら、星空の客室が戻った
白狼亭の屋根は、想像以上にひどかった。
「兄ちゃん、そこ踏むな」
「ここも駄目ですか?」
「そこは論外だ」
「屋根なのに、踏める場所が少なすぎませんか」
「だから壊れてるって言ってんだろ」
ガランさんは、屋根の上で器用に足場を選びながら進んでいた。
大工らしく、どこに体重をかければいいか一瞬で判断している。
俺も王宮で高所作業は何度もやったが、王宮の屋根は基本的に整っていた。
壊れている場所も、壊れ方が上品だった。
白狼亭の屋根は違う。
雨漏り。
歪み。
苔。
鳥の巣。
外れかけた瓦。
湿気を吸った木材。
壊れ方に生活感がありすぎる。
「これ、よく今まで雨漏り程度で済みましたね」
「雨漏り程度じゃねえぞ。たぶん室内の壁も吸ってる」
「でしょうね」
「あと、あっちの煙突周り。かなり危ねぇ」
ガランさんが指したのは、暖炉につながる煙突の根元だった。
石積みが少し沈み、周囲の屋根材が黒ずんでいる。
火の通り道が戻ったことで、今後は暖炉を使う機会が増える。
その前にここを直さないと、煙どころか火事になる可能性もある。
「まず煙突周りからですね」
「わかってるじゃねぇか」
「暖炉は宿の心臓みたいなものなので」
「いいこと言うな」
ガランさんはにやりと笑った。
俺は煙突の根元に手を当てる。
石の奥に、暖炉とつながる熱の記憶があった。
冬の夜。
雪を払って入ってくる旅人。
濡れた外套を干す木の棒。
暖炉の前で眠る子供。
湯気の立つスープ。
そして、屋根の上に上がるミラさんの夫。
『お前がちゃんと煙を抜いてくれないと、ミラに怒られるんだ』
彼は煙突を叩いて笑っていた。
次の瞬間、若いミラさんの声が下から飛ぶ。
『怒りますよ! また煤だらけで降りてきたら、夕飯抜きですからね!』
『それは困る!』
記憶の中の夫は楽しそうに笑っていた。
この煙突は、夫婦喧嘩まで覚えているらしい。
俺は思わず少し笑った。
「どうした?」
「いえ。いい煙突だと思って」
「煙突にいいも悪いもあるのか?」
「あります」
「そうか。兄ちゃんが言うならあるんだろうな」
ガランさんはもう、俺の変な発言に慣れ始めていた。
俺は煙突の歪みをなぞる。
完全に新品へ戻す必要はない。
この宿の時間を削り落とすような直し方は違う。
崩れかけた部分を支え、煙の道を整え、熱が屋根材に逃げないようにする。
「戻れ」
淡い光が、煙突の石目を走った。
沈んでいた石がゆっくり噛み合い、隙間に詰まった煤が浮き、黒ずみの奥にあった熱の歪みが整っていく。
下の暖炉が反応したのか、煙突の中を温かい空気がすっと抜けた。
「おお……」
ガランさんが感心した声を出す。
「こりゃすげぇ。煙の抜けが変わったぞ」
「応急処置です。屋根材は交換した方がいい」
「そこは俺の仕事だな」
「お願いします」
「任せとけ」
ガランさんは手早く傷んだ板を外し、持ってきた木材を合わせ始めた。
その横で、俺は瓦を一枚ずつ確認する。
割れたもの。
まだ使えるもの。
苔を落とせば戻るもの。
完全に役目を終えたもの。
王宮では、古いものはまとめて廃棄されることが多かった。
でも白狼亭では違う。
役目を終えた瓦も、庭の水はけに使える。
割れた板も、薪にできる。
金具は溶かし直せるかもしれない。
宿というのは、無駄が少ない。
壊れたものに、次の役目がある。
「ルカさーん!」
下からミラさんの声が聞こえた。
見下ろすと、彼女が両手で口元を囲んでいる。
「休憩してください! お茶を淹れました!」
その横には、白狼が座っていた。
金色の目で、じっとこちらを見上げている。
完全に監視だ。
「まだ始めたばかりですが」
「休憩です!」
ミラさんの声は有無を言わせなかった。
ガランさんが笑う。
「降りるぞ、兄ちゃん。女将と白狼様には逆らわねぇ方がいい」
「そうですね」
俺たちは屋根から降りた。
食堂に戻ると、テーブルに湯気の立つお茶と焼きパンが用意されていた。
村人たちも何人か休憩している。
エリスは宿帳に紙を挟みながら、何かを書き出していた。
ノアは窓際。
手にはミラさんの焼きパン。
もう「いらない」とは言わなくなっている。
ただし、目が合うとすぐにそっぽを向く。
「進捗は?」
エリスが顔を上げずに聞いた。
「煙突周りは応急処置しました。屋根材は交換が必要です」
「費用は?」
「木材は村で少し融通できる」
ガランさんが答える。
「ただ、全部となると足りねぇ。瓦も一部買う必要がある」
ハーゲンがすぐに言った。
「次の町で手配できます。白狼亭の再開投資分として扱いましょう」
エリスがペンを走らせる。
「なら、屋根材と防水布を優先。客室の内装より先よ。雨漏りが止まらない宿に客は泊められない」
「お嬢さん、やっぱりただの客じゃねぇな」
ガランさんが感心したように言う。
エリスは涼しい顔で答えた。
「少し帳簿が読めるだけよ」
「少しの範囲が広すぎるんだよなぁ」
俺はお茶を飲んだ。
温かい。
少し甘い香草が入っている。
「これ、美味しいですね」
「ノアさんが教えてくれた森の香草です」
ミラさんが嬉しそうに言う。
ノアの耳がぴくりと動いた。
「胃が疲れてる人間に効く」
「俺向けか?」
「そう」
即答された。
「ありがとう」
「別に。倒れられると困るだけ」
「それでも助かる」
ノアはパンをかじりながら、小さく言った。
「……なら、よかった」
その声は本当に小さかった。
けれど、聞こえた。
ミラさんも聞こえたらしく、にこにこしている。
ノアの耳が赤くなった。
「見ないで」
「はい」
ミラさんは笑顔のまま視線を逸らした。
すごく見ていた。
休憩の後、屋根作業は本格化した。
ガランさんが板を外し、俺が下地の歪みを確認する。
使える材は残し、危ない部分だけ補強する。
村の若者たちは地上で木材を切り、ロープで上げてくれる。
ミラさんは水とお茶を運び、エリスは必要な資材を記録し、ハーゲンは調達表を作る。
ノアは森側の風の変化を見張り、白狼は宿の前で悠然と座っている。
壊れた宿を、みんなで直していた。
それが不思議だった。
王宮では、修繕は俺一人の仕事だった。
壊れた場所に呼ばれ、直し、また次へ向かう。
誰かと一緒に直すことは少なかった。
でも白狼亭では違う。
俺が直せるものもある。
ガランさんにしか直せないものもある。
ミラさんがいなければ、誰もこの宿に帰りたいと思わない。
エリスがいなければ、金と人の流れが整理できない。
ノアがいなければ、森の異変に気づけない。
白狼がいなければ、そもそも宿の火は戻らなかった。
修復とは、一人でやるものではないのかもしれない。
「兄ちゃん、ぼーっとすんな。そこ押さえてくれ」
「はい」
俺は板を押さえる。
ガランさんが釘を打つ。
とん、とん、とん。
屋根の上に、久しぶりに職人の音が響く。
その音に、宿の木材が喜んでいるような気がした。
夕方近く。
屋根の一部を剥がしている時、妙な空間が見つかった。
「ん?」
ガランさんが手を止める。
「兄ちゃん、ここ見てみろ」
「隙間ですか?」
「隙間っていうか……部屋だな、こりゃ」
屋根裏の奥。
古い板で塞がれていた場所の向こうに、小さな空間があった。
埃っぽいが、思ったより傷んでいない。
天井には斜めの梁。
小さな丸窓。
床には古い敷物の跡。
「隠し部屋?」
「いや、屋根裏部屋だな。昔の宿にはたまにある。使用人部屋か、物置か」
俺は板を外し、中を覗き込んだ。
丸窓から夕陽が差し込んでいる。
そして床の中央に、古い木箱が置かれていた。
「木箱があります」
「開けるか?」
「ミラさんを呼びましょう」
宿のものだ。
勝手に開けるべきではない。
俺たちは下へ声をかけ、ミラさんたちを呼んだ。
ミラさんは屋根裏部屋を見て、目を丸くした。
「こんな部屋、知りませんでした」
「先代が塞いだのかもしれねぇな」
ガランさんが言う。
エリスも興味深そうに部屋を覗いた。
「狭いけれど、直せば使えるわね」
「客室にですか?」
「星が見える部屋。そういう売り方もできる」
「商魂たくましいですね」
「宿を立て直すのに必要よ」
エリスは当然のように答えた。
ミラさんが木箱の前に座る。
箱には、白狼の紋章が彫られていた。
鍵は壊れている。
「開けてもいいでしょうか」
「もちろん。ミラさんの宿です」
俺が壊れた鍵に触れると、かちりと音がした。
無理に壊さず、動く形へ戻す。
ミラさんが蓋を開ける。
中には、古い布に包まれたものが入っていた。
一冊の薄い手帳。
小さな銀の鈴。
それから、星図のような紙。
ミラさんは手帳を開いた。
そこに書かれていたのは、先々代の宿主の記録らしい。
『星見の間。森で迷った者が夜に方角を知るための部屋。白狼の鈴は、森へ助けを呼ぶためのもの。むやみに鳴らすべからず』
「星見の間……」
ミラさんが呟く。
エリスの目が輝いた。
「これは使えるわ」
「宿の売りに?」
「それもある。でも、それ以上に」
エリスは星図を広げた。
そこには、星の配置だけでなく、森の道と水脈が重なるように描かれていた。
ノアが息を呑む。
「これ……古い森の道」
「わかるのか?」
「今は消えた道がある。封じ石へ行く道も」
場が静まった。
星図の端。
森の奥に、小さな石碑の印がある。
俺が風読みで見た、割れた封じ石の場所と重なっている気がした。
「この星図があれば、封じ石まで行ける?」
俺が尋ねると、ノアは少し迷った。
「行ける。でも、今の森は道がねじれてる。星だけじゃ足りない」
「ノアの案内が必要ね」
エリスが言う。
ノアは黙る。
白狼が屋根下から、低く鳴いた。
ノアは唇を噛んだ。
「……白狼様が行くなら、私も行く」
それは、ほとんど承諾だった。
ミラさんは銀の鈴を両手で持った。
小さな鈴なのに、不思議な重みがある。
「森へ助けを呼ぶ鈴……」
その瞬間、鈴がかすかに鳴った。
ちりん。
澄んだ音が、屋根裏部屋に広がる。
すると、丸窓の外で風読みの白狼が動いた。
ぎぎ、と錆びた音を立て、森の奥から少しだけ角度を変える。
完全にではない。
でも、わずかに星の方を向いた。
俺は胸の奥がざわつくのを感じた。
白狼亭は、まだ隠している。
ただの宿ではない役目を。
森と旅人を守るための仕組みを。
失われたはずの道を。
「ルカさん」
ミラさんが俺を見た。
「この部屋も、直せますか?」
俺は屋根裏部屋を見回した。
埃だらけ。
床は弱り、窓枠は歪み、梁も少し傷んでいる。
でも、死んでいない。
星を見上げ、森で迷った人を導く部屋。
星見の間。
「直せます」
俺が答えると、ミラさんは嬉しそうに笑った。
「では、お願いします」
「今日は応急処置だけです」
「はい。今日は、です」
そう念を押されるあたり、やはり信用がない。
俺は苦笑しながら、丸窓に手を当てた。
夕陽の向こう、森が暗く沈み始めている。
黒牙がいる森。
封じ石が壊れた森。
ノアが守ってきた森。
白狼が傷つきながら戦ってきた森。
その森へ向かう道が、今、屋根裏の星図から見つかった。
白狼亭の屋根を直しただけのはずだった。
けれどまた一つ、宿の記憶が戻った。
どうやらこの宿は、直せば直すほど、厄介で大事なものを思い出していくらしい。




