表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/32

第16話 星見の間を直したら、森へ続く道が開いた

 星見の間。


 そう呼ばれていた屋根裏部屋は、白狼亭の中でも特に静かな場所だった。


 食堂では村人たちが屋根材を運び、厨房ではミラさんが夕食の準備をしている。

 外ではガランさんが若者たちに指示を飛ばし、裏庭ではロザおばさんが鶏小屋の位置を本気で測っていた。


 だが、この部屋だけは違う。


 埃っぽい。

 狭い。

 床は弱っている。


 それでも、丸窓から入る夕陽と、梁の隙間から見える空の色が、不思議な落ち着きを作っていた。


「ここ、嫌いじゃないわ」


 エリスが部屋の入口に腰をかけながら言った。


「休んでいた方がいいのでは?」


「座っているから休んでいるわ」


「それは王都式の休み方ですか?」


「公爵令嬢式よ」


「絶対に違うと思います」


 エリスは少しだけ口元を緩めた。


 昨日、泥だらけで倒れていた人とは思えない。

 まだ顔色は万全ではないが、目には力が戻っている。


 彼女の膝には、星図が広げられていた。


 古い紙。

 星の配置。

 森の道。

 水脈。

 封じ石の印。


 白狼亭の屋根裏から見つかったそれは、ただの星図ではなかった。


 森を読むための地図。


 そしておそらく、昔の白狼亭が旅人を守るために使っていたもの。


「ノア」


 エリスが窓際に立つ獣人少女へ声をかけた。


「この道、本当に今は消えているの?」


 ノアは少し警戒しながらも、星図を覗き込んだ。


「消えてる。木が倒れて、黒い霧が出て、獣も通らない」


「でも、元は水脈に沿った道なのね」


「そう。水が生きてた時の道」


「なら、水脈を戻せば道も戻る可能性がある」


 エリスの言葉に、ノアの耳が動いた。


「人間っぽい考え」


「どういう意味?」


「道を戻すために水を見る。森を便利に使う考え」


 エリスは怒らなかった。


 少し考えてから、静かに答える。


「そうね。私はまだ森を知らない。だから、たぶん利用する方向で考えてしまう」


「たぶん?」


「ルカのが移ったわ」


「それ、悪い癖」


「否定はしないわ」


 俺は丸窓の枠を直しながら聞いていた。


 なぜ俺の「たぶん」が悪い癖として広がっているのか。


 少し不本意だ。


「でも」


 エリスは星図に視線を落とした。


「水脈を戻せば、森の獣も助かる。宿の井戸も戻る。道も戻る。なら、人間にとっても森にとっても悪い話ではないはずよ」


 ノアは黙った。


 完全に納得したわけではない。


 でも、聞いてはいる。


 それだけで大きな進歩だと思った。


 俺は丸窓の歪みを整えた。


 木枠は湿気で膨らみ、片側が少し腐りかけていた。

 けれど、元の材は強い。


 白狼亭の古い木材は、どれも粘りがある。

 ただ頑丈というだけではない。


 長い年月、人を迎えてきた建物の芯が残っている。


「戻れ」


 淡い光が木枠を走る。


 詰まっていた窓が、すっと動いた。


 丸窓が開く。


 外の風が、屋根裏へ流れ込んできた。


 夕暮れの匂い。

 森の匂い。

 そして、ほんのわずかな黒い霧の匂い。


 ノアが顔を上げる。


「黒牙の匂い」


 白狼が屋根下で低く鳴いた。


 見えない位置にいるはずなのに、この部屋の変化を感じ取っているらしい。


「やっぱり、星見の間は森とつながっている」


 俺は床に手を当てた。


 床板の奥に、古い魔導文字が隠れている。


 文字というより、線だ。


 星の位置と、森の道と、宿の火を結ぶ線。


 ずっと埃と歪みに埋もれていたせいで眠っていたが、丸窓が開いたことで、かすかに反応し始めている。


「ここにも術式があります」


「また?」


 ミラさんが部屋に顔を出した。


 手には温かいお茶の入った小さな壺を持っている。


「白狼亭、術式だらけですね」


「昔の宿主、かなり本格的に森を見ていたみたいです」


「祖父からは、白狼亭は旅人の宿だとしか聞いていませんでした」


「たぶん、それも本当です」


 俺は床の線をなぞった。


「ただ、旅人を守るために、森の異変を見る必要があった。だからこの部屋があったんだと思います」


 ミラさんはそっと部屋を見回した。


「星を見て、森を見る部屋……」


 その声には、少しだけ誇らしさが混じっていた。


 自分の宿が、ただ古いだけの場所ではなかったと知る。

 それは怖さもあるだろうが、同時に嬉しさもあるのだろう。


「直せそうですか?」


「応急的になら」


「今日はそこまでにしてくださいね」


「はい」


 ミラさんは完全に俺の扱いを覚えてきた。


 俺は苦笑しながら、床の術式に手を置いた。


 無理にすべてを起こす必要はない。

 まずは流れを確認するだけでいい。


 星見の間が覚えている本来の姿を探る。


 夜。

 屋根裏の丸窓から星空を覗く宿主。

 隣には白狼がいる。

 下の食堂では旅人たちが眠り、暖炉が静かに燃えている。


『今夜は北の星がにじむ。森道は使わせるな』


 宿主が宿帳に書き込む。


 別の日。


 銀の鈴が、ちりん、と鳴る。


 森で迷った旅人がいる。

 白狼が屋根下から走り出し、宿主がランタンを持って後を追う。


 さらに別の日。


 封じ石の方角に黒い星が浮かぶ。


 宿主は顔を険しくし、村へ知らせに走る。


 星見の間は、ただ美しい星を見るための部屋ではなかった。


 森の危険を、星と風と水の乱れから読む場所だった。


 その中心が、床の術式。


 俺はゆっくり力を流した。


「戻れ。ただし、眠りすぎるなよ」


 淡い光が、床板の隙間を走った。


 埃をかぶっていた線が浮かび上がる。


 丸窓から差し込む夕陽が、床の星図と重なった。


 部屋全体が、ほんの少し明るくなる。


 エリスが息を呑んだ。


「星図と同じ配置……」


 床に浮かび上がった光の線は、彼女の膝の星図とぴたりと一致していた。


 ただし、一箇所だけ違う。


 森の奥。


 封じ石の周辺だけが、黒く滲んでいる。


 ノアが顔を強張らせた。


「黒牙の巣」


「巣?」


「今は、あそこにいる。封じ石の周りに黒い霧が溜まってる」


 床の黒い滲みが、ゆっくり広がる。


 俺はすぐに手を離した。


 それ以上は危険だ。


「今日はここまでです」


「珍しく自分で止めたわね」


 エリスが少し驚いたように言う。


「黒い霧がこっちに反応しました。無理に見れば、向こうにもこちらが見える」


「もう見られてる」


 ノアが言った。


 部屋の空気が冷える。


「黒牙は白狼亭が目覚めたことに気づいてる。白狼様が戻ったことも。井戸が息したことも」


 ミラさんが静かに拳を握った。


「こちらの準備が整う前に来る可能性は?」


「ある」


 ノアは即答した。


「でも、すぐじゃない。黒牙もまだ完全じゃない。封じ石から出きっていない」


「なら、時間は少しある」


 エリスが言う。


「その間にやることを整理しましょう」


 エリスは星図を畳み、部屋の床に浮かんだ光を見つめた。


「一つ、屋根と煙突の修理。宿を避難場所にするため」


 ガランさんの領分だ。


「二つ、井戸と水源。森と宿の水を戻すため」


 これは俺とノア、白狼。


「三つ、星見の間と風読み。森の異変を読むため」


 俺はうなずいた。


「四つ、宿帳と商会の調査。エリスさんの冤罪と黒牙発生の証拠を集めるため」


 ハーゲンの助けも必要になる。


「五つ、食事と寝床」


 ミラさんが言った。


 全員が彼女を見る。


 ミラさんは少し照れながらも、言葉を続けた。


「だって、みんな動くなら食べないといけません。休む場所も必要です。怪我人も出るかもしれない。白狼亭が宿としてちゃんと機能しないと」


 エリスが笑った。


「一番大事ね」


「そうでしょうか」


「ええ。戦略の中心よ。食事と寝床を軽視する者は、だいたい負けるわ」


「王都の人っぽい言い方ですね」


「公爵令嬢だから」


 ミラさんがくすっと笑う。


 ノアは小さく呟いた。


「森でも同じ。食べない獣は戦えない」


「ほら、ノアさんも言っています」


「……別に、ミラの味方じゃない」


 ノアはまたそっぽを向いた。


 だが、誰も突っ込まなかった。


 突っ込むと逃げそうだったからだ。


 その時、床の光がふっと強くなった。


 丸窓の外。


 まだ日没前の空に、一番星が見えた。


 早すぎる。


 普通なら、まだ星がはっきり見える時間ではない。


 その星の光が丸窓を通り、床の術式へ落ちる。


 ちりん。


 ミラさんの手にある銀の鈴が鳴った。


「鳴らしていません」


 彼女は驚いて鈴を見る。


 もう一度。


 ちりん。


 今度は部屋の外から、白狼が低く鳴いた。


 ノアの顔色が変わる。


「森で誰か迷ってる」


「わかるのか?」


「鈴は助けを呼ぶ音。森からも鳴る」


 ミラさんが鈴を握りしめた。


「旅人ですか?」


「違う」


 ノアは丸窓から森を見た。


 耳が鋭く立っている。


「獣じゃない。人間。複数。森の浅いところで道を失ってる」


「こんな時間に?」


 エリスが眉をひそめる。


「普通の旅人ではなさそうね」


 白狼がまた鳴いた。


 今度は少し急かすような声だった。


 俺は立ち上がる。


「行きます」


「待って」


 ミラさんが止めた。


「森に入るなら準備を。ランタン、縄、布、薬草水。あと、何か食べてから」


「今からですか?」


「今からです」


 有無を言わせない声だった。


 エリスもうなずく。


「正しいわ。救助に行く側が倒れたら意味がない」


「ルカは倒れやすい」


 ノアまで言った。


「そこまで倒れてないだろ」


「さっき倒れた」


「倒れかけただけだ」


「白狼様に受け止められてた」


「……はい」


 反論できなかった。


 俺たちはすぐに一階へ降りた。


 食堂では村人たちが夕食前の作業をしていたが、白狼の様子で異変に気づいたらしい。


 ミラさんは素早く焼きパンと干し肉を包み、薬草水を革袋へ入れる。


 ノアは腰の短剣を確認し、ランタンではなく小さな光苔の入った瓶を持った。


「森ではこっちの方がいい。火の匂いが少ない」


 エリスは行こうとしたが、ミラさんと俺とノアに同時に止められた。


「私は平気よ」


「平気ではありません」


「足手まといになるつもりはないわ」


「今は宿帳を守ってください」


 俺が言うと、エリスは少し不満そうに目を細めた。


「……言い方が上手くなったわね」


「本心です」


「なら、残るわ」


 エリスは星図を俺に渡した。


「持っていって。必要なら使えるはず」


「ありがとうございます」


「ただし、無理はしないこと。あなたが倒れると、この宿の修復計画が全部遅れる」


「心配の仕方が帳簿寄りですね」


「心配しているだけありがたく思いなさい」


 俺は少し笑った。


 白狼が玄関前で待っていた。


 洗われた毛並みは、夕暮れの中でも淡く光っている。

 脇腹の傷はまだ完全ではないが、その立ち姿は昨日よりずっと力強い。


 ノアが白狼の隣に立つ。


「森では私の言うことを聞いて」


「わかった」


「勝手に触らない。勝手に直さない。変なものを見ても近づかない」


「努力する」


「努力じゃなくて、守る」


「守る」


 ノアはようやくうなずいた。


 ミラさんが俺に包みを渡す。


「帰ってきたら、温かいスープを用意しておきます」


「それは帰ってくる理由になりますね」


「はい。だから、ちゃんと帰ってきてください」


 その言葉に、胸の奥が静かに温かくなった。


 帰ってきてください。


 王宮では、一度も言われなかった言葉だ。


「行ってきます」


 俺はそう答えた。


 白狼が森へ向かって歩き出す。


 ノアが続く。


 俺も星図と工具巻きを持ち、二人の後を追った。


 白狼亭の看板が、夕風に揺れる。


 屋根の風読みは、森の浅い方角へ少しだけ向きを変えていた。


 星見の間が目覚めた最初の夜。


 白狼亭は、再び森で迷った者を迎えに行く宿になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ